見落とされている「私の本性」に光を当てたなら~自覚なき歪みを正す視点~

「大人」になって身に付ける「思考パターン」

子供が腹を立てる時は、
「もうー、これ食べたかったのに、なんで食べちゃうの!」
「これ欲しいのに、買ってくれない…!」
「僕の話、聞いてよ!」
「こんな面倒くさいこと、やりたくないのに!」

こんな感じで、
通したい思いが通らない。
欲しいものが手に入らない。
思い通りにならない。
そんなことにイラついていることがよく分かる「怒り方」ですね。

ところが大人の場合はこれが変わってくるのですね。
「他人の物を食べるなんて行儀の悪いことをして!」
「もうちょっと空気を読めないのかな、この人は…!」
「人の話をちゃんと聞けないなんて、社会人としてどうかと思うよ!」
「この作業、なんでこんな効率の悪いことをさせるのか!」

腹を立てる理由が、だいぶ「立派」になっている感じがしますね。

子供の頃は、
「ただ自分が満たされない…」
という思いばかりが主張されていますが、
それが大人になると、
・周囲の事を考えるとそれはよくない
・人として社会人としてあるべき姿に添わない
・みんなのためにならないことが許せない
というように、あくまで「自分が、自分が…」ではなくて、
周りの人のため、社会のため、そしてその怒る相手自身のため
その理由で怒っているのだということが主張されるようになります。

子供の頃は、自分の事ばっかり考えていたのが、
大人になると、自分以外の周りのことをよく考えるようになっていく。

…と、本当に言えると思うでしょうか?

いやもちろん、そういう面もあります。
大人になることで、知識と経験を重ねて視野が広がりますから、
自分の行動や他人の行動が周囲に及ぼす影響まで考えが回るようになります。
子供の頃には見えていなかった「行動が及ぼす色々な影響」が見えるようになりますから、
そのことを配慮した行動を取ることができるようになりますね。

こんな発言をすれば、周りは白けてしまうかもしれない。
ここでちゃんとリアクションを取らないと、相手は悲しい気持ちになるかもしれない。
きっとこの人は、こういうことを言って欲しいはず。

一つの行動について、きめ細かく、複雑な所に至るまで考えが及びます。

そうして、
他人の気持ちを察することができる
周囲の空気を読むことができる
そしてそれを尊重した行動を取れるのが立派な「大人」
という価値観が養われていきます。

もちろん私も、この価値観は大切にしないといけないと思っています。
人間社会という「縁」の中で生き抜くためには、必要な思考パターンであり、
日々磨いていくべき感覚と言えるでしょう。

そしてそういう、人間社会の「縁」の中で揉まれて見に付いてく「思考パターン」があると同時に、
その「思考」の底に渦巻いている、大人も子供も変わらない「人間の本性」があることを、
私たちは知らなければならないのですね。

「大人の思考」を操る「本性」

この人間社会の中で大人として生きていくために身につけた「思考パターン」は、
私にとっては、とても大切な拠り所となるものです。
自分の「行動」「発言」も、この「思考パターン」に従って出てきますから。
仕事をする時でも、
家族と接する時でも、
友達と過ごす時でも、
恋人と過ごす時でも、
パフォーマンスを司るのはこの「思考パターン」です。
それによって、上手くいったり、上手くいかなかったり…
そんな経験を私たちは日々重ねていますから、
この「思考」こそが「私」の本質だと思って生きているのかもしれません。

だけどそれはあくまで、
この現代の人間社会や文化という「縁」によって培われたものであって、
「私」がこの「縁」の中で生きるために作り上げた「手段」と言えます。

もし、生まれてきた時代や文化が全く違い、
今とは全く違うことを要求される「縁」の中で生きていれば、
きっと違った「思考パターン」を作り上げていくはずです。
「手段」は、場面場面において変わるものですから。

それらの「手段」が「私」の本質ではなく、
私の本性は、それらの表面的な「思考」のずっと底に渦巻いているものだと仏教では教えられます。

それを、「煩悩」と言われます。
そしてこの「煩悩」は、時代も国も文化も、そして大人も子供も、関係なく変わらない、
普遍的な人間の本質だと言われます。

「自分がああしたい、こうしたい」という主張ばかりの「子供」も、
「周囲の事を、相手の事を」と、社会性を重視している「大人」も、
全く変わらない「煩悩」が、ただ違った表れ方をしているだけだということです。

「煩悩」が全部で108つある、
という事は「除夜の鐘をつくの数」という事からもよく知られているようですが、
中でも代表的で最も分かりやすいのが「欲望」「怒り」です。

最初に挙げた、「子供や大人が腹を立てる場面」というのは、この「煩悩」の代表的なもののである「怒り」が起きてくる場面だということです。

そして大切なことは、「欲望」と「怒り」の関係です。
これら2つは、別個独立したものではありません。その間には深い関係があります。
その関係を一言で言えば、
「欲望が妨げられると出てくるのが怒り」
という事です。
あくまで「怒る」「腹を立てる」とはそういうもので、そうではない「怒り」は無いということです。

