いちばん「どうして?」と問わずにいられないことは
「自業自得っていうのは、『全部自分のせい』ということですよね?」
この理解は、正しいと言えるのでしょうか。
この「自業自得(じごうじとく)」というのは仏教の言葉で、「因果の道理」を一言で教えられたものです。
「因果の道理」は、文字通り「原因」と「結果」の法則のことで、
どんな「結果」にも、必ず「原因」があり、
「原因」があれば、必ず「結果」を引き起こすという真理です。
これが「道理」であり「真理」だから、あらゆる現象について、この「因果」の法則は成り立つのですね。
だからこそ人類は、あらゆる現象に対して、「原因」の追求をし続けてきたと言えます。
そうして、文明を発達させてきました。
「地震が起きるのはどうしてなのか」
「台風が発生するのはどうしてなのか」
「大雨が降る原因は何なのか」
「病気にかかる原因は何なのか」
「交通事故が起きるのは何が原因なのか」
「どうして物体は上から下へ落ちてゆくのか」
あらゆる「現象」に対して「どうして?」と原因を問い、その原因の解明をしてゆくのが、人間の大きな営みの一つと言えます。
そしてその前提が、「どんな結果にも必ず原因がある」という因果の法則です。
私達が「どうして?」と、その原因を問いたくなる事柄は色々ありますが、
最も私達が「どうして?」と言わずにいられないのが、私の身に起きる理不尽極まる色々な結果です。
「どうしてこんな厄介なクレームが、私に回ってくるの?」
「どうして私にこんな病気が発症するの?」
「どうして私が、交通事故の被害にあわなきゃいけないの?」
とても受け入れがたい「結果」が私の身に起きる事は、決して少なくないと思います。
そんな時、私達の心中に切実な「どうして?」が沸き起こります。
そりゃあ、色々な説明は出来るでしょう。
会社側のこういう手違いから顧客にこんな迷惑をかけて、クレームが起こったのだとか、
こういうウィルスが原因で、そういう病気が発生するのだとか、
加害者側にこういう要因があって、こんな事故を起こしてしまったのだとか、
調査をすれば、いろいろな「原因」らしきものを解明することはできます。
だけど私達の最も切実な「どうして?」は、そういう事ではないのですね。
そんな要因があって、問題や事故や事件が起きるのは分かるのだけど、
どうして私がその被害に遭わなければならないのか?
この疑問です。
そんな理不尽な結果が重なれば重なるだけ、
「どうして私が?」
「どうして、私ばかりが…?」
そんなやるせない思いが募るばかりでしょう。
そればっかりは、「運」だよ…
なんて言葉で片付けてしまう人もいるかもしれませんが、
仏教は、その「私の運命」という結果の原因は何かを、徹底的に解明しているのですね。
まさにその「私の運命」についての因果こそが、仏教が問題にする因果なのです。
「結果には必ず原因がある」
この事が「道理」であり「真理」である、と言うからには、
理不尽で不可解な「私の運命」についても、必ずその「原因」があると言えるわけですから、
仏教は、その問題にこそ、徹底的に因果解明のメスを入れていきます。
「業(ごう)」に込められた計り知れない重み
私の身に起きる、いわゆる「運命」についての因果を明らかにしている言葉が、「自業自得」です。
私の人生に、次から次へと、「幸」「不幸」さまざまな「結果」が引き起こる。
納得できるものもあれば、理不尽極まりないものも、実に様々な「運命」が引き起こり、私達の人生は展開されていきます。
その「運命」を引き起こす原因は何か。
仏教ではその原因を、「業(ごう)」だと言われます。
この「業(ごう)」という言葉の響きは、なんとも重々しいものがありますね。
「業火に焼かれる」とか
「業を背負って生きている」とか
「業を煮やした」とか
「人間の業の深さ」だとか
あんまり軽いノリで「業(ごう)」という言葉を使う場面はなさそうな気がします。
深刻で重苦しい響きを帯びるのが「業」という言葉なのですが、
それもそのはず、その「業」こそが、私の人生の悲喜こもごもの「運命」を生み出している「種」なのだから。
これほど重い意味を持つモノはないのかもしれません。
「業(ごう)」とは、「行い」のことです。
私達の「行為」全般、すべてを指して仏教では「業」と呼ぶのですね。
「なんだ、どんな深い意味があるのかと思ったら、ただの『行い』なのか」
と拍子抜けするでしょうか。
確かに「行い」です。
それ以上でもそれ以下でもない。
ただ「行い」のことを仏教で「業」と呼びます。
ですが、あなたが仏教の教えを詳しく知れば知るだけ、その「ただの行い」の認識が変わって来るでしょう。
「行い」なんて、私達は常に、何気なくやっておりますよね。
朝起きるのも「行い」だし、顔を洗うのも「行い」だし、着替えるのも「行い」。
買い物をするのも「行い」だし、ご飯を食べるのも「行い」です。
「今、私は『業』を造っているのだ…」
そんなことをいちいち考えて「行い」をしている人はいないはずです。
だけど、
その「行い」を突き動かしているものは何でしょうか?
それは、私の「心」ですよね。
私の「思い」が、「心」が、色々な行動となって現れているはずです。
では、どんな「心」がそんな行動を動かしているのだろうか?
