「善人」と「悪人」とは、何で分かれるのか
「善い人ってのは結局…『都合がいい人』なんだよね。」
何かの漫画に出てきたセリフだったと思うのですが、ちょっとドキッとする言葉ですよね。
「都合がいい人」
だなんて…
だけど確かに、
「善人」って、どんな人のことなんだろう…?
「悪人」って、どんな人のことかな…?
こういうことを考えれば考えるほどに、この定義づけは難しいものだと思います。
ただ、まず間違いなく言えることは、これを判断する基準は「行い」だということです。
顔がいいとか、スタイルがいいとか、家柄がいいとか…
そんなことを基準に「善人」とか「悪人」を決めるってのは、さすがにないですよね。
このことは、ある意味では昔も今も、そして国を問わず文化を問わず普遍的なことと言えそうです。
どれだけ家柄が重視される時代や国であっても、
「家柄がいい事」=「善人」
という事には、まずならないでしょう。
「善人」か「悪人」かを分かつ場合はあくまで基準は「行い」です。
なので、「善人」とはどんな人か、という問題はそのまま「善」なる「行い」とは何かという問題であり、
「悪人」とはどんな人か、という問題はそのまま「悪」なる「行い」は何かという問題となります。
ではその「行い」を生み出しているものは、何でしょうか。
文化でしょうか?
教育でしょうか?
友達関係でしょうか?
これらも、強く影響していることには違いありませんが、
「行い」を生み出しているものは、一人一人の「心」です。
そして、私達の「心」の中に、
「何が善で何が悪か」
の判断基準が存在するのですね。
その基準に従って、「善い」と判断した「行い」を私達はしているわけです。
植え付けられた「世のため、人のため」の価値観
では、その「善」い行いと「悪」い行いを判断する基準は、どのようにして培われたのでしょうか。
それには色々な因縁がありそうですが、大きなものはやはり「教育」でしょうね。
親から、先生から、先輩から、他の大人たちから、私達は色々な教育を受けて育ってきたはずです。
つまり、私の「行い」に対して、
「それは善い」と褒められたり、
「それは悪い」と咎められたり
もちろん言い方はそれぞれでしょうが、自分のした「行い」に対して他人から
「善い」「悪い」の評価をされるという経験は、誰もが何度も何度もしているはずです。
「他人から認められたい」
この欲求は誰もがありますね。
もちろん個人差はあります。
中には、
「誰に何と言われようとも、自分が正しいと信じた行いを貫く」
という人もいるでしょう。
自分の中に、かなり強固な「信念」を築いてきた人ですね。
自分の中の「善」「悪」に対する「信念」が培われれば、
「その信念に従って生きたい」
という思いが、
「他人に認められたい」
という思いに勝って、強固な行動基準となってゆくことでしょう。
だけど、最初からそんな「信念」を持っている人はいません。
なので、「信念」が養われるまでは、「他人に認められたい」の思いに支配されざるを得ません。
幼い頃から、親から、先生から、先輩から、兄弟から、
「よく出来たね!」と、褒められたり
「そんなことをしちゃダメ!」と、咎められたりして、
自然と、「善いこと」「悪いこと」の区別をつけるようになって行くのですが、
「世の中」全体から、色々な人を通じて自分の中に、「世の中の規範」が植え付けられていきます。
それは、この世の中が上手く回ってゆくための、人間たちの都合によって作られた「規範」です。
だから基本的に、
他人に迷惑をかけること
を、「悪」としていますね。
そして、
他人の助けになること、役に立つこと
を、「善」としています。
他人を苦しませたり迷惑かけたりしないように
他人の役に立てるように
いわゆる「世のため」「人のため」という価値観が私達の心の中に造られてゆきます。
人間社会で生まれ育った以上、もれなく私達の心の中には「人間都合」の善悪の規範が造られるのですね。
だから基本的に問題にされる「行い」も、あくまで「他人に影響を与える行い」です。
一人で、自分の部屋で何をしていても、それが他人に影響を与えないならそこに「善い」「悪い」のメスを入れる必要はないでしょう。
まして、心の中で何を思っていても、そのこと自体を「善い」とか「悪い」とか切り込まれることもありません。
「善い」も「悪い」も、「実際に他人に影響を及ぼす場面」でこそ、問題にされるのですね。
そうすると、会社なり学校なりどこかのコミュニティなどで、その場の人たちにとって都合よく振る舞っている限り、「善人」と言われるでしょうし、
そのコミュニティの規律を乱したり、迷惑をかけるような振舞をすれば「悪い人」扱いをされます。
善人も悪人も、社会の中、コミュニティの中での都合に沿うか沿わないかで分かれます。
社会やコミュニティの都合や秩序を重んじる人ほど、善人になりますし、
それらを軽んじる人ほど、悪人になります。
だからこの「善人」「悪人」という言葉はどうも、色々と引っかかるところがあるのですね。
私達一人一人は、そんな「社会の秩序」や「コミュニティの和」のために生きているのだろうか?