「欲望」は、言うまでもなく、「自分が満たされたい」というものです。
自分以外の他が満たされる事など「欲望」は求めていません。
あくまで「私が満たされたい」のが「欲望」ですよね。

この社会で、「大人」として欲望を満たしてゆくには、その社会の要求に添った行動をしなければなりません。
社会のルールや要求を無視した行動をしていては、
社会からお金を貰うことも出来ませんし、
社会の構成員として周囲から認めてもらうことが、最低限のラインで失格してしまいます。
欲望を満たすどころか、生きていくことさえも難しくなってしまいます。

そのような「縁」の中で私たちの「欲望」は、欲望を最も満たせる「手段」となる「思考パターン」を構築してゆくのですね。

いま、私たちが持っている「思考パターン」は、どのようにして生まれたのか。
それは、煩悩の筆頭となる「欲望」と、現代社会という「縁」とがあわさって生み出されたものだと言えます。

「正義の怒り」という恐ろしい錯覚

子供の頃は、まだ現代社会の「縁」に直接さらされないように、親や家族が守ってくれています。
そういう「縁」に囲まれた子供時代の「欲望」と、
社会の「縁」の渦中に放り出された大人時代の「欲望」と、
現れ方が同じであるはずがありません。

「縁」が大きく違いますから。

「子供」といったって、びっくりするぐらい空気を読む子供もいますよね。
親戚関係の事情なのか、
家族関係の事情なのか、
インターネットで自らいろんなコミュニティとか関わったのか、
学校での人間関係で揉まれたのか、
何かしらの「縁」がそのような「煩悩」の表れ方にさせたのでしょう。

いずれにせよ、大人も子供も変わらない「煩悩」が、私の正体である事を知ることが、
仏教ではとても重視されるのですね。

表面上に表れた思考の「形」ばかりにとらわれて、その根源はどこにあるかを全く知らない、見ていない。
実にこのことが、いろんな場面でいろんな歪みを起こしてしまいます。

極端な例かもしれませんが、
明らかに「自分が満足したい、楽がしたい、有利になりたい」と見え見えの人が自分に対して、
「これはお前の為なんだぞ。そしてみんなのためなんだぞ。」
と言いながら、無理な要求をふっかけてきたらどうでしょう。
全力で拒絶したくなりますよね。

まだ、
「どうしても、こういう結果が欲しいんだ。だから頼む、協力してくれないか。」
と言われたほうが、その潔さに、少なくとも話ぐらいは聞けるかもしれません。

明らかに自分の事しか考えていないのに、
「お前の為だぞ。」という恩着せがましい態度をプンプン匂わせながら自分の思いをぶつけてくる。
こんな態度で何を言われても、チリほども心に入りません。

自分の本性を見失うということは、こういう「歪み」を起こしてしまう危険と隣合わせです。
「煩悩」をよく知り、自分の「煩悩」が、私の生活上どのように現れているのかをごまかさずに見ることが、最も現実に根ざした生き方なのですね。

私たちは「縁」の影響下で様々な「思考」を巡らせて生きているのですが、
その底には常に、「自分を満たしたい、自分を守りたい」の「欲望」が渦巻き、
その欲望の「表れ方」がそれぞれ違った思考を生み出しているのが実態なのですね。

その「欲望」が妨げられた時に起きるのが、「怒り」です。

大人が腹を立てる場面は、表面上は子供とは異なって、
社会のこと、
周囲の人たちのこと、
そして腹立てる相手自身のこと
それら「自分以外」のために怒っているような形になっています。
本人さえも、自分の事で怒っているのではないと思い込んでいたりします。

だけどその感情が「怒り」である以上それは、自分の欲望が妨げられて燃え上がっているものです。

その欲望が、社会の価値観にしたがった表面的な思考の底に隠れていて、自覚できないだけです。
底に渦巻いている自分の「欲望」という煩悩が見えていなければ、
さもその怒りが、他人のため、社会のための「正義の怒り」のように見えるかもしれません。

そんな、純粋に世の中のためだけを思った「怒り」など存在し得ないのですね。
私が「怒り」という感情を起こすからには、私の中に、それを起こす感情的な「種」があるからです。
強烈に「自分を満たしたい」と求めずにいられない「欲望」が自分の中に渦巻いているから、
それを妨げられて、「許せない」という強烈な「怒り」の感情が私の中に渦巻いているのです。

「怒り」が燃え上がる場面こそ、自分の中の煩悩をどれほど理解しているかが試されていると言えるでしょう。

世の中で求められる価値観もよく理解している。
自分の中の燃え上がる「煩悩」という本性もよく理解している。

この「因」「縁」もよく理解してこそ、地に足の付いた人生をたくましく歩むことができるのですね。