「無限の可能性」が「ただの言葉」でなくなる時
心のどこかで、
「私の人生って、まあこんなもんかなあ…」
という思いが、明確に言語化されないまでも、無声の囁きみたいに動き続けている…
目立たないけれども厄介極まるこの「心の枷」が、知らず知らずに
思いを縛り、発言を縛り、行動を縛り、
動かしようもない未来の“方向性”みたいなものを形成し、自覚もなくそのコースに沿って、ただ歩んでしまう。
そんな、「人生だいたい先が見えちゃった」モードに入り始めてしまうタイミングが、
すでに来てしまっている人、今まさに来てしまっている人、これから始まりそうな人
それぞれあるかと思います。
「何それ?そんな感覚とは無縁だね」
と言い切れる人は、本当に凄いと思います。
「なんとなく、先が見えちゃった」という感覚に陥ってしまうのは、特定の性格というよりも、
人間が普遍的に持つ“弱さ”なのだから。
それが、小学生ぐらいの頃から顕著に陥る場合もあれば、
高校ぐらいまで過ごしてぼちぼち明確に形成される場合もあれば、
社会人数年目ぐらいだったり、自分の出世コースの限界が見える頃だったり、定年が近づいた頃だったり。
どこかで、自分の人生の可能性に一定の「見切り」をつけ始めてしまうことを、誰が責められるでしょうか。
「無限の可能性」「何度でも生まれ変われる」なんて言葉はあってでも、自分の現実に引き当てると、何の現実味もない「ただの言葉」になってしまいます。
いつまでも、本気で、「無限の可能性」を信じられる人が一体、どれほどあるでしょうか。
けれどもし、そんな「見切り」など一切抱くことなく、
いつまでもいつまでも心の底から、「自分の無限の可能性」を信じ続けられることが出来たとしたら…
これは、“物凄い事”になります。
厄介極まる“心の枷”から自由となっている人は、
見えているものが格段に広くなり、気づける事が格段に多くなり、
普通だったら素通りしてゆくようなところで、可能性を大きく広げる“道”を見つけ、「ここぞ」とばかりにそこを爆走することが出来ます。
「そんなことが出来る人は、ごく一部の選ばれた人じゃないか」
と思われるかも知れません。
天性の「無限の可能性を確信できる感覚」を持っている人は、確かにいます。
生まれつきなのか、特殊な環境なのか、誰かの影響なのか、
「なんでも出来る」を、当然のように確信しているような人が、確かにいるのですね。
俗に言う「変人」なのでしょう。(こういう人に対しては「変人」は最高の褒め言葉になるらしいです。)
カリスマ的な人、時代に変革を起こす人は、この類が多いでしょう。
だけど、そんな生まれつきの才能のような感覚もなければ、平凡な環境で生まれ育って、
家庭の暮らしも、仕事も、趣味も、ライフワークも、
だいたいの“限界”がぼんやり形成されてきて、いつしか「人生だいたいこんなもんかなあ…」
という感覚が形成されてゆく。
こんな場合がほとんどですよね。
だけど、そのなんとなく出てくるように思われる「人生、先が見えちゃった」感
その“出どころ”となる原因が明確に分かっていたら、どうでしょうか。
その“原因”を取り除く方法を知っていたら、どうでしょうか。
そういうことを徹底的に追求し、徹底的に説き明かすような“知識”に出会えたらどうでしょうか。
きっとその時、“知識”は本当に人間の最高の武器なんだと、心から思えることでしょう。
古代インドより形成されてきた「決定論」
古来より、「人生だいたい先が見えちゃった」感を人間の“迷い”だと断じて、それを徹底して破る教えがあります。
これがインドに発祥した「仏教」という教えです。
今から2600年前のことですが、現代と変わらず、
「未来なんてもう動かせないよ」
という迷いに陥る思想が、インドでも根強くありました。
いわゆる「決定論」と言われる迷いです。
これは数ある「運命観」の一つなのですが、
「未来を自分の意思で動かすことは、不可能」とする考え方です。
そんな「決定論」にも色々ありまして、
たとえば“神”という絶対的な運命の“決定者”が存在して、私たちの運命は完全に支配されているという思想は、とても分かりやすい「決定論」ですね。
ただこの思想は、西洋のキリスト教圏を中心とした思想で、我々東洋ではそんなにメジャーではないでしょう。
ですが、我々の東洋に最も根強いと思われる「決定論」がもう一つありまして、
「過去の業(ごう)によって、未来の運命は全て決まってしまっている」
この「決定論」です。
仏教についての知識のある人ならもしかしたら、
「おや?これは仏教で教えていることでは?」
と思われるかも知れません。
「自業自得」という仏教の教えがありまして、「自らの業が、自ら受ける未来の運命を生み出してゆく」という道理を教えたものなのですが、これと同じように思うかも知れません。
しかし上記の決定論は、この「自業自得」の道理とは全く異なります。
仏教の立場から言えば、道理に大きく反する“迷い”に他なりません。
一見、仏教思想と似ているだけに、この「決定論」がインドでもそうですし、この日本でも、少なからず影響を及ぼしているのですね。
私たちがなんとなく抱き始めてしまう、
「人生、だいたい先が見えちゃった…」という感覚。
「だいたい」とは言っていても、この「だいたい」は、実質的にほぼ「決定」なのですね。
言葉ではちょっと曖昧な言い方にしてはいても、根底にある“迷い”は、
「もう未来は動かせない、もう未来は決定している」
という“運命の固定化”に他なりません。
それは紛れもなく「決定論」に当たる“迷い”の現れと言えるでしょう。
心のどこかに、運命を固定化してしまう“迷い”があるのではないか?