そんな「他人にとって都合の善い」ような「善人」になることに、本当に価値があるのだろうか?
そんなモヤモヤした思いが拭いきれないのですね。
それどころか、
「善い人」なんかに、なりたくない。「悪人」でけっこう、悪人上等。
そんな考え方さえも珍しくはありません。
この「善悪」の問題について、仏教ではどのように語られているのでしょうか。
「善悪」を分かつ「因果の道理」
仏教では私達の「行い」のことを「業(ごう)」と言いまして、
この「業」についてハッキリと「善」と「悪」とに分けて教えられています。
善い行いのことを「善業(ぜんごう)」と言い、悪い行いのことを「悪業(あくごう)」と言われます。
「善業」とは、「善い結果」を生み出す業であり、
「悪業」とは、「悪い結果」を生み出す業です。
ということは、「業(行い)」とはあくまで、自分の未来の結果を生み出す「種」であるということが前提となっているのですね。
これを「自業自得」と言います。
自分の行いの結果は、自分に現れるのであって、他人の結果とは決してならない。
これが仏教が教える「行い」と「結果」との因果です。
「自分が言ったことが、やったことが、他人にどう影響するだろうか…」
日頃はそんな感覚で自分の「行い」をみているかもしれません。
しかし仏教ではあくまで「行い」は、自分の結果を生み出す種なのですね。
自分のした「行い」の結果は、自分にしか現れないのであって、決して他人の結果とはならない。
この「自業自得」の真理を徹底して教えられているのが仏教です。
「いや、それでもやっぱり行いは他人の結果に影響するのでは…」
と思うでしょうが、それは、「他人にとって、私の行いが『縁』となっている」という事なのですね。
だからもちろん、自分が他人にとって、悪い「縁」とならないように、善い「縁」となるように努めることは当然大切なことです。
だけどそれはあくまで他人にとっての「縁」の問題です。
「行い」を自分で蒔いた「種」として見たならば、その「種」が生み出す結果は自分自身の結果に他なりません。
だから、仏教で「善い行いに努めるよう」教え勧められるのは、
「自分に善い結果が恵まれるように、善い種を蒔きなさい」
という教えです。
「悪い行いを慎むよう」教え勧められるのは、
「自分が苦しむ結果を生み出すような、悪い種を蒔きなさるなよ」
という教えなのですね。
社会の都合のため、他人の都合のため、他人への影響がどうであるか、などという基準で善悪を説かれてはいません。
「自業自得」の真理に則って、一人一人が自分の善い未来を生み出すか、悪い未来を生み出すのか、
その観点で、「善い行い」と「悪い行い」とが説かれているのですね。
そして同時に、そんな自分の善い未来を生み出す「善業」は、自ずと他人に対しても善い影響を及ぼすものでもあります。
これを仏教では「自利利他」と言います。
自分が幸せになれると同時に、他人にも善き影響をもたらす。
仏教で教える「善業」とは、そうい自利利他となるものなのですね。
本当に「善」と「悪」とを語る上で、この「自業自得」の道理の理解は欠かせません。
「行い」とは一体、私にとってどういうものなのか?
その答えを明確示す「自業自得」の道理を知ったとき、「善」「悪」の理解も大きく変わることでしょう。
「行い」とは、
「他人に影響を与えるもの」
…ではなくて、
「自分の未来を生み出す種」
これが仏教で示される「行為」の本質です。
ということは、
他人に影響があるかないか、他人が見ているか見ていないか、
それは関係がありません。
「自分の未来」に直結するものが「行い」ですから、「自分の心から望む未来は何か」。
これが常にブレないことが大切です。
そして、そんな真に望む未来に繋がる「道」となる自分の「行い」をこそ、見つけたいものです。