押し寄せる「他人の都合」の渦中を生き抜くために~残酷な真理に潜む鍵~

この世で最も残酷なものは…

仕事で「死亡診断書」を見ることが多いのですが、

「死亡日 令和元年5月○日」

と、「死亡日」の欄に「令和元年」が入っているのを見ると、ドキッとします。

「令和」という言葉には「つい最近」というニュアンスがまだ多分に含まれています。
「まだ令和になったばかり」という感覚ですね。

その「令和」の文字が「死亡日」に刻まれているのを見ると感じるショックというのは、
「まだ令和になったばかりなのに、もう人が亡くなっているなんて…」
そんな心情ですね。
「平成」も「令和」も構わずに訪れる「無常」にショックを受けるという感覚です。

「令和になったばかり」
なんてのは、人間の都合です。
そして、
「無常」
というのは、どうにも動かせない真理です。

本来、「真理」と「都合」とは、何ら関係のないものなのですね。
私たちの都合など一切考慮してくれないものが「真理」です。
とりわけ「無常」という真理は、私たちの「都合」や「思い」などお構いなしに私達の身に起きるものです。
そこに「無常」という真理の厳粛さがあります。

「無常」が、どれだけの人の都合や思いを裏切って起きているか、日々報じるニュースで思い知らされます。

「まだ保育園児なのに。これからの未来をみんな楽しみにしていたのに…」
「日本を代表するスポーツ選手で、日本中がその選手に期待していたのに…」
「この連休に、家族で幸せな思い出を作ろうとしていた最中なのに…」
「ようやく苦難を乗り越えて、さあこれからという時なのに…」

「こんな状況なのだから、こんなタイミングなのだから」
「だから、無事な日常が続いて欲しい。」
誰もがそんな思いを持って生きています。

そんな「思い」を驚くほどにあっさりと裏切ってしまうものが「無常」という真理です。
「無常であってほしくない」私達の思いは、種々様々ですが、いずれもいずれも人間の「都合」です。
そういった私達の都合によって、
「無常」が手心を加えてくれたり、躊躇してくれたり、そういうことは一切ありません。

「人間」相手の場面なら、人には「情け」というものがありますから、
人の都合を前にして、それなりの考慮が働くものです。
「そういう事情があるなら、猶予を与えてもいいかな…」
「この空気は…ちょっと考えた方がいいかな…」
わずかなりとも、ブレーキの役割を果たしてくれることがありますね。

だけど「無常」相手には、そういうことが一切ありません。
どんな「人間の都合」も完全に無視で、「無常」は着実に引き起こってしまいます。

そんな余りにも厳粛な「無常」を仏教では、
「情け容赦のない、飢えに狂った「猛虎」のようなもの」
とも言われたり、
「どんな対策をしても止められない「風」のようなもの」
とも言われ、「無常の風」などと表現されることもあります。

圧倒的な力を持つ獰猛な生き物や、人間の力でコントロールしようのない自然現象は、
「無常」に通ずるところがあるのですね。

仏教では、そういう「無常」という真理をごまかさずに見つめることを
「無常観」
と言われ、とても大切な教訓とされています。

私を支配する絶対的権威の正体

私達が日常的に向き合うものは、「人間の都合」と言えます。
「守るべき社会の秩序」も、その時代・その地域の価値観という「都合」のためのルールです。
「仕事の納期」なんてのは、自社と取引先との「都合」をすり合わせた結果出来上がる産物です。
「周囲から寄せられる期待」などは、周りの人間の一人一人の都合から自分に寄せられる要求と言えるでしょう。
社会の都合、会社の都合、周りの人間一人一人の都合…
考えてみれば、常に私達は「誰かの都合」に向き合って生きているのですね。

しかも、それがほとんど無意識でなされています。
「今、私はあの人間の都合に向き合って行動しているな…」
なんてことを、いちいち意識したりなんかしません。
「考えるまでもなく」私は誰かの都合のために動いているのが実態と言えるでしょう。

