こんな状況の私が「苦しい」だなんて、甘えているのかな…?〜自分も他人も大切に出来る心〜

「こんな状況で苦しいなんて思っちゃいけない」なんてあるのか

「考えてみたら、世界中の貧困国や紛争の渦中にある国の人たちと比べたら、
私は食べる物にも住む所にも困らず、武装集団の襲撃に怯える事もなく、
本当に恵まれた環境で生活しているのに、
それなのに私が『苦しい』とか『辛い』とか言ってるなんて、ダメだよね…

そんな声を聞くことがあります。
毎日、嫌な思いをする事が絶えなくて、悩むことばっかりで、自分を好きにもなれなくて、
とにかく「生きている」のが辛い、苦しい…
そんな思いで生きているのだけど、時折、
自分よりももっと深刻な問題を抱えていたり、
ずっとずっと苦労していたり、
厳しい環境の中を必死に生きていたり、
そんな人の姿を見たり聞いたりすると、
そんな人たちよりもずっとずっと甘くて恵まれた環境なのに、
「辛い、辛い…」
ということばっかり思っていることに、自分で情けなくなってしまう。
そういうこと、ありますよね。

「そんな厳しい中で一生懸命生きている人がいるのだから、自分も頑張ろう!」
などと思えたらいいのかもしれませんが、
「そんなに前向きに考えられるのなら、そもそもこんなにも苦しんでないよ」
という人も少なくないのが事実なのですね。
寧ろ反対に、
「恵まれている自分は本当はもっと頑張らなきゃいけないのに、頑張っていない…」
そんな自分がますます情けなく、嫌になってしまう事もあります。
そう感じてしまうと「苦しんでいる」という状況すらもまた許されない事のように思えて、
ますます追い詰められてしまいます。

けれど、本当に、
「こんな環境の自分が『苦しい』なんて思っちゃいけない」
なんてことが、あるのでしょうか?
「苦しい思いをする」という事が、何か情けないことだったり許されないことだったり、
そんな事が言えるものなのでしょうか?

決して、そんなことはありません。

「苦しい思いをしている」事に、「許される」も「許されない」も、ないのですね。
「苦しい」ものは「苦しい」わけですから。
その人が苦しい思いをしているのなら、それは紛れもない事実であり、それを他人が責める筋合いなんてありませんし、
自分で「許されないこと」なんて思う必要もないのですね。

「力になってあげたい人」ってどんな人でしょうか

仏教は「慈悲の教え」だと言われます。
「慈悲」という言葉は一般的にもよく使われる言葉で、「優しくて何でも許してくれる」みたいなイメージかもしれませんが、
これは仏教の言葉なのですね。
「慈悲」の「慈」は、「抜苦」ということで、「苦しみ、悩み」を「抜き取る」という意味です。
「慈悲」の「悲」は、「与楽」ということで、「楽しみ、幸せ」を「与える」という意味です。
相手の辛く苦しい状況を、なんとか解放させてあげたい。
そして、楽しみを、幸せを味わわせてあげたい。
そんな心を「慈悲」と言います。

ということは「慈悲」の心の対象となるのは、「苦しみ悩みの人」という事になります。
私達だって、誰かに「慈悲」の気持ちを起こすのは、やはりその相手が何か「苦しい、辛い」という状況に置かれている時ですよね。

ただ問題は、相手がどんな状態なら「苦しみ悩みの人」と見ることができるかという事なのですね。
というのも、人それぞれ「苦しみ」と感じる事がみんな違いますので、
「それは、苦しいだろうな…」と心から共感できる「苦悩」もあれば、
「それの、一体何が苦しいの…?」ととても理解できない「苦悩」もあります。
多数の人が「それは苦しいだろうな…」と思えるような事なら、多数の人からの「慈悲」を向けられます。
「貧困の国に生まれ育ち、毎日ただ生きるのに精一杯」
「飢餓の危機にさらされて、栄養失調で苦しんでいる」
「紛争による難民となって、不安な日々を怯えながら暮らしている」
「自然災害に遭って、家族や財産を失って辛い生活を強いられている」
こういう、ニュースなどで報じられる「苦悩」ならば、誰もが「気の毒に…」という「慈悲」の気持ちが起こり、
国中から、世界中から寄付や支援が寄せられたりします。
もちろんこれらが「苦悩」である事に間違いはありません。
多くの「慈悲」が向けられて然るべきですし、寄付や支援がなされる事はもちろん素晴らしい事です。

