「生きる」って何なの?〜答えの無さそうな疑問にこそ、明確に答える〜

訳も分からず巻き込まれたイベントのような「人生」

「生きる」って、何なのでしょうか?

この問いかけを聞いて、
「えーっと、何を言っているのでしょうか…?」
となる人もいると思いますが、
こう問わずにいられない気持ちを理解できる人もいると思います。

オリンピック競技に必死になるあまりに、
「オリンピックて、何なのでしょうか…?」
そんな問いかけをせずにいられなくなるオリンピック選手のように…

会社で必死になって働くうちに、
「会社って、何なのでしょうか?」
と、もう分からなくなってきている会社員のように…

必死に生きれば生きるだけ、
「生きるって何なのだろう…?」
この「人生」に生まれてきて、生きている私達に、起きて然るべき疑問だと思います。

ただ、「オリンピック」や「会社」などの場と、この「人生」の場では、やはり大きな違いがあります。
というのも、「オリンピック」にしても、「会社」にしても、
そこに入る前、それを始める前に、その対象をリサーチすることが可能です。
ていうか、普通しますよね。
「オリンピック」に出る選手が、よもやオリンピック競技のルールもよく知らないなんてことはあり得ません。
ありとあらゆる、オリンピックの心得を、コーチや先輩から教えられ、自分でも考えて、
そしてトレーニングを積み重ねて、「知っている」どころか「熟知に熟知に重ねて」こそ、その競技に挑むわけですよね。

だけれど、その競技に本気で挑めば挑むほど、
「オリンピックって、一体何なんだよ…」
という疑問が起きることも、あるかもしれません。

「会社」に入社するときに、ろくに知らべもせずに、テキトーに面接を受けて、内定をもらって入社するなんて、普通はありませんよね。
資料を読んだり、ネットの情報を見たり、実際に訪問したり、場合によっては「インターン」でその会社での活動を体験して、
「ここで働こう」という覚悟を決めてから入社するわけです。

だけれど、実際に働き始めて、その環境に本気でぶつかる程に、
「会社って何なんだ…」
という感情は起きてくるかもしれません。

では「人生」はどうでしょうか。
「人生」を生き始める前に、事前リサーチをしてきた人って、いませんよね。
事前リサーチどころか、覚悟どころか、もうなんか、いつの間にか始まっちゃってた。
みんな、そんな感じなのですね。
色んな問題や面倒ごとや悩みが次々と現れる中で、ただ精一杯「生きる」
その繰り返しの中、
「一体、『生きる』って何なのか…?」
それが全く分からない、となるのは、ある意味当然ですよね。

訳も分からず巻き込まれて、よく分からない間に始まって…
という、考えてみれば無茶苦茶な状況でスタートしているわけですね。

「見様見真似」で始まる人生に疑問が起きるとき

けれど、生まれたからには「生きる」しかありません。
じゃあ、どう「生きる」か?
「君たちはどう生きるか」
なんて本が流行りましたけれど、まさにそれですね。

たとえばもし、訳も分からずに得体の知れないイベントに巻き込まれて、とにかく参加しなきゃいけないとなって、
「どうしよう…?」
となった場合、どうしますか?

とりあえず周囲を見る。
すでに自分より前からそれに参加している「先輩」を見て、真似る。
それが一番無難そうですよね。
何の情報もない以上、頼るべきは、先んじてその「場」に参加している人たちの行動です。
すると、参加者たちは口を揃えていいます。
「大丈夫だよ、みんな、こんな風にしていれば、問題なくやっていけているから」

これが「人生」でいう「常識」と呼ばれるものです。
「人生」が何なのか、「生きる」とは何なのかは分からない。
何のために生まれ、何のために生きているのかもよく分からない。
だけど、たいていの人は「こんな風に生きている」
その通りにならっていれば、問題なく生きていける。
そんな共通認識を「常識」と言います。
特に、それが正しいという根拠があるわけではありません。
ただ、その時代、その文化の多くの人が安心できるような行動の類型であるというだけです。

