勝手に「私のモノ」と言ってる心
「執着心」と言ったら、今すでに手に入れている「人」や「物」に対して、
「これは誰にも渡さない…」
「この人は、絶対に失いたくない…」
と、「自分のモノだ…!」と強く主張し、強くこだわる気持ちを言いますよね。
けど「執着心」はそれだけではありません。
私たちはまだ手に入れていない「人」や「物」に対しても、
「これは自分のモノだ…」
「この人は自分がモノにするんだ…」
と、強いこだわりを持つものであり、それもまた「執着」です。
ちょっと考えると、図々しいですよね。
まだ手に入れていないのに、「自分のモノだ!」と主張する心なわけですから。
「もうちょっと、慎みというものを知りなさい」
と言いたくなるような主張なのですが、私達の「本音」は、どうしようもありません。
アニメのキャラクターに対して「俺の嫁」とか言っているのを見ると、
「勝手に何を言っているのか…」「なんとも図々しい…」などとと思うかもしれませんが、
私達の「執着心」という本音は、そんなアニメのキャラ好きをとやかく言えないぐらいに、
目についた「人」や「物」に対して見境なく
「私のモノ…!」
という心を向けてしまいます。
カフェなどで、ちょっと好みのタイプの人を見つけて「おっ」と思っていたら、突如その人の顔が満面の笑顔になり、その瞬間、その人の目の前に恋人が現れる…
その時、心中に「チッ」という舌打ちが鳴り響く事を、誰が責められるでしょうか。
心密かに思っている事とはいえ、
「執着心」は、その気に入った「人」を見た瞬間に「自分のモノ」として、強くこだわっているわけです。
ところがその人の恋人が出現した瞬間、「自分のモノ」を奪われたという事になってしまって、
その奪った相手と、自分を裏切ったその人に対して「怒り」の心を起こしているわけです。
こういうことを、心だけじゃなく、「言動」やってしまったら、それは完全なストーカーなのですが、
「心」だけで言えば、ストーカー並みのことをどれだけやっているか知れないのですね。
「執着心」とは、そういう見境のないものです。
対象が「人」であれ「物」であれ
手に入れている・いないを問わず
あまつさえ、他人の持っているモノであろうが構わず
「私のモノ…」
という強烈なこだわりを、気に入った対象に向けてしまうことを、私達はどうしようもありません。
即座に動いてしまう「執着心」
私達の「心」はそうやって、気に入ったら即「手」を出しているという有様ですが、
もちろん本当に「手」を出しても、現実には手には入りません。
場合によっては犯罪になります。
なので、その「執着心」を実現させる手段としての「努力」が、それから始まるというわけです。
欲しい「物」であれば、それが手に入れられるくらいの経済力を身につけなければなりませんし、
欲しい「人」であれば、その人が自分と一緒にいたくなるくらいの魅力を身に着けなければなりません。
勉強したり、働いたり、鍛えたり、アプローチしたり…
世の中のルールに沿った「執着心」を実現できる道を、一生懸命歩むことになります。
その「努力」の仕方は、実に多種多様です。
子供なら、親にひたすらねだるという事もあるでしょう。
大人なら、とにかく真面目に働いてお金を貯める事もあるでしょうし、
株などの投資にチャレンジする事もあるでしょう。
自分に魅力が備わるための努力に邁進する事もあるでしょう。
相手の喜ぶ言動やプレゼントを差し出す事もあるでしょうし、
好きな相手に、ひたすら熱烈なアプローチを重ねるという事もあるでしょうし、
世の中でなされている様々な営みや努力は、
「立派だな」と見えるものから
「浅ましいな」と思えるものから
「涙ぐましい…」と泣けてくるようなものから
評価はまちまちでしょう。
ただ共通して言えることは、その始まりがいずれも「執着心」だという事です。
どんな綺麗事を言っても、どんな美しい形を取り繕っても、
私達の「心」には、どんな大義名分より、どんな言動よりも先に、