ですが、「苦悩」は決してそのように「多数の人から理解される」ものばかりではありません。
むしろ、そうでない「苦悩」の方が多いかも知れません。
他人には理解できないような、
コンプレックスによる悩み、
親子関係での悩み、
恋人関係での悩み、
未来への不安による悩み、
孤独感に苛まれての悩み…
いやいや、こんなように私が「言葉」に出来る程度ならまだ理解の余地がありますが、
私の思いつくような「言葉」ではとても表しようのない「悩み」も、どれだけでもあるでしょう。

他人からしたら、「そんなものの何が苦しみなのか…?」と思われるような「苦しみ」は、確かに存在します。
だけどそれも、本人が「苦しい」と感じているのならば間違いなく「苦しみ悩み」なのですね。

そんな、いわゆるメジャーな苦しみ・マイナーな苦しみがあるわけですが、
どちらも「苦しみ」という点においては変わりません。
誰もが理解でいるようなメジャーな苦しみならば、「苦悩の人」と言えるけれど、
その人にしかおおよそ理解できない苦しみならば、それはただの勘違いで「苦悩の人」なんて言えない…
そんなことは決してないのですね。

ただ、私達人間が起こす「慈悲」はどうしても、「共感できる・できない」によって、その対象となったりならなかったりするものです。
それは感情の問題としては仕方のないことですが、
それでも、自分の経験や感性を以てしては理解の及ばない「苦しみ」はどれだけでも存在するのだし、
自分が、他人の尺度で理解されないような「苦しみ」に苛まれていてもそれは決して「おかしな事」でも「許されない事」でもないのですね。
そんな苦しみの人が「慈悲」の対象となって、然るべきなのです。

「自分も他人も大切にできる心」の土台になる理解

仏教では、私達の苦しみについて「自業自得(じごうじとく)」と教えられます。

…と聞くと、
「さっきまで慈悲深げな内容だったのに、なんか急に冷たくなった…!?」
と感じるかもしれませんが、それは「自業自得」の意味の誤解です。

苦しみについての「自業自得」というのは、
「自分が受けている『苦しみ』は、自分の『業(ごう)』が生み出しているものだ」
という事です。
「環境」が苦しみを生み出している、ということではないのですね。
「環境」は、あくまでも「縁」です。
たしかに「縁」も大切ですし、「縁」によって、苦悩が大きく変わることは否めません。

だけど、苦しみの「因」は、あくまでその人の「業」であると仏教では説かれます。
「業」とは、過去にやってきた「行為」のことです。
一人一人、これまでの人生を生きてきた中で、
色々な「行動」をし、「発言」をして、そして色々な「思い」を抱いてきました。
それらの「行動」も「発言」も「思い」もすべて、その人の「業」です。
一人一人、これまでの人生で数えきれないほどの「業」を造って来ているのですね。

私達が受ける「苦悩」の「因」は、それら一人一人が積み重ねてきた「業」です。
その「業」が、さまざまな環境という「縁」と結びついて、一人一人の「苦悩」は生み出されています。

もちろん、私が造ってきた「業」と、あなたが造ってきた「業」とは全く異なります。
そんな私の「業」が「因」となって生み出される「苦悩」と、あなたの「業」が生み出す「苦悩」とは、
同じであるはずがありません。

たとえ同様の「環境」におかれて苦しんでいても、「縁」は共通していると言えるかもしれませんが、
「業」は全く異なりますから、それぞれの「苦悩」も全く異なったものになります。

先程は「共感できる苦しみ」「共感できない苦しみ」とがあるという事をお話しましたが、
「自業自得」の道理で生ずる一人ひとりの「苦しみ」は、本当のところは誰も理解できない苦しみなのですね。
だから、
「一人一人が、本当の意味で誰も理解してくれない『苦悩』を背負って生きている」
これが仏教の人間観です。
そしてまたこれが、私達が一人残らず「慈悲」の対象となって然るべきと言える姿です。

感情として「共感できる・できない」は仕方ありません。
ですが、一人一人が「自業自得」の道理の中で「苦悩」を抱いているという真実を理解できれば、
「お互い、誰にも理解されない苦しみを背負っている」
という目で自分も他人も見ることが出来るはずです。
それは、自分も他人も大切にする心を育むためのとても大切な理解なのですね。

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