「今日も振り回された一日だったなあ…」という日常を打破するには〜“実体”をみるか“縁起”をみるか〜

「周囲に振り回される」って言うけれどその実態は…

一日を終えて、消耗した心身を布団の中で休める時に、

その消耗が

「色んなものに振り回されて過ごしたなあ…」という徒労感なのか、

「今日も一日、精一杯生きたなあ」という充実感なのか、

どちらの日が多いでしょうか。

「振り回される一日」

「流される一日」

なんて、誰だって嫌ですよね。

「いや、可愛い子に振り回されるならオッケーですよ」

という特殊なケースは置いておいて…

だけど気づけば振り回されている。

一日が終わってみれば、

仕事に、周囲の同僚や友人に、家庭に、世間の目に…

「ああ、やっぱり今日も振り回された一日だったんだ」

そう認めざるを得ないことがほとんどで、

その積み重ねが一週間、一ヶ月、一年、果ては「振り回された一生だった」

なんてことになりはしないか、いや、もうなりつつあるんじゃないか。

そんな懸念さえも起きてくるかもしれません。

「振り回される」と言えば、

「誰かが意図的に私に指図したりお願いしたりして、私はなす術もなく翻弄されてしまう」

というような場面を想像しますが、そんな場合ばかりではなく、

むしろ自分の心が、「何か」に自ら向かってゆき、

それにとらわれ、そのことばかりを考えざるを得なくなって、

神経をすり減らし、心身を消耗させながら一日が飛ぶように過ぎてゆく。

こんな場合の方が多いかもしれません。

外的な「何か」が自分に働きかけてくるというよりも、

自らの心が「他人」や「お金」や「仕事」などで一杯になってがんじがらめになってしまっている。

いわば心の中に浮かべた人やモノの“姿”に縛られて、自由に生きている心地がしないという状況ですね。

自分を振り回すものは何か。

自分を束縛するものは何か。

その正体をよくよく冷静に突き詰めたならば、

それは心の中に自ら造り上げた“姿”であり“イメージ”ではないでしょうか。

単なる“イメージ”に過ぎないはずのものが、生々しい実体を持った“実在”であるかのように迫ってくる。

悪夢にうなされるように、幻覚に苛まれるように、恐怖や焦りや渇望を促されて、空虚な疲弊を余儀なくされてしまう。

このような「心の中の種々の姿に束縛される」という状態から如何に脱却するかというのが、本当に意味で自由を求めることなのですね。

「実体」をみるのか、「縁起」をみるのか

仏教では、私たちを取り巻く人や物や環境などのあらゆるもの「縁起(えんぎ)」のものであると教えられます。

「縁起」というのは仏教が教える“存在”のあり方であり、私たちに自由に生きるための道を示す教えです。

「縁(よ)って、起きる」と言うことで、あらゆるものは色々なものに縁って起きている、という教えです。

今、私はとある「カフェ」の中でこのブログを書いています。

私は「椅子」に座っていて、目の前には「テーブル」があって、その上でタブレットとキーボードを使ってこの作業をしています。

傍にはお気に入りの「腕時計」が置いてあります。

そのような、私が居る「カフェ」も、座っている「椅子」も、使っている「テーブル」も「時計」も、

あらゆるものは「そこに存在する」と言うよりも「色々なものに縁って、起きている」と言うべきものだと言うことです。

「存在する」「起きている」とでは、随分とニュアンスが違いますよね。

後者のほうがより「動き」のある表現であり、ダイナミックな感じがします。

ある意味仏教は、ダイナミックな世界観と言えます。

それもただ「起きている」のでなく、「色々なものがより集まって、起きているのだ」と言うのですね。

「カフェ」なんて、色んな要素がより集まっていることがパッと見ただけで分かります。

ビルの1フロアの空間が確保され、そこにカウンターが設置されて、その奥にはキッチン設備が整っていて、

フロア全体にテーブルや椅子が並べられていて、大勢の人が出入りしたり居座ったりして、ある程度の賑わいを見せている。

種々の要素が集まって、「カフェ」と呼ぶべきものが「起きている」と言うわけで、

まさに「縁って、起きている」そういう「縁起」のものなのですね。

「時計」であれば、金属やプラスチックや皮などの素材がより集まって「起きている」

いや、もっと広く言えば、支えとなっているテーブル、そのテーブルを支えている床やら大地まで「縁」は広がります。

無数の要素や環境がより集まって、目の前の「時計」を成り立たせているわけです。

こんな風に、

「種々の“要素”や“環境”がより集まって、色々な物を成り立たせている」

とお話ししましたが、実はもう一つ、「物を成り立たせる」ための重要な条件があります。

ただ、種々の“要素”や“環境”が揃うだけでは「カフェ」も「時計」も「椅子」も「テーブル」も、成り立ちません。

そこに「ある条件」が加わって初めて、それらは成り立ちます。

それは、「言葉」です。

種々の“要素”や“環境”の集合に、「時計」という“言葉”を付与することによって、

初めて「時計」という実体が生まれます。

どれだけ、それらしき“要素”が揃っても、“環境”が与えられても、

「時計」という“言葉”を付与しなければ、その“存在”は成り立ちません。

