「他人から褒められる」ときのあなたは…
誰かから褒められた時、あなたはどんなリアクションをするでしょうか。
「いや〜、褒められることなんてないからなあ…」
なんて思う人もいるかもしれませんが、
結構そういう人に限って、
本当は褒められていて、頼られていて、評価されているのに、
その事実を拒んでしまって、無かったことにしていたりするのですね。
「褒められている」
と、ちゃんと自分で受け入れるかどうかという段階ですでに、
私達の反応は一人一人分かれてくると言えるでしょう。
「私は褒められた」と受け入れたとしてもまた、
反応は実に様々ですよね。
「ドヤァ」て得意気になったり、
「どうも」と自然に喜んだり、
「いやいやそんなこと…」と謙遜したり、
「そ、そんな…」と困惑したり、
「受け止め方」の違いは実に大きく隔たっていると言えます。
傍から見ていればただ、
「あの人、褒められてる」
という一つの事実に過ぎないですし、
「いいなあ、あんなに褒められて」
「羨ましいな、あんなに大事にされて」
というように見えることもあるでしょう。
だけどその現実を
「どう受け止めて、どんな気持ちになっているか」
は、本人にしか分からないことです。
そして、
「嬉しい事」になるか、
「普通の事」になるか、
「困った事」になるか、
「嫌な事」になるか、
その人によって、大きく変わってしまいます。
これは一人一人が、現実の受け止め方が変わる「原因」を持っているという事なのですね。
他人から褒められた時に、
その事実をどのように受け止めて、どんな気持ちになり、それが次のどんな行動に影響を及ぼすか、
これには一人一人、それぞれ違った原因を持っています。
「他人から褒められるかどうか、評価されるかどうか」
という事は誰でも重要視することですし、気になることですが、
本当はそれ以上に大切なことが、
そういった一つ一つの現実を、私達は「どう受け止めるのか」なのですね。
「私の人生」は、「ただの客観的な事実の連続」なんかではありません。
どんな事実が起こるにせよ、
「それを私たちの心がどう受け止めるか」
その「受け止め方」コミでの「私の人生」です。
というか、「受け止め方」一つで180度変わってしまうものが人生です。
「幸せな人生」と感じるか「不幸な人生」と感じるかも、つまるところ「受け止め方」という部分で大きく変わります。
「今日、こういう事をして誰々からこんな風に褒められた」
と、言葉にすればそれだけの事実ですけど、
いったい私の心は「何を」「どのように」受け止めて、どんな気持ちになったのか。
その気持ちがどんな行動につながっていったのか。
大切なのはその部分でしょう。
そして、そんな「受け止め方」を左右するのは、私達一人一人が持っている「原因」なのですね。
それはいったい、どんな原因なのでしょうか。
知らず知らずに独自の「受け取り方」をさせる原因は
自分に起きる現実を「どう受け止めるか」は、
「こう受け止めよう」なんて意識する以前に、
無意識に、自分なりの受け止め方ですでに受け止めてしまっております。
「褒められた」
「叱られた」
「仕事が上手くいった」
「学業の結果が出た」
「あの人にあんなことを言われた、こんな態度を取られた」
などなど人生の様々な場面で、
知らず知らずに自分独特の「受け止め方」で、私達は現実に向き合っています。
大切なことは、
「その受け止め方には、自分独自の原因がある」
という事を忘れないことです。
知らず知らずになされている事ですから、そこに原因があるという発想は、なかなか出来ません。
だけどそこに、
「どうして私はこんな風に受け取めてしまうのだろう?」
という疑問を持ってみることは、私達人間の智慧のなせるわざであり、とても大切なことです。
その「原因」に目を向ける視点を持てるからこそ、
私達に、人生を根本的に変えてゆく余地があるのですね。
人間は自分の持つ「業(ごう)」によって、現実をどのようにもみることができる、と仏教では教えられます。
「業」とは、
自分が何を思い、何を言い、どんな行動をするかその積み重ねのことです。
「心の行い」「口の行い」「体の行い」
その一切の行為がすべて、私達一人一人が持つ「業」です。
その「業」は、今も造っているし、これからも造っていくものですから、決して固定したものではありません。
瞬間、瞬間で新たに新たに造られて、激しく変化しゆくものが「業」です。
その「業」こそが、私達独自の現実を生み出す種になっていると教えるのが仏教なのですね。
「自分の業が現実の受け止め方を左右している」
と聞けば、
「業で決まってしまうものなら、もうどうしようもない」
と感じてしまうかもしれませんが、
「業」は、一瞬一瞬に、新たに新たに造られてゆくものですから、「固定したもの」と考えるのは間違いです。
今この瞬間も激しく変化していくのが「私の業」の実態です。
過去に造ってきたもの
現在造っているもの
未来に造ってゆくもの
それらの一切が「私の業」なのですね。
「心の持ちよう」のアドバイスを受けても変われない理由は
「業」のなせるわざであるなら、
現実の「受け止め方」は、固定したものではなくこれからも変化してゆくものです。
過去から造ってきた私の「業」は、目に見えないものであり、
「私」のずっと深い部分に蓄えられているものですから、
なかなか自分で目を向けられないものです。
だけど、これこそが知らず知らずに私の人生を大きく左右しているものの正体です。
長い過去からの積み重ねが「業」ですから、
そんな積年の積み重ねを、手軽にパッと変えてしまう訳にはいきません。
よく、
「物事をこう受け止めるように心がけたらいいよ」
というアドバイスがいろんなところでなされます。
どんなことに対しても、
「ポジティブに受け止めよう」
「善意に受け止めよう」
「自分の都合のいいように受け止めたらいいんだよ」
という具合に、現実の受け止め方についての色々な教えがあります。
それを聞けば、
「なるほど、そう受け止めればいいのか」
と、一応納得することはできます。
けれど、その「納得」と、実際にそう受け止められるかどうかは、また別なのですね。
「その時の納得」というのは、その瞬間の心の「業」の一つです。
もちろんその業の力は間違いなくこれからに影響してゆきます。
だけど、その時点ではまだ、これまでの業の積み重ねの力に引きずられて、
依然としてこれまでと同じような現実の受け止め方をしてしまうこともあるでしょう。
せっかく「良い受け止め方」に納得できたのに、実際にはその通りに現実を受け止めることができない…
そんな壁にぶち当たってしまうかもしれません。
そうすると、
「結局どんなアドバイスを受けても私の人生は変わらないのかな…」と感じるかも知れませんが、それは早とちりというものですね。
現実の受け止め方は、「頭での納得」よりももっと深い所にある「業」のなせるわざですから、
その「納得」を、真に人生に活かすかどうかはこれからの日々の実践にかかっています。
その時に大切なことは、
「この現実の受け止め方は、自分の業が引き起こしている。」
この因果に目を向けるよう努めることです。
「この因果に目を向ける視点」
それを持った瞬間から、もう、ただ現実に翻弄される人生ではなくなります。
そして、少しずつでも確実に、自分の真に望む人生を切り開いてゆくことができます。
「業が引き起こす現実」
という因果をみる視点こそが、
世の中でなされているあらゆるアドバイスを、「その場の納得だけ」で終わらせるのではなく、
人生を真に好転させる知識として活かすための土台となるでしょう。