行動に迷いが生じた時に依って立つ指針はあるだろうか〜「正しさ」と「慈悲」〜

「正しさ」にこだわり「正しさ」に迷うのが人間

「自分の行動は間違っていないはずだ」
誰だって、そう信じたいですよね。

何かに一生懸命であればあるだけ、
他人への影響が大きい行動であればあるだけ、
「自分の行動は、間違っていないよな…?」
そうあって欲しいという気持ちは強くなります。

普通は、そこに迷いがあるものです。
どれだけ自分の行動の正しさに確信を持てるとしても、100%の確信を持てる人なんていないはずです。
心の奥底には誰だって、100%正しいとは思い切れない「迷い」を持っていて、
だけどもどこかで「決断」しないと、何一つ行動できない。
その為に状況はより悪くなってしまうかもしれない。自分にとっても周囲にとっても。

だからこそ、誰もが心の奥底に迷いを抱えながらも自分の判断を信じて決断し、行動します。
もし自分が周囲から頼られ、リーダー的な存在であれば、
その「迷い」を周囲に晒すわけにはいかず、心の奥にしまいこんで、
「大丈夫だ」っていう顔で行動に踏み切って周囲を引っ張っていかねばならないでしょう。
リーダーという存在はいつも、そういうものなのだと思います。
「迷いを抱きながらも、周囲に自信を示さなければならない」
人としてリーダーの役割を背負うというのは、常にそのジレンマと共に生きる覚悟をせねばならないというわけです。
もちろんリーダーでなくても、私達は常に「正しさ」に対する判断をしていると言えます。

「何が『正しい』とか『間違い』とか、そんなことを誰も決められないでしょう?」
という理屈はよく聞くのですが、それはあくまで理屈であり、建前と言えるでしょう。
そう言いながらも私達の心はいつも「正しさ」の判断をしているのが実態なのですね。

「ダメだなあ、私は…」
という心の呟きが漏れることはないでしょうか。
「ダメ」ってのも一つの判断です。
「どうしてダメなのか?」と考えてみれば、何かしらの「こうあるべき」という「正しさ」に、
自分の行動がそぐわないと思っているからこそ、そう思うわけです。

「あの人の行動はちょっと、許せない…」
という憤りを覚えることは、誰だってあると思います。
「許せない」ってのも一つの判断です。
自分の中に、あるべき「正しさ」があるからこそ、それに反する他人の行動が「許せない」となるのでしょう。

「『これが正しい』なんて、誰にも言えないよ」
「私が『正しさ』を語るなんておこがましい」
と、良識的とおぼしき意見を述べながらも、
本心では自分の「正しさ」に強烈に執着しているのですね。
「正しさ」に執着する自分から目をそらしてごまかしてみても、実態は変わりません。

なればこそ、
「自分にとっての『正しさ』とは何なのか」
このことに向き合うことはやはり、とても大切なことです。
強烈に執着してこだわっている、と同時に、心から確信できずに迷いを抱いている。
そんな、私達にとっての「正しさ」とは、何なのでしょうか。

「正しさ」の追求の先に見えてくるもの

どんな時に、
「自分の行動は間違っていない」
と、あなたは思えるでしょうか。

「独りよがりになっていないこと」
やはり、これではないでしょうか。
ちゃんと、周りのことも考えている。
多数派ばかりでなく、少数派のことにも留意している。
その上で、自分が目指す未来をしっかり見据えている。
きめ細かく周囲への影響に最大限の配慮をした上で、自分の願望を叶える方向へと進めている。
つまりは、「他人の事」と「自分の事」とのバランスが取れているかどうか。

「このバランスがどちらかに傾きすぎていると、おかしなことになってゆく。」
そういう感覚を私達は持っているのですね。
自分のことばっかり考えて、周囲を一切顧みないような心に従って行動しているのは、
誰が見たって「それはおかしいだろう」と思いますよね。

逆の場合はどうでしょう。
「他人に尽くしてばかり」で自分の思いをいつも殺して生きているっていう場合もありますよね。
確かに「自己犠牲」の精神は一種の美学にもなり得ますが…
これでは心の疲弊や不満や負のエネルギーはどうしても蓄積していきますから、これも危うい状況と言わざるを得ません。

自分の心に叶う行動であり、そのまま他者を生かす行動でもある。
これが理想であることには違いありません。

それを実現させるための大切な精神が「慈悲」という心なのですね。

「その行動に、慈悲の心が伴っているかどうか。」
問題にすべきはこのことです。
仏教は、あらゆる行動において「心」を何よりも重視します。
行動するにせよ、発言するにせよ、
「それをどんな心でしているか」
常にそこに焦点を当てるのが仏教です。
「慈悲」は、行動を善たらしめるとても大切な心に違いありません。

「苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という」
と説かれまして、「慈悲」とは「抜苦与楽(ばっくよらく)」の心であると教えられます。

こういう言葉を聞くと、
「苦しみを抜いてやろう、楽しみを与えてやろう」
だなんて、そんな大層なことを考えていないよ。
そんな気持ちになるかもしれません。
「お前の苦しみを抜いてやろう、お前の楽しみを与えてやろう」
そう言われても、なんだか押し付けがましいような感じがするかもしれませんね。
言葉というのはつくづく難しいものだと感じます。
「慈悲」だと言いつつ、「抜苦与楽」だと言いつつ、ただのエゴの押し付けでしかない。
実際にはそういうことがどれだけあるかしれません。
だからこそ、「綺麗な響き」のする言葉ほど、厳しくその意味を問う必要があります。

そこには既に「慈悲」が伴っている

「『慈悲』や『抜苦与楽』は結局エゴの押し付けにしかならない」
というのはさすがに極論すぎますよね。
そんな場合も多くあるのでしょうけど、それにはちゃんと、そうなってしまう原因があるわけです。
「慈悲」のつもりが、ただの思い上がり、ただの空回り…
そんな悲しい事態になってしまった経験が、きっと誰しもあると思います。
どうして、そうなってしまったのでしょうか。

その理由は、そう難しいことではないと思います。
「相手に対する理解不足」
これですよね。
「共感力の欠如」と言ってもいいかもしれません。
他人を完全に理解することは無理にせよ、
「どれほど、相手のことを理解しようと努力しているか」
「慈悲」が「慈悲」としてちゃんと発動するかどうかは、これにかかっています。

これは「抜苦与楽」の「苦」の理解と言ってもいいでしょう。
「相手を理解する」とは、この場合「相手の抱えている苦しみを理解する」と言えます。
(相手の望む「楽」を理解すると言ってもいいのですが、今は「苦」に焦点をしぼります)
他人の「苦」を的確に察知できなければ、慈悲など起こりようもありませんし、起きても的外れにしかなりません。

他人の感じているストレスや不快感を、とても敏感に察知する人がいます。
誰かと一緒にいると、そういうのがいちいち気になって、とても気疲れしてしまうようです。
「ああ、今この人はストレスを感じているんじゃないかな」
「あっちの人、孤独感を覚えているかもしれないな」
「今の話題、この人は嫌な思いをしているかも…」
そういうことがいちいち感じられて、とてもそれを放置できないのですね。
当然、そういう「苦」に気づいていれば、自ずと行動にも影響するでしょう。
意識の中にそんな「他人の苦」があれば、言うこと、為すこと、すべてその「苦」の存在を前提に考えられます。
すると、より複雑な思考をせざるを得ません。
そこには、余計に多くの精神エネルギーが費やされますから、人一倍疲弊してしまいます。

だけどそういう人は間違いなく「慈悲」を体現してゆく素質があると言えます。
紛れもなく自分は「慈悲」を実行するステップを一つ一つ踏んでいるのだと、自信を持ってもいいことです。
たしかに、人一倍エネルギーを使い、人一倍疲弊してしまいますから、
人と関わることがしんどいこと感じているかもしれません。
だけど、極めて堅実な種まきをしている事に間違いありません。
「他人の苦しみを察知し、それに配慮した行動をする」
という種まきを、人と会うごとに実践しているわけです。
ずーっと、そういう意識を持って行動し、生きてきた人は、いつしかそれが「当然の思考」となるでしょう。
これが熟練の域に達すれば、「自然と他人にとって心地よい言動を体現している」人となってゆきます。
その当人には「私は慈悲を実践しているのだ」なんて意識はないかもしれません。
だけどそういう人こそ、「慈悲に従って生きている」人であることは明らかです。

生まれ持った気質により、「他人のストレスに敏感」な人はいると思います。
そんな人たちと比べれば、そこまで敏感に感じ取れない人もいると思います。
いずれにせよ「慈悲の実践」とは泥臭い努力の繰り返しを抜きには為せないことです。

「自分はどれほど、慈悲にかなった言動が出来ているだろうか…」
それはそのまま、最初に挙げた問いかけ
「自分の行動は、間違っていないだろうか…」
に直結するものです。

この問いかけは、どんな時にも忘れないようにしたいものです。