夕刻にみる無常の教訓
夕刻になって日が暮れかけてきて、西の空が赤々としているのをぼんやり見ていると、なんとも言えない胸を締め付けられるような気持ちになることがありますね。
それは、咲き誇っていた桜が儚く散る様子を見る時や、夜空の中に眩しい程に現れた花火が瞬時に消えゆく様子を見た時に感じる、「儚さ」や「無常」をしみじみと感じる感覚とよく似ていると思います。
「無常」というのは、いつまでも変わらないもの(常)は、無いという世の鉄則を教えた仏教の言葉です。
「桜の花」や「花火」は、無常を思わせる典型的な対象ですね。
しかも、桜も花火も、とても目を引く華やかなものであるだけに、そういうものがあっけなく散ったり消えたりしてゆく姿を見せられると、より強く「無常」ということを感じさせます。
「夕焼け」を見るのもまた、そんな「桜」や「花火」を見るように「無常」を思う瞬間と言えます。
「今日の一日」が、終わっていく…
そんな、一日の終わりを思わせる雰囲気が夕焼けには漂っています。
私に与えられている「今日」という一日の時間。
それもまた無常だということですね。
「今日」という一日の無常というのは、桜や花火の無常とはまたワケが違います。
なぜならそれは、私の「命」そのものだからです。
「今日」という一日が終わればまた明日、それが終わればまた明日…と続いて私たちの人生は展開されていきます。
ということは、「今日」という一日の積み重ねが「人生」そのものであり、私の「命」そのものだということです。
夕焼けを見て「今日の一日が終わっていく…」としんみりするのは、実は私の「命」の無常を見ているということでもあるのです。
仏教ではこの「無常」をごまかさずにみつめることを、とても重要視しています。
これを「無常観」と言います。
桜や花火の無常はとても象徴的で分かりやすいのですが、そういう分かりやすいものばかりではありません。
私の身の回りにあるあらゆるものが無常であり、いつまでも変わらないものは無いのですね。
愛用しているスマートフォンも時計も服も、消耗したり痛んだりして日々変化していきます。
人間関係も、いつまでも変わらないものではありません。
相手の心が自分から離れていったり、自分の心が相手から離れてしまったりで、疎遠になることもありますし、その逆もあります。
自分の健康状態もまた、変化していきます。どれだけ気をつけていても無常のは逆らえないですよね。
そして、先ほども話しました私の「命」も無常です。
これら、あらゆるものが無常であることを、ごまかさずに観ることを「無常観」と言います。
「願望」と「思い込み」とはうらはらの「現実」
自分にとって大切な人や物は、いつまでも変わらず自分のそばに在り続けて欲しいと誰もが願うことでしょう。
その願望がやがて強い思い込みにすり替わって、いつしか「大丈夫」とすっかり身を委ねてしまっていたりすることがあります。
そうなると、「大切な存在」という感覚さえも薄れて、自分のそばに在るのが「当たり前」という状態になってしまいます。
本当は「当たり前」なんてことはありえない。
無常ですから、次の瞬間に失ってしまってもおかしくはないのが現実です。
特に人間関係は、無常という危うさが非常に顕著です。
お互いが複雑な「心」をもった人間同士の関係。
これほど、どう変化するか分からない、危ういものもそうそうないでしょう。
人間の心って複雑ですよね。
「大好き」と思えた気持ちが「憎くてたまらない」という気持ちに変わることも珍しくありません。
あれだけ「一緒になりたい」という思いをお互いに抱いて、「結婚」となったのに、今度は「一刻も早く離れたい」という気持ちが極まって「離婚」となってしまう。
そういうこともあります。
「この関係が変わらず安定して続いて欲しい」
と、どれだけ願っても、どちらの心がどう変わるか分からない無常なものが人間関係です。
今、私にとって大切な人間関係も、明日はどうなっているか分からないということです。
いや、もしかしたらすでに、破綻していてそのことに気づいていないだけかもしれない。
人の心は目に見えません。
今も自分に対する信頼や好意が失われていないかなんて、確かめようがありません。
本当はすっかり気持ちは変わっていて、それを表面上取り繕っている状態なだけかもしれないのです。
それなのに、その関係にすっかり身を委ねて「大丈夫」と安心し切っている。そんなこともあるのです。
(きっと、そんなに珍しいことではないでしょう)
考えてみれば危ういものだらけです。
そんな世界を歎異抄という古典の中には「火宅無常の世界」と言われています。
「火宅」とは「火のついた家」ということで、そんな家の中にいるように不安な状態を表します。
そんな世界にありながら自分が支えとしているものに対しては、その存在を当たり前に続いていくものと思い込んで生きている。
