「分かり合えない」のモヤモヤを晴らす「孤独」ベースの思考〜「一人旅」という現実〜

最も「孤独」を感じるとき

ある女性から、
「一番『孤独』を感じたのは、私の娘に、自分の気持ちを理解してもらえなかった時です。」
という話を聞いたときに、
「確かに、そういうものだよな…」
と、とても腑に落ちました。

「孤独」って、いろんな類のものがありますよね。
自分の部屋の中で一人で過ごす時間に「孤独」や「寂しさ」を感じる事も、確かにありますし、
賑やかな街中を一人で歩く時にも、周囲が賑やかな分、自分の「一人」を余計に寂しく感じるようなこともありますし、
知り合い同士で居ても、自分だけがあまり「溶け込めてない」と感じたときに「孤独」を思うこともあります。

「孤独」や「寂しさ」を感じる場面は多々ありますが、今挙げたような寂しさならば、
心を許せる家族や親友と共にいることで、解消されそうですね。

だけど、
「一番の理解者」と感じる相手に「分かってもらえなかった」となった時の「孤独感」は、絶望感にも似た深刻さがあります。
実は、そういう時に感じる寂しさこそが、全ての人間が抱えている「真の孤独」に触れた、底の知れない寂しさなのですね。

仏教では、私達が「生きている」姿を、旅人が「旅をしている」ようなものと喩えられることがあります。
「旅」といっても、現代の、しかも日本人の「旅」のイメージは、
ハワイだとか、グアムだとか、地中海だとか、あるいは温泉だとかの、リゾートで楽しいひとときを過ごすようなものになっていたり、
リュックサックを背負って、見聞を広げたりするために、飛行機やら船やらバイクやら自転車やらで、あっちこっちへ赴くような、
「楽しみ」「癒やし」「新体験」を求める営みだったりするのかもしれません。
それはもはや「趣味」や「生きがい」の一つですね。
しかしそれは、歴史上かつてないほど交通機関が整って、治安が整って、遠い距離を移動することのリスクや苦労が、
限りなく少なくなっている現代(特に日本)ならではのイメージです。

本来は、遠い距離を移動することは、危険なことであり、非常な苦労の伴うことです。
ただの「気晴らし」だけで「旅」するなんて、そうそうないでしょうね。
それだけ大変で危険なことだけど、生活のためや、何かの使命のために、必要にかられて「旅」をする。
そんな「重い」営みが旅なのですね。

そういえば、『西遊記』という物語も一つの「旅」ですね。
これは、中国の三蔵法師が、インドへ経典を取りに言って、それを漢訳するために中国からインドへ険しい道を旅した史実を物語になされたものです。
この場合の「旅」も、大変な距離を大きな危険を犯してまで、大切な「使命」のためになされたものと言えます。

人が「生きる」という事も、それは決して気楽なモノではなく、
ストレスや苦労や、時に危険を乗り越えて、精一杯「生きてゆく」、さながら険しい道のりを歩む「旅」のようなものだということです。
そしてその「旅」は、「一人旅」であり、「連れ」はいないのだと仏教では教えられます。
そんな「底知れぬほど寂しいもの」が、人生だと言われるのですね。

その、人生の本質として有する「孤独」や「寂しさ」を感じる時が、
「もっとも身近で、もっとも深い理解者と信じている人にさえも、分かってもらえない」
という事を思い知る時なのでしょう。

「心の連れ」を探す旅

「人生」という旅路の中で、その旅が始まってからずーっと私達は、
この「孤独」や「寂しさ」を本当に埋めてくれる、「心の連れ」を探し求めているのかもしれません。

その「連れ」が、「他人」では叶わないなら、
犬や猫のようなペットでも、
あるいは、何かの本でも、
それとも、信仰にすがってでも、
何か、心から打ち込める事業でも、
アニメやゲームでも、
とにかく、「一人旅」の寂しさを埋めてくれる「何か」を、色々な形で人は求めずにいられないのですね。

この「寂しさ」さえ埋まったならば、この「孤独感」さえ埋まったならば、
たとえ険しい山道のような人生でも、ストレスが絶えない生活でも、
「孤独じゃない」「一人じゃない」と感じさせてくれる「連れ」と共に、たくましく乗り越えてゆけるのですね。
そんな、自分の人生の旅の「連れ」を、いかにして見つけるか、いかにして手に入れるか、
これが人生の大きなテーマであることには違いないでしょう。

そんな私達の願いとは裏腹にとてもシビアな「現実」を、仏教はこのように説いています。

「人世間、愛欲の中にありて、独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来る。」

人間は、その寂しい心を埋めたい、埋めたいという底知れぬ「愛欲」を抱えて、
心からの「連れ」を求めながらも、ずーっと独りなんだと、切々と説かれます。
生まれてきた時も「独り」
死んでゆく時も「独り」
去ってゆく時も、やって来た時も「独り」なのですね。