学校でいい成績をとって、
部活動なり何なりに打ち込んで、友達も作って、
いい大学に入ったり、専門学校で知識や資格を身に着けたりして、
いい企業に就職して、社会にうまく順応して、
やがて結婚して、子供ができて、
温かい家庭を作って、老後の蓄えも抜かり無くして、
子どもたちが一人前になったら、老後を悠々自適に過ごして、そして死ぬ。

日本なら、今でもそんな「生き方」が常識的と言えるかもしれません。

その「常識」の通りにしていたなら、
「とりあえず、みんなと同じような生き方をしていられる」
という安心感だけは得られると思います。
だけどそれが、本当に自分の心から望む「生き方」なのかは分かりません。

せっかくの「お手本」を参考にすること自体は何も悪いことはないのですが、
あくまでそれは、いち「手段」に過ぎません。
それだけで、心から安心できて、心から満たされて、後悔のない人生になるものではないでしょう。
時に疲弊し、時に理不尽を感じて、
やはりいずれ「生きるって、何なんだろう…?」という切実な問いが浮上してくるかもしれません。

「常識」や「みんなやってること」に習うことで「とりあえず」の安心は得られてでも、
いずれは、「生きること」そのものに向き合わねばならない時が来るのでしょう。
私にとって、「生きる」とは…?
仏教はまさに、その問いかけの答えに至らせるよう、教えを説かれていると言えます。

「生きる」とは「業」の連続

仏教では、私達が「生きている」世界「業界(ごうかい)」と教えられます。
「業(ごう)」とは、「行い」のことですから、「業界」とは「行いが生み出した世界」という事です。

「この世界は誰が造ったのか?」
このテーマは様々な宗教で語られていることで、
多くの場合、そのテーマの答えとして「神」の存在が語られています。

ところが仏教ではそのような
「この世界を想像した『神』」という存在が出てきません。
それもそのはずで、仏教では「世界」は、私達一人一人の「行い」が造り出しているものと教えるからです。

ということは、
私は、私の行いが造り出した「私だけの世界」に生きていて、
あなたは、あなたの行いが造り出した「あなただけの世界」に生きていて、
一人一人が、それぞれ違う世界を生み出し、違う世界を生きている。
これが仏教の教える「世界観」であり、「生きる」ということの実態です。

同じ会社に集ったり、同じ学校の教室に集まったりして一緒に過ごしていると、
「一つの同じ世界」を生きているように感じますよね。

一つ屋根の下で家族と一緒に生活していると、
「同じ世界で一緒に生きている」と実感するかもしれません。

だけど一方で、
「同じ場にいるはずなのに、なぜか違う世界に生きているような気がする…」
という感覚も時折沸いてくるのですね。
「いや、しょっちゅうそう感じます」という人もいるかもしれません。
そこは個人差があるでしょうけれど…
自分と他人とは、それまでの「行い」がそれぞれ全く異なりますよね。
つまり「業」がそれぞれ異なるということです。
その「業」の違いによって、
同じオフィスに居ても
同じ教室に居ても
同じ家で生活していても
それぞれ異なる世界をみているということです。

隣で仕事をしているこの同僚は、いったいどんな世界をみているのか。
同じオフィスで、同じような仕事をして、たとえ隣に座っていても、
その隣の人の「業界」を私は覗き見ることはまったく叶いません。

「生きる」というのは「行い」の連続であり、「業」の積み重ねなのですね。
そしてその結果、一人一人の世界が造られてゆく。
私はどんな業界を造っていくのか…
それが一人一人の人生が展開してゆくということです。
「生きる」ことを見つめることはそのまま、己の「行い(業)」を見つめてゆくということ。
他人の行いはどうあれ、常識はどうあれ、また他人の評価はどうあれ、
自分の行いは、自分の業は、納得のゆくものなのかどうか。

「業界」という仕組みを知れば知るほど、
常に己の行動(業)を見つめ、大切にしてゆく生き方となってゆくことでしょう。