本当に求めてきた「自分」に会える瞬間〜「布施」の本当の意味〜

俺には大事な人がいた

人気漫画「進撃の巨人」というのがありますね。
私は個人的にこの漫画が大好きで、単行本の新刊が出たら、ほぼ発売日に購入して(電子書籍で)すぐに読んでしまいます。
最近、その漫画でとても心に残った場面がありました。

こういうのを書くとネタバレになるかなと思いつつも、そんなに本筋に関わる話でもないので、
多分読んでもそんなにネタバレにならないと思いますので、そこはご心配なく…
だけど、本当にこれ、いい話だなと思ったのです。

で、どんな話なのかというと、
「マーレ帝国」という国で軍のシェフとして働いていた「ニコロ」という男が、
マーレ帝国の敵国とされている「パラディ島」へ兵隊たちと一緒に向かったところ、
そこでパラディ島の「エルディア人」という民族に捕まってしまった。

そしてニコロは、エルディア人の捕虜として生活することになるのですが、
そんな彼が、敵であるエルディア人の兵士に料理を振る舞うことになります。
「なんで、敵のエルディア人なんかに…」
と不満一杯で海鮮料理を振る舞ったところ、
エルディアの兵士たちが、その料理を喜んで食べ始めるのでした。

「海鮮料理」というものを知らなかったエルディアの兵士たちは、初めて味わうニコロが振る舞った料理に、
みんな感動して食べていたのでした。

そんなエルディアの兵士の中でも一際、その料理を美味しそうに、感動の涙を流しながら食べる女性がいました。
サシャ・ブラウスという田舎育ちの女兵士でした。
「ニコロさん!あなたは天才です!」
「だって…こんな美味しい料理、生まれて初めてで…」
涙を流しながら、なりふり構わずがっついて食べるサシャの姿を見て、
「汚ぇ食い方しやがって…まだあるから、ゆっくり食え!」
とニコロは悪態をつきながらも、照れくさそうにしているのでした。

それからというもの、ニコロが料理を作るたびに、サシャは誰よりも美味しそうに喜んで、
彼の料理を食べ続けたのでした。

ところが、そんなサシャが、兵士としての任務でマーレ帝国へと潜入した時に、そこで撃たれて、殺されてしまったのでした。
そのことを知ったニコロが、サシャの墓前でうずくまって悲しみに暮れるのでした。
「なんで…サシャが死んだなんて、こんなバカな話があるか…」と。

後にニコロは、こう語っています。
「俺には大事な人がいた。
たしかにマーレ人の敵、エルディア人だった。
だが、彼女は誰よりも俺の料理を美味そうに食った…
人を喜ばせる料理を作るのが本当の俺なんだと教えてくれた。
このクソみてぇな戦争から俺を救ってくれた。
それが、サシャ・ブラウスだったんだ。」

「本当に求めていた自分」を見つける瞬間

ニコロは国の都合で従軍せざるを得ず、シェフとしてではあるけれど、戦争に加担していることを、心のどこかで苦々しく思っていたのですね。
国のため、マーレ人のため、という大義が掲げられてはいたけれど、そんなのは国の都合、社会の都合であって、
彼自身が本当にやりたかったことではなかったのでした。

そんな彼が、自分の料理を食べて、
「こんな幸せ、生まれて初めて…」
と喜んでくれるサシャと出会った時に、自分が本当にやりたいことに気づいたのですね。

不本意ながら、周囲の都合で振り回されて生きてきた中で、
「自分の本当にやりたいこと」
に気付かされて、救われる思いがした。
それが彼にとって、
「人を喜ばせる料理を作る」
という、とてもシンプルな答えだったのでした。

この答えはある意味、とても普遍性を帯びた答えでもあります。
「人に何かを施して、喜ばせ、幸せにする。」
仏教ではこれを「布施(ふせ)」と言います。
「他人に施しをする」という行いのことで、
この行いは、施した相手はもちろん、それをした自分自身も幸せになる、
そんな素晴らしい「行い」とされています。

注目すべきは、「施しをした」その人自身が、幸せを感じられるというところですね。
「自分の出来ること、自分が提供できる何かで、他人が心から喜び幸せを感じている。」
このことが、何物にも代え難い幸福感を自分に感じさせてくれるものなのですね。