「欲しい…」「私のモノ…」という強烈な「執着心」が起こってしまうのが人間で、
これを仏教では「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と言います。
「執着心」は「煩悩」とも言われるのですね。
私達はこの「執着心」一つにふりまわされ、疲弊させられ、煩わされ、悩まされているので、まさに「煩悩」です。
そしてそんな「煩悩」で満ち溢れているのが人間の心なので、そんな人間のことを仏教では「煩悩具足の凡夫」といいます。
「モノにしている」ではなく「縁がある」
ところがそんな人間にとって、残酷な現実があります。
それは、
私達がどれほど「自分のモノ…」と願おうとも主張しようとも求めようとも、
何一つ、決して「自分のモノ」なんかにはならないという事です。
だいたい「自分のモノにした」とは、どんな状態を言うのでしょうか。
「物」であれば、店に置いてある状態はまだ自分の物ではなくて、
お金と引き換えに、店の店員さんとで「所有権を移す」という合意が完了すれば、法律的には私の所有物となり、
実際に物を自らの手に引き渡してもらえば、誰の目にも「自分の物」と主張できる状況は完了します。
そして、自分の家に持って帰り、部屋に置いておけばもう、「自分の物」という事になっています。
だけどそれはあくまで、人間社会の「都合」の上で、「そういうことにしている」だけであって、
その事実を尊重してくれるのは「人間」だけです。
火事が起きれば焼けてしまうし、洪水が来れば流されてしまうし、壊れてもう置いておけなくもなります、
そして持ち主である「私」が命尽きてこの世を去るときは、持っていくことなど出来はしません。
この「無常」の世の中は、「これは私のモノ」などという私達の思いを決して尊重してはくれません。
やがては、「一時の借り物」でしかなかったことを思い知る事となります。
「物」でさえもそうなのだから「人」ならばなおさらです。
「人」には「心」がありますから、その人の「心」が、私と一緒にいたいと思ってくれている間は、
自分のそばに居てくれる存在であり、その状態を私達は「モノにしている」などと呼ぶこともあります。
結婚して戸籍を入れれば、社会的にも法律的にも、「家族」としてそばに居続ける存在ということになります。
そんな「絆」もまた、一方または両方の「心」に大きな変化が起きて、「離れたい」と望み始めたら、断ち切れてしまいます。
もちろん私の命が尽きてこの世を去るときには、誰一人として私に寄り添ってついてきてくれる人はありません。
「私のモノ」という状態は、「執着心」一杯の人間が生きる社会で造り上げた「思い込み」の産物に過ぎないわけですね。
「無常」という抗えない真理を前に、やがては否定されてしまうことが初めから決まっているものです。
どうあっても、どんな物であろうと人であろうと、「私のモノ」にはなり得ない。
だけど、「私と縁がある」ことは間違い有りません。
いま、手元にあるスマホもパソコンもカバンも、私と「縁」あって手元にあるものばかりです。
家に置いてある家具も電化製品も、家そのものも、私と「縁」あって私の生活の周りに存在しているわけです。
そして、自分と一緒に生活している家族、よく連絡を取り合う親しい人たちも、私と「縁」のある人たちです。
世の中にどれだけの「物」があるか知れないし、どれだけの「人」がいるか知れません。
無数と言っていいくらいのそれらの「物」や「人」の中にあって、
私の手元にある。私の身の回りにある。私と一緒に生活している。私とよく会っている。
そんな「物」や「人」は、私とのよほどの「縁」あっての事です。
そんな、とてつもなく貴重な「縁」に恵まれて、今こうして接しているのだというのが本当なのですね。
そしてその「縁」は、しばらくの間のことで、そのしばらくの関わりにはまた大変な価値があるのですね。
「モノにしている」という執着心一杯の発想から、「縁がある」という道理に即した発想へとシフトできれば、
きっと世界は大きく違って見え始めることでしょう。