人生が始まる瞬間、私達は誰しも素っ裸で、たった一人でこの人生へ産み落とされます。
「誰かと一緒に来ました」なんて人もいませんし、
「腕時計をはめたまま生まれてきました」なんて人もいません。
裸一貫で、ただ一人で生まれて来るのは、どんな人も変わりはありません。

そしてその人生を終えて最後、死んでいく時もまた、たった一人です。
「愛し合う人同士が一緒に添い遂げるために心中する」、なんて話もありますが、
たとえ死ぬ「時間」と「場所」が同時になるようにして2人が死んでいったとしても、一緒にあの世へ行けるというものでもありません。
死ぬ瞬間に、自分の目の前に愛する人が居てくれているとしても、
肉体が滅び、五感が失われてゆくに伴い、その顔も見られなくなり、その声も聞こえなくなり、その肌を触れる感覚さえも失われていきます。
そして、頭の中に刻んだ、その人との「記憶」さえも、失わなければなりません。
結局は、たった一人、全てと別れて、「旅立って」いかなければならないのが人間の最後です。

そして仏教では、
そんな、人生の最初と終わりだけが独りなのではなくて、本当は、生まれてから死ぬまでの間ずーっと、
「連れ」を伴うことなく独りぼっちの旅にならざるを得ないのだと教えられます。
それは、たとえ「家族」がいても「親友」がいても「恋人」がいても「ペット」がいても、
「心の奥底」は、誰にも理解されることも受け入れられることもなく、一生を終えていかなければならないからです。

「一人旅」の現実をベースに生きるとき…

「他人の心」は、目に見えないですよね。
だから、それを「直接」に認識することは、叶いません。
それで私達はお互いが発する「言葉」をもって、お互いの心を確かめようとします。
「あなたの事が好きだよ」
「うん、私も好きだよ」
そんな「言葉」を交わしたとき、
「ああ、お互い好き同士でいられているんだ」
という「心の通い合い」を感じて、幸せな気持ちに浸れます。

だけど考えてみれば、
自分の言う「好き」と、
相手の言う「好き」と、
「言葉」は同じでも、本当に同じ「好き」かといえば、決してそうではないですよね。
温度差もあるでしょうし、ニュアンスの違いもあるでしょう。もしかしたら、全然違う意味の「好き」かも知れません。
「言葉」でだけなら、表面上、心を通わせているように思えるのですが、
「本当の心」同士は、そのほとんどが理解し合えていないのが実態だったりします。

それは、仕方のないことです。
お互いに育った環境も、重ねてきた経験も、身につけてきた感覚も、それぞれ全く違うのですから、
たとえ一致する「言葉」を使った所で、相手の心などほとんど知るよしもないのが本当なのですね。
分かった「つもり」になれるだけです。

「今日は暑いね」
「うん、本当に暑いね」
そんな何気ない「言葉」でさえも、お互いの「暑い」に込められた「心」は、決して同じではあり得ません。
「本当のところ、どんな『暑い』をこの人は感じているのだろう…?」
と考え始めたら、それは完全に迷宮入りの思考となります。

こんな具合に、人同士、心を通わせたい、分かり合いたいと心から願いながらも、
その実態は、1ミリたりとも、重なる事も通い合う事もなく、
「つもり」と「ごまかし」を重ねて、その事実を見ないようにしているだけなのですね。
そんな心の実態を指して仏教では、
「人生の旅は、連れの無い、独りぼっちの旅路なのだ」
と教えられています。

この真実は、決してごまかし切れるものではありません。
どんなに遅くてもこの世を去っていく時には、
この世の全てと別れて、たった独りで旅立ってゆき、
「本当はずっと独りだったのだ」
という真実を思い知らされます。

だからこそ仏教では、その「人間の孤独」という真実を、ごまかさずに観なさいと教えられます。
「自分も他人もお互いに、底知れないほどの「孤独」を抱えてずーっと生きているのだ。」
このことを理解し、そういう視点で周囲を見た時、周囲の人たちがまた、全く違って見えることでしょう。
そして、「関わり方」にも大きな変化が起きてきます。

「分かりあえているはず」ベースで接するのと、
「本質的には分かり合えていない」事実をベースに接するのとでは、
他人への態度は全く異なります。

確かに、完全にお互いの心を理解することも、理解されることも、決して叶いません。
だけど、少しでも理解出来るように努力することは、できます。
その努力によって起こせた、ささやかな「通い合い」のようなものを、お互いにもっと大事に出来るはずです。
真実を知っていれば、一見ささやかにみえるその「通い合い」が、かけがえのない大切なものと分かるのですね。

当たり前ではない、人と人との「縁」をもっともっと大切にするために、
「人間の孤独」の真実への理解は確固たる土台となることでしょう。