これを仏教では「自利利他(じりりた)」と言います。
他人を喜ばせ幸せにする(利他)、そのままが自分の幸せとなる(自利)、ということですね。
大なり小なり、多くの人が経験していることと思います。

そして、そんな人の喜ぶ顔を見るために、驚く顔を見るために、幸せそうな姿を見るために、
今度は何をしてあげようか
どんなものを提供しようか
どうやって提供しようか
このことを工夫し、研究し、時には悩み…
その苦労のプロセスそのものがまた、幸せなのですね。

もちろんこれは、誰かに言われてやらされている、ではなく、
周りがやっているから、やらなきゃいけないな、ということでもなく
「自分がそうしたい」
と思っての行いなのですね。

「お布施」と言うと、
「義務や世間体でお金を出す」
というイメージが、現代では強いかもしれません。
実際に世の中では、そういう場面で「お布施」と言ってお金のやりとりがなされているのも事実ですし。

だから、ニコロがサシャに対してしていたことを「布施」だなんて言われると、
どうも違和感があるかもしれませんね。

だけど、本来「布施」というのは、
まさにニコロが
「人を喜ばせる料理を作ること」
と言っているように、
何かを人に与えて喜ばせる、幸せにする。
そしてそのことで私自身が幸せを感じられる。
だからまた、誰に言われるともなく、周りがどうあれ、「自分自身が」やらずにおれなくなる。
こういうことを「布施」と言うのですね。

こういうことを積み重ねてゆくと、自分の「布施」の行いに「信念」が帯びてきます。
こんな行動をする自分に
「本当に求めていた自分の姿」
を見ることができます。
自分が一番、幸せを感じられる道を見出すに至ることができるのですね。

それまで、自分の生活を守るためにやむを得ず、国に従うしかなかった。
社会の風習に従うしかなかった。
そんな風に流されて生きてきた中で、ニコロは、
「自分の提供したものを、心の底から喜んで受け取る人」
と出会うことができた。
「自利利他」を、強く体感することができた。
それをきっかけに、自分の生きる道を、信念を、見出すことが出来たのでした。

幸せに悩める人生が開かれる

どうして「布施」をすることが自分の幸せになるのでしょう?
なんて、理屈で説明しようとするのは野暮なことかもしれません。

どうして恋をしていると幸せなんでしょう?
どうして友情を感じると幸せなんでしょう?
という質問が、「してみれば分かる」としか言いようのないもの、というのと同じですね。

そんな幸せを言葉で説明してもらって理解するより何よりも、
あなたが提供した何かを、心から喜んで幸せそうに受け取る人の姿を見ることが、
千万の言葉による説明にも勝る確信となるでしょう。

だから、ニコロにとってのサシャのような人に出会える人は、本当に幸せなことですね。
本当に救われた思いがするのですね。
そして、「生き方」そのものが、大きく変わっていきます。

自分の生活を守るため
体裁を守るため
立場を守るため
そのために、どうしたら、どうしたらと悩む日々。
これがもしかしたら、普通なのかもしれません。
そしてその悩みには、キリがありません。

悩み始めればいくらでも、次から次へと、保身のための悩みは現れてきます。

ところがそこに、「布施」の喜びを教えてくれる人との出会いがあれば、
自分が精一杯提供したものを、心から喜び、幸せを感じてくれる人との出会いがあれば、
そして、それを通して、「この自利利他の道こそが自分の生きる道だ」と確信できたならば、
生き方そのものが、ガラっと変わることでしょう。

「保身」の悩みが、「施し」のための悩みに変わります。
どうやって、喜ばせようか。
どんなものを、用意してあげようか。
こんな形で用意したら、びっくりするだろうか。
同じ「悩み」でも、それは幸せな「悩み」に変わるのですね。

同じ「悩む」なら、
身を守るため、社会に合わせるため、体裁を保つための悩みよりも、
自分が本当にやりたいことに、悩みたいものです。

そんな「生きる道」を見つけられるかどうかも、「縁」次第なのかもしれません。
ニコロがサシャのことを「大事な人」だと言ったのも、頷けます。

自分にとっての、そういう人はいるかな。
改めて考えてみたいですね。
もしかしたら意外なところに、身近なところにいるかもしれません。