ストレスに折れない人の心の習慣〜心がザワついたら「これ」〜

「心のザワつき」最小限化へのアプローチ

「うわあ…これ、どうする…」
と、急激に心がザワつき始める出来事が、最近どのくらいあったでしょうか。

仕事中に、極めてやっかいな案件が転がっているのを見つけてしまった時
自分や部下のミスで、大きな問題に発展しそうになっていることに気づいた時
自分の名前の偽アカウントがネット上に現れているのを発見した時
家族が多額の借金を作ってしまっていることを知った時
恋人の浮気を目撃してしまった時
健康診断で「要再検査」通知を受けてしまった時

…色々ありますよね。

できれば心穏やかに生活していきたいのですが、
「問題発生」のセンサーが反応してしまった瞬間に、心はザワつき始めますね。

表情はごまかせても心はごまかせないもので、抗いようもなく、心はザワザワと嫌な動きを始めます。
その瞬間からストレスはどんどん増してゆきます。
その「問題」が、「問題」として存在している限りはストレスは消えることなく、ずっとついてまわります。

これが人生において、大きな「枷」となってしまいます。

目指したいものがあっても、大切にしたいものがあっても、
その「問題」に自分のエネルギーや気力を奪われて、本当に注ぎたいところになかなか力を注げない。
歓迎しない「問題」は、あっちにもこっちにも現れて、その都度ストレスは増し、エネルギーは目減りします。

そんな「問題発生」そのものは、どうしても無くせるものではないのですね。
一つ乗り越えてもちゃんと、次に、また次にと「ご新規」の問題発生は後を絶たないように人生は出来ているようです。

そんな人生を生きている私たちの課題は、
それら「問題発生」を前にした時に、
ザワつきを極力減らして、
ストレスを極力引きずらない、
そんな自分になることです。

そのためのアプローチが2つ考えられます。

1つは、
「問題」が「問題」にもならない程の智恵を身につけること。
つまり、知識経験を積み重ねて、自然体で対応できる範囲を広げてゆくことです。

「クレーム対応の達人」と言われる人にとっては、
顧客からのクレームが始まった瞬間から、やるべきことはすでに見えているようですね。
「相手の不満をよく受け止めて、心から謝り、その上で相手の怒りのポイントを探ってゆき…」
こういう「鉄則」を踏んだ実践を何百回も繰り返して、行動の道筋は自然と見えてくる。
ただその道筋を、時折修正しながらも辿ればいい。
そんなレベルにもなれば、一つ一つのクレームはもはやその人にとっては、
ストレスを起こすまでもない出来事と言えるのかもしれません。

これが、知識と経験によって培われた「智恵」の力と言えるでしょう。
そんな智恵が身につけばつくだけ、「問題」はどんどん「問題」でなくなってゆくでしょう。

だけど、そんな智恵がつくまでは、どうしても立ちはだかる「問題」だらけで、
そこから心のザワつき、ストレスの増大は免れられません。
いや、たとえ智恵がついてきても、その智恵を上回る「未知の問題」は、後を絶ちません。

そこで、もう1つのアプローチが必要となります。
それは、そんな現存の智恵を上回る「問題」が必ず出現することを前提に、
その「本当の問題」に対応するための思考パターンを身につけることです。

それさえ身につけていれば、たとえ心のザワつきが始まっても、すぐに持ち直すことができます。
ある意味、そんな力こそが真の「智恵」と言えるのかもしれません。

「迷い」「ザワつき」の最中にとるべき選択は一つ

慣れきった日常的に発生する「問題」への対処のように、
確たる行動の道筋がすぐには見えれば、さほどのストレスもザワつきもありません。

ところがそんな慣れきった解決パターンを逸脱するイレギュラーが飛び込んで来るのが人生で、
そいつを前にした時、未知の問題であるが故に、行動に対する「迷い」と「不安」は拭えません。
そしてそのモヤモヤこそが、ザワつきとストレスを生み出す根源です。

そのモヤモヤを晴らす道は一つ。
「決断」をすること以外にありません。

…なんか、身も蓋もない話のように思うかもしれませんが、
未知の問題が出てくることはもう仕方がありません。
自分のとるべき行動に、始めから確信が持てないのも仕方がありません。
だけどこれはもう「えいっ」と決断するしか、無いのですね。

