行動力を底上げするたった一つの視点〜滞ることなく生きよ〜

滞ることなく、為すべきことを為せ

「滞ることなく行動できる」

というのが一つの理想系と言えます。

迷いもなく、恐れもなく、未練もなく、変なこだわりもなく、

「こうしたらいい」

と思ったことを、何の滞りもなく実行できること。

何でもない事のようで、これがまた難しい。

「この床に落ちているゴミ、拾った方がいいよな」

そんな気持ちが起こっても、

「けどなあ、そんな義理もないのにこんなことするのも変かなあ」

「偽善者っぽく見られはしないかな」

そんな“心の滞り”が行動を妨げたり。

「ここで優しい言葉をかけたい」

という気持ちが起きても、

変に緊張してしまって、うまく言葉が出てこない…と、そのうちにタイミングを逃してしまう。

またしても滞ってしまいます。

「家に帰ったら、あれをして、これをして」

と、やるべきことを心に描きながら家路について、帰宅し、

荷物を置いて

「ふう…」

となった途端に、

「なんとなく億劫な気持ちが湧いてくる」

「なんとなくYouTubeを起動させてしまって、ハマり始めてしまった」

そんな盛大な“滞り”に、家路での決意はどこへやらとなってしまいます。

こういった“滞り”に、日々いったいどのくらい、私たちの行動は妨げられている事でしょうか。

今日一日、昨日一日を振り返ってみれば、そんな場面がここかしこに見つかるかもしれません。

もしこれまで、そんな“滞り”が起きる事なく、思った通りに行動できていたならば、今の現実はどのくらい変わっている事でしょう。

川がサラサラと流れてゆき、石があろうと木があろうと、どんな障害物があろうとも、滞る事なく、ただサラサラと流れてゆく。

私たちの思いも行動もそんな風に、滞ることなくひたすらに突き進むことができたなら、私たちの理想はきっと現実のものとなることでしょう。

こういった、人生を妨げる “心の滞り”を仏教は解明し、

「滞ることなく、為すべきことを為せ」

と諭します。

「滞り」から解放されるものの見方

実のところ、心も、行動も、物事も全て、

「サラサラと流れてゆく」

というのが、ある意味自然だと言えるのですね。

仕事している時間も、遊んでいる時間も、恋に夢中になっている時間も、嫌いな人と一緒にいる時間も、

その真相はただ、サラサラと流れてゆく川の流れのようなものです。

好きでも嫌でも過ぎ去ってゆき、過ぎ去って過去になってしまえば、もはや夢のようなものです。

10年前、20年前に過ごした、どんな楽しい日々も、またどんな苦しい日々も、今や“過去”です。

二度と戻ることはできませんし、それを“記憶”として浮かべたとしても、

それはあくまでも“今の思いの反映”であって、その過去そのものではありません。

“過去そのもの”はもう、どこにもありません。

どんな時間を過ごしても必ず、夢や幻のように消え去ることは誰も否定できません。

「全ては流れ、過ぎ去ってゆく」

仏教ではそのような物事の真相を「諸行無常」と教えます。

「無常」とは、「“常”と固定されて、変わらないものは“無”い」ということですね。

そして「諸行」というのは「あらゆるもの」という意味なのですが、

「もの」のことを「行」と言われるのはちょっと独特ですよね。

「諸無常」ではなくて、なぜ「諸無常」なのでしょうか。

これは、もともとのインドの原語に理由があります。

仏教はインドでブッダによって説かれた教えなので、もともとはインドの言葉でした。

それが中国へ伝わって、漢文に翻訳されたのですね。

そこで「諸行無常」の「行」のインドでの原語は「サンスカーラ」で、「形成されているもの」という意味なのですね。

その「形成されている」という意味合いを込めて「行」と訳されたわけです。

だから「あらゆる“形成されているもの”は無常である」というのが正確な表現となります。

ここに、仏教独特の視点が現れています。

「どんな物をも“形成されているもの”とみる」

という、物の捉え方があります。

「全ては“形成されているもの”」という視点で持って、周囲を見渡してみてください。

あなたが見ているスマホかPCかタブレットはもちろん、あなたがいる建物でも公園でも電車でも、

着ている服も、座っている椅子も、持っている鞄も、

何もかも、無数の様々な要素によって“形成されているもの”なんだ…

当たり前と言えば当たり前のことなのですけど、こういう事実を改めて見たときに、私たちはハッとすることがあります。

それは、私たちのものの見方には、無意識的に“固定化”というフィルターがかかっているからです。

本当は無数の要素で“形成されている”ものであることを忘れ、何でも“固定・独立した実体”と見てしまう。

そんな「固定化してしまう」というフィルターでもって、私たちは何でも見てしまいます。

ちょうど、「滝」を「固定したもの」とみるようなものです。

「あそこに滝がある」と言って「滝」を眺めてみるものの、その実態は、無数の水滴が新たに新たに落下していて、「固定した実体」など一瞬たりとも存在しません。

ところがそんな「滝」をまるで「固定した実体」として存在するように見てしまいがちですよね。

それと似たような錯覚を、「全てのもの」に対して為してしまいがちだと言います。