「時計」という言葉も文化もない原始時代に、仮に「今私たちが“時計”と呼んでいるもの」を持って行ったらどうなるでしょう。

ちょっと物珍しい形をしている“物体”がそこにあるっていうぐらいのもので、そこらへんの石と大差ないでしょう。

せいぜい“飾り”ぐらいになる程度でしょう。

たちまちにあちこちの石や木にぶつけられて、その機能すらも失い、原型をもとどめなくなることでしょう。

終始、「時計」などという実体は現れないままです。

それは、その時代には「時計」という言葉も文化もないからです。

現代では、そういうものを「時計」と呼ぶことで、たちまち“存在感”を放ち始めます。

一日に何度もそれも見ては、

「うわ、遅刻だ」

「まずい、もう締め切りが…」

「あ〜、定時まであと3時間かあ…」

急いだり焦ったりうんざりしたりして、私たちはそれに振り回されてしまいます。

“言葉”が“実体ある存在”を生み出している。

言葉には、そのような「実体を生み出す」というものすごい力があるのですね。

「実体としての私」をみるのか「縁起せる私」をみるのか

全ては縁起のものである。

その「縁起」に対して“言葉”を付与することによって私たちは様々な“実体”を見ている。

そしてそれら“実体”に心を奪われたり執着したりして、振り回されている。

“言葉”でもって様々な“実体”を生み出して、それに執着しながら生きている中にあって、

最も強く執着し、振り回されている“実体”があります。

それは、「私という実体」です。

「私」というのも“言葉”です。

「俺」でも「僕」でも同じですが、

そのような“言葉”を付与することによって、「私という実体」を心の中に生み出して、

それを対象に強烈な執着を起こし続け、それにとらわれながら、振り回されながら生きている。

これが人間の最大の迷いであると仏教では指摘します。

「私」でさえも、紛れもなく「縁起のもの」であると、仏教では教えられます。

「私」こそまさに、種々の要素や環境がより集まって、「起きている」というべき存在なのですね。

どんなものが寄り集まって、「私」は成り立っているでしょうか。

髪の毛、目、耳、鼻、口、手足に胴体に、内臓などなど

そういう肉体的なものに加えて、

喜んだり、悲しんだり、怒ったり、強く願ったり…という精神的なもの、

そして周囲の家族や友人や会社や学校との“関わり”、

数えきれない、実に種々の“要素”が寄り集まって、「私」が「起きて」います。

しかも、それらは全て、瞬間、瞬間に変化し続けています。

髪の毛も爪も伸びては切られてゆきます。

細胞も生成と破壊を繰り返して相続して行きます。

悲しんだり、喜んだりという精神的な変化はもっと激しいことでしょう。

「縁起」とは、まさに瞬間、瞬間のことだと言えるのですね。

瞬間、瞬間の「縁起」が次々に展開している。

そのような「縁起」に対して「私」という“言葉”を付与することによって、

「私」という固定した実体が存在するかのように錯覚しているわけです。

「私って、どうしてこんな奴なんだろう…」

「本当に私が嫌いだ…」

「私は、これからどうなるのかな…」

「私という実体」それは、何より強く執着している対象だからこそ、不安に思ったり、嫌になったり、絶望に陥ったりと、

一生を通じて振り回されている“実体”だと言えるでしょう。

しかしそのような“実体”は、“言葉”が生み出した幻の如きものであるというわけです。

「私」といってもその正体は、瞬間、瞬間の縁起でしかないのですね。

そんな、過去から縁起の連続に対して“言葉”でもって束ねて固定化して、

まるで固定した変わらない「私」という“実体”が存在するかのように思い込み、

それにとらわれてしまっている。

これこそが、本当の自己を見失って、幻に振り回されている人間の姿であると仏教は指摘します。

そして、一瞬、一瞬の「縁起」こそが、本当の「自己」であり、

今の瞬間の、肉体的、精神的な要素はもちろん、周囲の人たちと“関わり”をも含めて「縁起」にこそ、

心を向けて大切にすべきであるというのが、仏教の「自己を見つめよ」という教えです。

よく「今、ここを生きる」という言葉を耳にしますよね。

「なんとなく綺麗な言葉」になってしまっている感が否めないですが、

「縁起」という真理を深く理解すればするほど、この言葉がただの綺麗事ではなく、不変の真理に裏付けられた実践を示すものだと知らされます。

「縁起」というものの見方は、本当に意味で自分を大切にして自由に生きる道を示す教えなのですね。

コメント

  1. いけだゆみえ より:

    一度だけですが、京都の勉強会に参加しました。

    ひさしぶりに、仏教からの学び、縁起について教えてもらい、わくわくしました。

    そういうことか…と合点が行きました。

    仏教を学びたいなぁ、と思う今日この頃です。
    ありがとうございました!

    • takeshogo より:

      ご感想、有難うございます(^-^)
      新たな視点を得て世界が広がると、本当に心が踊りますよね。
      そんな、わくわくするような内容を、これからも発信していけるよう努めたいと思います(9`・ω・)9

  2. いけだゆみえ より:

    さきほどのメールアドレス間違えて
    ました