「ハングリー精神」を真に味方とするには〜煩悩の活殺〜

「ハングリー」が「味方」となるか「仇」となるか

ハングリー精神が大切」と、よく言われます。
「精神的な飢え」であり、果たしたい目標に対する強烈な渇望ということですね。
「飢え」を感じたならば、私達の欲望はそれをなんとか満たそうとします。
「飢え」を「飢え」のままでは放置できない。どうしても、満たさずにいられない。
これは私達の「欲望」の強い習性です。

ただ、そのハングリー精神が自分の「味方」となってくれるのは、
その強い渇望がちゃんと「努力」という行動に結び付く限りにおいて、であります。
そうでなければ、「渇望」は「焦り」となって、「焦り」は「惑い」となり、
かえって自分の首を締めるような行動に出てしまうこともあるからです。

「職場の人たちから自分を認めてもらいたい…!」
その渇望が、自分より仕事が出来て周囲から大事にされている同僚への妬みとなり、強く当たってしまうような行動をしてしまうかもしれません。
「もっともっと収入を増やしていい生活をしたい…!」
その渇望が、安易に高リスクのビジネスや投資に駆り立ててしまったり、果てはギャンブルに注ぎ込ませてしまってりすることもあります。
「本当に満たされた人生を造ってゆくのは、たゆまない努力の他はないはず」
と、どこかで分かってはいても、ついつい「努力の積み重ねをショートカットして結果だけを手に入れよう」という惑いに陥ってしまうのが人間の危うさです。

ハングリー精神の元となっている「欲望」は、仏教では「煩悩」の代表格として挙げられるものに当たります。
「煩悩」は本来「煩わせ」「悩ませる」もので、自分も他人も苦しめてしまう元となる心です。
「ハングリー」も「渇望」もそれは、「不足感」に他ならないのであって、それは「煩い」や「悩み」の精神状態に違いありません。
そんな「煩い」や「悩み」が「味方」となるのは、その「渇望」を、ちゃんと希望につながる行動の源と出来るからこそです。
「煩い」を、ただ「煩い」として終わらせるのか、望む未来を切り開く原動力に出来るのか。
これは「煩悩」に満ち溢れた人間にとっての死活問題と言えるでしょう。

仏教では人間を「煩悩具足の凡夫(ぼんのうぐそくのぼんぶ)」と言われ、
「欲望」に代表される「煩悩」が、この身に満ちあふれているのが「人間」だと教えられます。
この肉体は、外からの様々な刺激を感じることができます。
五感が、「色」「音」「臭い」「味」「触感」を感知して私達の心に届けてくれますが、
私達の心はそれらをただの「情報」として受け取るだけにはとどまりませんね。
それですませられるのはコンピューターだけです。
「人間」は必ずそこに様々な「執着」を起こします。

お金でも物でも人でも…
「自分のモノにしたい!」
という執着が、どうしても起きてしまいます。
この肉体が受ける刺激はすべて、執着の対象となってしまうのですね。
この「執着」こそが「煩悩」であり、この肉体はそんな「執着心」に溢れていますから、
「煩悩に満ち満ちたものが人間」だと言われるのですね。
それを、「煩悩具足の凡夫」と言います。

そんな人間だからこそ、
「煩悩」を「仇」にしてしまうのか、「味方」につけるのか、
これはそのまま人生の「幸」「不幸」を分かつといっても過言ではないかもしれません。

「渇望」が、
「惑い」となり、仇をなす行動となってしまうのか、
「味方」として、努力を重ねるエネルギー源と出来るのか。
これは、私達がどれほど「因果応報」の道理を信じられているかどうかで分かれます。

「因果応報」はシンプルでいて複雑…

「因果応報」という仏教の言葉は、
「原因」に応じて、「結果」は報いるものだという教えです。
人生がどれほど予測不可能で、どれほどダイナミックで、複雑なドラマに溢れたものであるとしても、
この「因果応報」だけは、曲げられないのですね。

この「因」とか「原因」と言われるものが、私達の「行い」です。
私達一人一人の人生に現れる「結果」はすべて、「行い」の報いであり、
「行い」に応じた報いしか、自分の人生には現れないというのが「因果応報」です。