そう気づき始めたなら、しめたものです。
“原因”に気づきロックオンして、ぶち破る準備が出来たのですから、
ここからますます“知識”の武器が生きてくるはずです。
「自業自得」と「決定論」の違い目は
「業(ごう)」とは私たちの「行い」のことで、
人生はある意味「行い」の連続、「業」の連続なのですね。
20年間生きてきた、ということは20年分の「業」を積み重ねてきたということです。
子供の頃から今まで、いろんなことを思ってきました。
その思いの連続から、ある種の「思考パターン」が形成されてしまっているのかも知れません。
「口ぐせ」なんて言葉がありますが、これは「発言」という「業」の習慣であり積み重ねです。
癖になって、いっつも同じような場面で同じようなことを呟いてしまいがちです。
また「逃げ癖」「喧嘩癖」「ナンパ癖」と言われるような、特定の場面でだいたい同じ行動に出てしまうような「行動」の習慣もあります。
「業」は、ついつい繰り返しがちなものです。
そんな「業」が、未来の明暗を分かつ“種子”になると教えるのが、「自業自得」と言う教えです。
「行為」だけは、決してごまかしは効かない。
どれだけ隠蔽しようと、考えないようにしても、忘れないようにしても、
一度造られた“種子”という“原因”を消す術は無く、いずれその行為に応じた報いを受けることは避けようがないと教えるのが「自業自得」の道理です。
よく知られ、語り継がれた「自業自得」の熟語とともに、
「過去の行いは、未来に報いる」
という考え方は、日本人には強く定着していると言えるでしょう。
それは、確かに間違いのない道理として仏教でも教えられることです。
ですがその道理に、こんな誤解を入れてしまうと、たちまち「決定論」の迷いに陥ってしまいます。
すなわち、
「自分がこれから造る“業”も、変えることはできない」
これです。
これは、自業自得の理解に伴って、陥りやすい“迷い”なのですね。
「業の報いは、避けられない」
ということと、
「未来に造る業は、変えられない」
ということとは、全く違います。
前者は道理ですが、後者は、はっきり言って“迷い”です。
先ほどの、
「過去の業によって、未来の運命は全て決まってしまっている」
という「決定論」は、まさにここから形成されます。
これはいわば、
「過去に造った“業”が、未来に造る“業”をも決めてしまう」
という誤りです。
もし、未来に造る“業”までも、過去に造った“業”が全部決めてしまうのであれば、
過去に造った“業”によって、未来の全ての運命は決定してしまい、自分の意思で未来を変えることは不可能ということになります。
これから、未来に向けてどんな“業”を造るのか。
どんな“種子”を未来に向けて蒔いていくのか。
このことは、まだ決まってはいません。
あなたが、誰と関わり、どんな刺激を受けて、それをどう受け止めて、どんな“思い”を起こしてゆくのか。
それがこれからの“業”に繋がるのですが、これは実に複雑な因縁によって形成されるものです。
過去に蒔いた “業”だけで決まるものでは毛頭ありません。
あなたが今こうして、このブログを読んでいる。
そこで得ている“知識”という縁がこれまでにないものであったならば、
これまでとは違う “業”が生まれてくる可能性は十二分にあります。
確かに、行いは癖付きやすく、繰り返しがちなことは否めません。
だけど繰り返し「がち」なだけであって、変える余地のない固定化されたものでは決してないのです。
「どんな出会いが行動や習慣を変えるか知れない」という事実は、いろんな人生ドラマを通してよく知られている通りです。
仏教が教える道理は、
「自業自得」という、業が未来を生み出す止め難い“力”
それと、
これから造ってゆく、あなたの“思い”と“発言”と“行動”から成る「業」は、
あなたがこれから紡いでゆく因縁次第であって、過去に縛られ、固定化されたものでは決していないということです。
この道理を知るという “知識”を武器に、心の奥底に救う「決定論」の“迷い”を破り、
言葉だけじゃない、綺麗事でもない、本物の「無限の可能性」を、切り開いて行きたいものです。