これが私たちの実態だということです。
仏教はそのような実態を教え、無常をごまかさずに観つめることを教え勧めているのです。
「無常観」と「マイナス思考」の違い
このような「無常」の教えを「あまりにも否定的で悲観的なことを語っている」と感じる人がいてもおかしくないですよね。
いや、普通はそう思うでしょう。
そんな「無常だ」なんてことばかり考えていたら、今を楽しく生きることはできないのではないか。
ただ不安感を強めるだけで、そこから前向きな思考や行動が生まれるのか。
つまり、「無常観」は「マイナス思考」なのではないか、「ネガティブ思考」を助長するのではないか、という思いです。
さて、どうでしょうか。
本当に「無常観」は「マイナス思考」「ネガティブ思考」なのでしょうか。
先ほどから「無常を観つめる」と言っているのですが、
例えば、
「このスマートフォン、明日にも壊れるのではないか、大丈夫だろうか…」
「この人、明日には心変わりして自分のことを嫌いになるのではないか。もうすでに自分のことが嫌いになってしまっているんじゃないか。ああ心配だ。」
「この体、実は重い病気に侵されていたら、どうしよう…」
こんな風に、いたずらに心配したり不安がったり不審を抱いたりすることが「無常を観る」ということなのか、というと、そうではありません。
心配や不安や不審というのは私たちの「感情」です。
一つ一つの無常に対してそのような感情を起こすことが「無常観」ではありません。
それだと「無常感」ということになってしまいます。
読めば音は同じなのですが、「無常感」と「無常観」とは違います。
あくまで「観察」の「観」で、「みる」ということです。
「無常」という真理をごまかさずにみるということなのです。
「真理」というのは、いつでもどこでも変わらないことで、私たちの思いや感情とは無関係に成り立っているものが「真理」です。
私たちが心配しようがしまいが、不安に思おうが思うまいが、そんな思いや感情と関係なく、あらゆるものは無常であり、ただただ移ろい続けている。
そういう「真理」を仏教では教えているのですね。
その「真理」を深く理解して、ごまかさずに観ることが「無常観」です。
あらゆるものは、変化し続けている。
自分が「大事だ、大事でない」、「変わらずにあって欲しい、あって欲しくない」
そんな都合や思いとは無関係に、全て移り変わっている。今この瞬間も変化している。
変わらないものは、何一つない。
そういう世界観、人生観を持つということです。
ということは、感情的になったり悲観的になるどころか逆に、より冷静になれるのです。
そして、そういう世界観、人生観を土台とした行動こそが、後悔のない行動になるということなのです。
無常という真理をごまかさずに観つめて、その真理に基づいた人生観で生きる。
実はこれがなかなか、難しいことなのです。
自分の大切なものも含めて、あらゆるものが無常であるという真理。
これは私たちにとって都合の悪い真理と言えます。
私たち一人一人には「どうしてもこれは変わって欲しくない。このまま続いていて欲しい。」というものが必ずあります。
「そんなものは無い」と言っている人も、気づいていないだけで、無自覚に支えとしてあてにしているものが必ずあるのですね。
そういうものが「変わってしまう」というのは、これ以上なく都合が悪いのです。
ここに「真理」の非情さ、厳粛さがあります。
だから、なかなかこの真理に基づく人生観を持つことが難しいのです。
人間はなんだかんだ言って感情の生き物ですから。
私たちの都合や感情で固めた人生観で生きてしまうのですね。
そこに「無常」という真理は除外されてしまっています。
だから後悔してしまうのです。
「無常」という真理をごまかし、除外した人生観で生きるというのは、非情に危うい状態と言わざるを得ません。
その人生観が、厳粛な無常が現実化した時に必ず覆されてしまいます。
その時に起きるのが「後悔」なのです。
仏教は、そんな私たちの都合や思いと関係なく厳然として変わらない真理をえぐり出すように説きます。
それが「無常」という教えです。
その「無常」を深く理解して、自分の人生観にしっかりと取り入れていく。
これは、「マイナス思考」「プラス思考」だとか、「ネガティブ思考」「ポジティブ思考」だとか、そんな表面的なレベルの話ではないのです。
私たちが土台とする「人生観」の問題なのです。
無常という真理に基づいた人生観を持つ。
そこから、本当に後悔のない行動を生み出していく。
「ポジティブ」「ネガティブ」という言葉をあえて使うのなら、これ以上のポジティブ思考はありません。
仏教で、どのように「無常」を語り、その真理を徹底しているのか。
次回、私たちが「無常観」を持つに至るための仏教の教えそのものを、さらに掘り下げてお話ししたいと思います。