「人の都合」というのはそれほど、人に対しての強烈な強制力があるのですね。

「都合」というのは「人間の心」によって作られているものです。
そして、「人間の心」ほど、変化に富むものはありません。
人が違えば都合も変わります。
私の周囲に10人の人がいれば、10通りの都合が存在すると言えます。
だから、複数の「都合」の板挟みにあって途方に暮れることが多々あるのですね。
「中間管理職」が大変なのは、まさにこれです。
上の「都合」と下の「都合」は、相反するものですから、その両方と常に向き合わなければならないのが、
「会社」という組織の中で生きる人間のなんとも悩ましい宿命です。

組織でなくても、複数の人間で織りなされる人間関係は、様々な「都合」に同時に向き合って、
神経をすり減らさなければなりません。
だから疲れるのですね。
「一人になりたい」
この思いが切実な願いとして沸き起こるのも、無理はありません。

「人」が違えば「都合」が変わる、というだけではなくて、
同じ「人」でも、その人の心が変われば、都合はコロコロと変わってゆきます。
昨日まではとても好意的に接してくれていたのに、なんだか急に疎ましく思われている…
もしかしたらそれは、その人の「都合」が大きく変わったのかもしれません。

もうとにかく、面倒くさいのですね。
「面倒くさいことだらけなのが人生」
となってしまうのは、
「人の都合に向き合って生きる」
という生き方をしている以上、避けようがありません。

だから人生に必要なのは「忍耐」だということになってきます。

人生の構造上、「忍耐」するしかありません。
「自分と相反する都合」に溢れた人の世を渡っていくためには、
「都合が悪いとキレる」なんてことをやっていては、身を滅ぼす未来が引き起こるばかりです。

相反する都合に遭遇しても、まず「忍耐」すること。
そこから、「その都合に対してどう対応するか」という一手が見えてきます。
その都合に「合わせる」のも一手。「拒否する」のも一手です。
だけど、衝突する他人の都合に対していちいちイラついていては、その一手すら見えません。

だからいつの時代でも、どんな文化でも、「忍耐」が必要ない人生は考えられないでしょう。
仏教では、普遍的な「善の行い」の一つに「忍耐」を教えられているのですね。

「自分の人生」を生きるために

ただ「世の中を渡る」だけなら、「忍耐」の二文字で冷静を保ち、
次々と押し寄せる「人の都合」を、応じるなり、拒否するなり、かわすなりして、
上手に対応していくことで、なんとか生きてはゆけるでしょう。

だけど、そんな人生に疑問が沸く人も少なくないはずです。

「そんな他人の都合のために、私は生きているのか?」
「本当にそれで、自分の人生を生きていると言えるのか?」

会社の都合、家族の都合、友達の都合…
そんな「他人の都合」のために、私は生き、私は存在しているのだろうか?
そう考えると、言いようのない虚しさを感じます。

だけど私達は無意識的に、「他人の都合」を基準に行動してしまっているのですね。
ずーっと、その中で生きてきたのだから、「都合」ルールが染み付いてしまっています。

そんな私達にとって、「人間の都合」から離れたものに向き合う時間は、極めて貴重と言えるでしょう。
「無常を観ずる」
は、まさにその一つです。
「無常」という真理を見つめている時は、日頃から私達がどっぷり浸かっている「人間の都合」とは、
全く関係のない厳粛な真理に向き合っている希少な時だと言えます。

そういう真理に向き合うからこそ、他人の都合とは離れた、自分にとっての本当の価値を探ることが出来るのですね。

「死亡日 令和元年5月○日」

この一行には、大切なメッセージが潜んでいると言えるでしょう。

「平成」だ、「令和」だ、こうしなきゃ、ああしなきゃ…
そんな「人の都合」に振り回されて生きている私に対して、
「そんな都合と関係なく、いつ終わるとも知れない無常の人生。このままで本当に悔いは無いか?」
と、問いかけているのかもしれません。

そうやって「無常」と向き合った時だけは、
他人の都合と離れて、
「私が本当にこの人生でしたいことは何か?」
「何を果たせば、人生に悔い無しと言えるのか?」
この最も大切な、一人一人の問題に真剣に向き合うことができます。

そんな「無常を観ずる」時間を、大切にしたいものです。