その「私の心」を、さらに掘り下げて観察してゆくと、表面的な「思考」や「判断」の底にある、もっと深い人間の「本心」に行き着きます。
「人間の心」の解明は、心理学の分野でも進められていて、近年は昔では想像もつかなかったような「無意識」や「深層心理」と呼ばれる深い心の領域が教えられています。
ところが仏教は、そんな「深い心の領域」について、今の心理学者が驚くほどに詳細に解明されているのですね。
そんな仏教の教えを理解すればするほどに、「人間の心」の根の深さに気がつくことでしょう。
何気ない「行い」の一つ一つが、実は極めて深い「本心」が引き起こしている一つ一つの「行い」だと分かります。
どんな「行い」も、掘り下げれば根っこは深いと言えるのですね。
そして、それらの「行い」をするという事は、私の人生における「原因」を造ってゆくという事なのですね。
それは、「私の運命」という「果実」を実らせる「種」を蒔くようなものだと喩えられます。
それで「業」の事を「種」にたとえて「業種子(ごうしゅうじ)」とも呼ばれます。
一度撒かれた「業」の種は、決して消えて無くなることはありません。
「結果」には必ず「原因」がある。
「原因」があれば必ず「結果」を引き起こす。
これが「因果」の鉄則でしたね。
「業」という「種」が、「結果」を引き起こすことなく消えてしまうなど、あるはずがありません。
決して消えること無く私の中に残り、必ず私の「運命」を引き起こします。
そういう強力な「力」を持ったものが「業」なのですね。
「業」にそのような「力」があるということは、私達の「行い」一つ一つには、それだけの重みがあるということです。
「自業自得」は決して責める言葉ではない
「自業自得」とは、そんな私達の「行い(業)」と「運命」との関係を一言で表されたものなのですね。
自分の「業(行い)」が、自分が得る「運命」を生み出してゆく。
自分に現れた結果は全て、私の「業(行い)」が生み出したもの。
これが、自業自得ということです。
「じゃあやっぱり、自業自得は『全部私が悪い』ってことじゃないですか?」
と思われるかもしれません。
だけど、
不幸や災難が次から次へと現れて、辛い思い一杯の人に対して、
「すべてお前の自業自得。お前が悪いんだ!」
なんて言っても、何の救いにもならないですよね。
また、
「すべて私の自業自得。全部私が悪いんだ…」
と思うのもまた、余計に自分で自分を追い詰めてしまうような気もします。
「自業自得」という言葉を、
他人を責める言葉として使ったり、自分を責める言葉として想起したり、
「追い詰める言葉」として使ってしまうケースが、どうも多いような気がするのですが、
「自業自得」は決してそんな、人を追い詰めるような言葉ではありません。
まず大切なことは、先程から説明しているような「自業自得」の意味とその詳しい仕組みをよく理解することです。
「業」とはどういうもので、
どんな理屈で自分の業が、自分の運命を生み出してゆくのか。
そういう「自業自得」を解明された「教え」をよく理解することです。
そういう理解なしに、ただ結論だけの理解で、
「自業自得だ!」
と、やたらとその言葉を振りかざしているのでは、場合によっては、ただの「言葉の暴力」にすらなってしまいます。
「『自業自得だ』と他人から言われて深く傷ついた」
「『自業自得だ』と思いすぎて、余計に辛くなった」
こういう事が確かに起きているのですが、「自業自得」という言葉そのものが悪いのではありません。
その言葉を、他人や自分を「責める言葉」として使う事が間違っているのですね。
仏教は、「責める」教えではありません。
仏教が教え勧めていることは、「諦観(たいかん)」することです。
「諦観」とは、「あきらかに、みる」ということです。
「因果」を、あきらかに観ることを「諦観」といいます。
たとえば、職場でやたらと上司から目をつけられて、ガミガミ言われるという結果が私に起きているとすれば…
「どうして自分に、こんな結果が現れたのだろう?」
「あの人でもない、この人でもない、他ならぬ『私』に、どうしてこんな結果が現れているのだろう?」
「『私』に、どんな原因があったのだろうか?そこをどう改善すれば、結果を変えられるのだろうか?」
と、結果を良くする方向への思考になってゆくでしょうし、
また、
「もしかしたら、私の大切にしている『行い』が、どうしてもそういう結果を招いてしまうのかもしれない。」
「だけどこの『行い』だけは譲れない。ならば、自分の目指す結果に伴うリスクと理解して、今は忍耐の時なのかもしれない」
と、その結果の受け止め方が変わって、より自分の求める結果へ向かって進むような思考になってゆくでしょう。
自業自得の道理を「諦観」し、自分の「業(行い)」という原因をつぶさに見つめてゆく事から、
その「行い」を、
変えるのか、
止めるのか、
それとも、あえてより貫くのか、
自分の本当に望む結果に向けて、自分の責任の元に「決断」をすることが出来るのですね。
要は、つまずいた時やストレスに見舞われた時に、
いかにして自ら「決断」をし、自分の望む未来への道を切り拓いてゆくか、という事が大切で、
そのためにどうしても必要なのが、「自業自得」の道理を諦観することです。
他人を責めてばかりいても、始まりません。
自分を責めてばかりいても、やはり辛くなる一方で、前には進めません。
そんな感情的なモヤモヤから、「因果を諦観する」思考へとシフトすることが肝なのですね。
そのために、「因果」の仕組みを、「自業自得」の仕組みを深く理解し、自分のものにすることが大切なのです。
「自業自得」は、他人を責める言葉でも、自分を責める言葉でもない。
「因果を諦観する」ための「教え」である、ということだけは、ここでよく知っていただけたらと思います。