「行動に応じた結果しか現れない」と聞けば、
「努力の積み重ねによるしか、本物の結果はありえない」と聞けば、
ただのマッチョな精神論や、つまらない「正論」のように聞こえるかもしれません。
「そんな単純にいくものかな…?」
「人生はもっと複雑に出来ているのではないか…?」
古臭い、カビの生えた精神論のようにしか思えない人もいるかもしれません。

しかし仏教では、この「因果応報」一つを本当に理解してもらうために、
何千冊もの本が出来るくらいの言葉を尽くして「教え」が説かれています。
このことを徹底して説かれた仏教学の理論を本当に理解するためには10年ぐらいはかかると言われます。
一見シンプルに見えるような事が、掘り下げればどこどこまでも奥深い。
そんなことは色々ありますよね。
この「因果応報」の道理はまさにそれです。

「人生いろいろ」
「人生不可解」
「事実は小説より奇なり」
と言われるのは、一人一人の人生に次々と引き起こる「結果」が、悲喜こもごもで想定外だらけで、複雑極まるものだからです。
だけどそんな複雑極まるものは「結果」だけではありません。
私達一人一人の「行い」もまた、私達の認識を遥かに超えて、複雑で、制御の難しいものです。
「どうしてあんなことを、言ってしまったのかな…」
「どうしてあんな行動に出てしまったんだろう…」
「どうして自分を止められないのだろう…」
「なんで、こんな気持ちになるんだろう…」
と、自分で認識できている事でさえも、考えてみれば自分の「言うこと」「やること」「思うこと」は不可解だらけです。
だけどそれはほんの一端で、認識できないところで私の複雑極まる行いは次々と、人生の「原因」を造り続けています。

そんな複雑な「原因」と「結果」が、一人一人の人生を展開してゆくのですから、
「因果応報」という言葉はシンプルですが、現実にはそれが極めて複雑に展開しているのですね。
「シンプルに言えるけれど、それが世の中では複雑かつ予想外な形で展開している」
これはいわば「真理」の一つの特徴と言えるかもしれません。
だからこそ、そういう道理をより深く理解し、日頃の実践を通して確信を高めることが、何よりも重要なことです。

「ハングリー」に心地よさを覚えるのは…

ハングリー精神が本当に味方となってくれるのは、
「因果応報」の道理を確信できていることが前提となります。
その確信があるからこそ、
結果を求めてやまない渇望は、「惑い」や「仇を為す行動」になることなく、ちゃんと「努力」に結びつきます。

人間は、煩悩に満ち溢れた存在であり、
あえて「ハングリー精神が大事」と言われなくても、私達の煩悩は常に「ハングリー状態」です。
そんな私達にとって大切なのは、
「因果応報の道理に則って、如何にそのハングリーを味方につけるか」
というこの一点なのですね。

煩悩の渇望を「努力の積み重ね」によって満たそうとするときは、
「積み重ね」を要する以上、時間がかかりますし、ハングリー状態はそれだけ長引きます。
「ハングリー状態が、すぐには満たせない」
という現実を、受け入れなくてはなりません。
これは、
「すぐにでも満たした満足したい!」
と叫んで止まない「煩悩」にとっては、なかなかシビアな現実です。
ですが、
「煩悩具足」の私が、因果応報の道理に則って生きるたまには、
ある程度の精神的なハングリーを受け入れることが必要となります。

そういうことを分かっている人が、
「ハングリー」を受け入れ、それどころか好意的にさえ感じているのでしょう。
筋トレが習慣づいて、体を鍛えることが好きな人にとっては、
「筋肉痛」は、基本的にあって然るべき状態であり、逆に「筋肉痛」がないと気持ち悪い
みたいな話を聞いたことがあります。
その人はきっと、分かっているのでしょう。
「筋肉痛」の状態の中にこそ、筋肉の生成が起こり、望む肉体が手に入るまでのプロセスなのだと。

それと同様に、
精神的な渇望を原動力として、ハングリー状態の中で「努力」を積み重ねることで、
望む現実を手に入れる人生を歩んでいる人にとっては、
「ハングリー状態」は、そのまま「望む現実へと進んでいる証」であり、
逆に、「飢え」も「渇望」もない心境に、物足りなささえも感じるのでしょう。

「飢え」も「渇望」も「不足感」も、ネガティブな精神状態とされているものばかりですが、
それらを「ハングリー精神」と好意的にとらえられるのは、
因果応報の道理に則った道を、それらを原動力として歩み、心から望む現実へ一歩一歩近づくからこそ、なのでしょう。