さもなくば、
その問題を見てみぬふりして、収まるのを期待してやり過ごすのか。
ひたすら他人のせい、環境のせいにして、ただ怒るばかりなのか。
そのいずれかになってしまいます。

自ら「決断」をしない。
ということは、そういうことなのですね。
そもそも問題に向き合わない、無かったことにしてしまう。
それとも
「私は被害者」という態度を決め込んでしまう。
このいずれかの状態に、ただ陥るだけです。
そしてその状況がまさに、ザワつきとストレスを永続的に長引かせる温床です。

本当に、無視していい程度の事ならそもそもそれは「問題」ですらないのでしょうが、
私の「問題」である以上、それは放置しても消えることなく、状況は悪化するばかりですね。
いつまでもいつまでも心にチラついて、言いようのない不安は増大していくばかり。
心のモヤモヤが晴れる道理はなく、エネルギーはだだ漏れで、ストレスは増大する一方です。

「被害者」の態度を決め込むのも同じ事ですね。
モヤモヤした感情を、「加害者を責める」という形でぶつけても、モヤモヤは増えこそすれ減りはしません。
「問題」は、もっと嫌な形で自分の首を締め始めるハメになり、にっちもさっちもいかなくなります。

ならば、取るべき道は一つ。
その問題に対して、「私のとるべき行動」を決断することです。
その「決断」が、善い決断となるか悪い決断となるかは、次の問題です。
その決断の善し悪しの内容以前に、
「問題に向き合って、自らの決断をする」
というスタンスを持つことが、最も重要なことです。

「決断する」とは道理に沿った思考をすること

未知の問題を前に「決断」をすることは、怖いことです。
そのことは、その問題を自らの責任の元に「引き受ける」という事も意味するのですから。
そして、その決断が間違っていたら、その行動の結果も自分の責任として受け入れなければなりません。

どこかに、「自分の責任じゃない」「私の問題じゃない」という逃げ道を残しておきたいものですから、
その「逃げ道」を自ら断つような「決断」などしたくない思いは、誰でもあります。

だけど本当は、自分に「問題」が起きている時点で、それを明確に引き受けるにせよしないにせよ、
すでに「私の」問題であり、自分のこれまでも行いが至らしめた結果なのですね。
このことを「自業自得」と仏教では言われます。

自分に起きた「問題」は、それが自分に起きた以上、自分のしてきた行動や選択の末に至った「自分の問題」である。
このことを、ただの「一つの教訓」としてではなく、曲げられない法則であり真理として説くのが仏教です。

見てみぬ振りをしようと、「被害者」の態度を決め込もうと、
自分の人生に浮上した問題は、「自業自得」の道理に則って、自らに現れた結果であるという事実はどうにも曲げられません。
「決断をする」
ということは、この「自業自得」の道理に沿った思考をすることに他なりません。
「道理」から逃げたい一杯の私たちが、その道理に沿った思考にシフトすることは、怖いものです。

だからこそ、その恐怖に打ち勝って、「決断する」に至れた人だけが、
ザワつきやストレスが一気に解消してゆく境地を知ることができるのですね。

「決断」をした瞬間から、少しずつでも自分の目の前に行動の「道筋」が出来はじめます。
その「道筋」は、いつもの「慣れきった問題」を乗り越えるような道ほど明確なものではありません。
だけど、たとえわずかでも、おぼろげでも、
「踏み出すことの出来る道がある」
このことが、どれほど救いになることか知れません。
「無い」のと、たとえわずかでも「有る」のとでは、雲泥の違いです。

これが、自分なりに精一杯「自業自得」の道理に沿った道を歩み始める瞬間です。
心のモヤモヤが晴れてくる瞬間です。

これは、自分が「決断」をした事によって得られる結果です。
他の人がどれほど決断しても、こうはなりませんし、誰も代わりに私の「決断」などしてくれません。
他ならぬ「私が」決断したからなのですね。

心をザワつかせるイレギュラーな問題が起きた時にも、
その「問題」を見て見ぬ振りをするでもなく、
「被害者」の態度を決め込むでもなく、
「自分のとるべき行動」を決断できる。
「自業自得」の道理を土台に、このスタンスを身に着けた人こそ、本当の「強さ」を持つ人といえるでしょう。