「滝」なら、瞬間、瞬間に過ぎゆく水滴が、一瞬、一瞬の滝を“形成し続けている”ということがよくわかります。

今の瞬間に見た「滝」は、今の瞬間の水滴で形成されているものだし、

次の瞬間に見た「滝」は、次の瞬間の水滴で形成されているものです。

3時間後の瞬間に見た「滝」も、その瞬間にまた形成されているものです。

そんな、瞬間、瞬間の“形成”が、瞬間、瞬間の「滝」を成立させている。

「滝」とはそのような瞬間的な存在だと言えます。

そんな「瞬間的な存在」と言えるものは、実は滝だけのことではありません。

全てのものが、そのような瞬間的な存在だと仏教では説くのですね。

私の持っているスマホには、表面にガラスフィルムを貼り付けていますが、そのときの気温や気圧などの影響で、ガラスフィルムの内部に縞模様のようなものが浮かび上がったりすることがあります。

おそらく内部の空気などが変化したりして、そのような現象が起きているのでしょう。

固定した電気製品のように見えるスマホもまた、瞬間、瞬間の違った条件によって、一瞬、一瞬ごとに違って“形成されているもの”だということがよく分かります。

気圧の変化、空気の変化、気温の変化、部品一つ一つの微妙な変化や劣化、さらにはそれを見ている私の気分。

あらゆる条件がより集まって、一瞬、一瞬ごとに“形成されているもの”が、スマホであり、椅子であり、テーブルであり、あらゆる“物”なのですね。

「全ては“形成されているもの”」

そうであれば、固定した変わらない実体(常なるもの)などあるはずがありません。

“無常”ということは必然的な帰結と言えます。

「形成されているもの」であることの当然の帰結が「無常」なのですね。

まさに私たちの生きる現実が、サラサラ流れてゆく川の流れのようなものだということです。

そのような物事の真相をみることができたならば“滞る”余地などあるはずがありません。

「滞り」の正体は…

それを「固定化して」見てしまうのが、先ほどいった私たちのフィルターです。

瞬間、瞬間に「形成されているもの」で、「無常のもの」であるという物事の真相に対して、

無意識に「固定化のフィルター」を通して物事を見てしまう。

そんな“覆われた眼”しか持っていないということを仏教は指摘します。

物事の真相は常に眼前に展開していても、それをみる“眼”が惑いに覆われているために、虚構の世界に迷い続けている。

このような人間の実態を自覚するところから仏道は始まると言われます。

それはそのまま、真に“滞らない生き様”への第一歩とも言えるでしょう。

「目の前にスマホがある」

「椅子に座っている」

「家の中にいる」

そう見ている時点ですでに真相に反した虚構の世界に惑っている真っ最中であり、虚構の“実体”にとらわれている姿です。

“固定した実体にとらわれる”

これこそが、例の“滞り”の根源になっているのです。

“実体にとらわれる”だけで済めばまだいいのですが、この実体化・固定化に加えて、必ずそれを“愛着”もしくは“憎悪”の対象にしてしまいます。

“固定化”と“執着”は、セットで為されているのですね。

真相は“瞬間の形成”でしかない“諸行無常”のものを前にして、固定化した実体を浮かべてしまい、それを「自分の好ましいように、好ましいように」と執着してしまいます。

その執着が叶えば愛情を抱き、執着が叶わなければ憎悪を燃やす。

どちらにせよ、これで私たちの心も行動も、ますますがんじがらめとなって、滞ってしまいます。

「他人の眼への執着」にとらわれ、「目の前の人への好みや憎悪」にとらわれ、「家の中の心地よい空間や物への愛着」にどっぷりとらわれる。

それは“覆われた眼”の為せるわざであり、そこから“滞り”が絶えないわけです。

「本当は、瞬間、瞬間の“形成されている”ものの中で、瞬間、瞬間を生きているのだ」

そのように、真相に即した認識に修正する“視点”をこそ、持つべきなのですね。

ここでもう一つ大切な事なのですが、

“瞬間、瞬間ごとに形成されているもの”は、周囲のものだけではありません。

“私自身”こそが、瞬間、瞬間の形成でしかないことを仏教は特に強調します。

「無我」という教えがまさにそれです。

周囲の“諸行無常”の世界との関わりを通して、瞬間、瞬間に“思い”や“発言”や“行動”が形成されている。

その、“一瞬、一瞬の形成”こそが“私自身”の真相です。

そのような“瞬間、瞬間の関わり”を離れた“独立・固定した自我”なんぞ存在するはずもありません。

だから「固定・独立した自我は存在しない。無我である。」と説かれます。

そんな何処にも存在しない“独立・固定した私”という“我”を立てて、そんな“我”を守ろう、守ろうという思考に支配されてゆく。

これぞ“滞り”の最大の原因なのですね。

惑いに覆われた眼で“固定化された自我”と“固定化された世界”の対立構造を造ってしまい、がんじがらめになっているのが“滞る生き方”に埋没している状態です。

“無常”と“無我”の真相をみる視点を持ち、“滞らない生き様”を現してゆく。

これは簡単なことではありませんが、そこへ近づく努力をすることはできます。

その努力は、あらゆるパフォーマンスを確実に底上げすることでしょう。