内なる誘惑に負けない信念の作り方〜「煩悩」と「信念」〜

努力のペースをかき乱す「心の囁き」

安定していた生活リズムが、ちょっとした事で急に崩れてしまうことがないでしょうか。

寝る時間、起きる時間も乱れることなく、やるべき仕事もこなせてて、趣味もほどほどに出来ていて、
「なんか、いい感じで毎日過ごせているなー」
なんて思っていても、ちょっとしたきっかけて
「漫画にハマる」とか
「ゲームにハマる」とか
「ネットサーフィンにハマる」とか
「友達とのLINEで深夜にまで及んでしまう」とか
そんな「ドロ沼」にハマってしまって、深夜○時を回っている時計に愕然として、
「なんでこんなことになってしまったんだ…」
やるせない後悔に暮れてしまいます。

過ぎた時間は決して戻らず、
崩れたリズムのツケは、明日はもちろん、しばらく引きずるハメになり、
せっかくいい具合に保たれていたパフォーマンスもガタっと落ちてしまう。

怖いのは、ドロ沼へと誘う衝動が、いつ現れるとも知れないという事です。
そして言うまでもなくその衝動は「自分の中」から、現れます。
「なんとなーく」
自分の心がドロ沼へハマる方向へ動いていて、
それが恐ろしい結果へ招く「衝動」だと思えず、その感情に身をまかせてしまう。
だいだい、そんなパターンなのですね。

漫画に出てくるような「悪魔の囁き」のように、あからさまに悪へと誘うような分かりやすい衝動なら、
少なからず自分の中で抵抗を覚えるので、まだ食い止めることはできます。

だけど実際に私を動かしてしまう衝動は、「悪魔の囁き」とは思わせずに、
なんとなーく、さりげなーく、私を行動に駆り立ててしまうから恐ろしい。
自分でも気づかないうちに、ドロ沼へとハマる行動が始まっているというのが実態です。

ということは、ドロ沼へ引きずり込む「囁き」は、意識上であれこれ「思考する」以前に、
もっともっと心の深い所で起こっていることなのですね。
だから、歩みたい道から外れてしまう行動は、「いつの間にか」始まってしまっているものです。

「頑張っている私」を正しく認識すると…

「善良なる心の声」と、誤った道へと引っ張る「悪魔の囁き」との両方が自分の中にある。
実はこの認識がそもそも、間違いなのですね。

たしかに意識上では両者の囁きが「引っ張り合う」という事が起きます。
だからやっぱり、こういうイメージなのですね。

だけどこれはあくまで、意識上でのことです。
その意識よりも深い、心の底にある私の本質部分は、「善良な心」と「悪魔の心」とが併存しているわけではありません。

仏教では、私の本質を「煩悩具足」と説きます。
人間の心は「煩悩」で満ち溢れている、ということです。
「煩悩」と「善良な心」とが併存しているのではない。
「煩悩」一杯で満たされているのが人間の心なのですね。

もっと分かりやすく言うと「欲望」に満ち満ちているのが人間の心、ということです。
「煩悩」といっても色々な煩悩があるのですが、その代表格が「欲望」です。
私たちの目がギラギラと輝いているのは、欲望に従って何かを求めている時と言えるでしょう。
どんなモノに私たちは目をギラつかせているか。
必ずその先に「欲望が満たされた」というゴールがあるはずです。

経済的に潤う事ができた、
他人からの尊敬を自分にバッチリ向けることができた、
好意を寄せている異性の心をバッチリ掴める、

そんな、様々な私たちの「欲望が満たされる」という現実に向けて、
私たちは常に目をギラつかせて生きているのが実態なのですね。

他人に優しく、周囲に気を配って、節度を守って、慎まやかに、そして精一杯努力する…
そんないかにもストイックな禁欲的に見える行動も、
その行動の先に、「欲望が満たされた」というゴールがあるからこそ頑張れるのですね。
そういうゴールもなしに頑張れるように、私たちは出来てはいません。
私の何かしらの欲望が満たされるというゴールへ向けてこそ、頑張れる。
これが偽らざる「煩悩具足」の人間です。

「悪魔の囁き」に誘われて、ついつい無為に時間を過ごしたり、浪費してしまったり、後悔するような行動をさせてしまうのも「煩悩」ですが、
「善良な心の声に従って、節度ある行動をしている」
というのも、その奥底の根源をたどれば、同じ「煩悩」から出ている行動なのですね。

「悪魔の囁き」と「善良な心の声」との綱引き、その実態は「煩悩」と「煩悩」との綱引きだということです。

心からの欲望を賭けた勝負

資格試験の勉強をしているのに、ついついネットサーフィンにハマってしまったとか、
こなさなきゃいけない仕事があるのに、ついついYouTubeの動画を観てしまったとか、
明日は大事な仕事のために早く休まなきゃいけないのに、友達や恋人とのLINEで深夜まで起きていてしまったとか、

「やらなきゃいけない」と思っていることが、他の誘惑に妨げられてしまう場面が日常にいくつもありますね。
「ああ…欲望に負けてしまった」
そういう感覚に陥るのですが、これは正確ではありませんね。
「やらなきゃいけないこと」を頑張るのもやっぱり欲望を満たすためなのだから。

「欲望以外の気持ちで頑張っていたのに、それを欲望が邪魔した。」
ではないのです。
もともと、どうしても満たしたい欲望が自分にはあるのですね。
「努力している」
「頑張っている」
というのは、それを理想的な形で満たすために、因果応報の道理に則って、必要な「行い」を積み重ねているわけです。

「欲望が満たされる」という「実り(結果)」を得るためには、必ずそれに応じた「種(原因)」を蒔かなければならない。
それが「因果応報」という事です。
「結果」を得るためには必ずそれに応じた「行い」をしなければならないのは、誰もが知っている鉄則です。

自分の奥底からの欲望を満たしたい。
それも一回限りではなくて、継続的に、何度も何度も、満たされる人生を送りたい。
そんな大きな欲望のために、因果応報の道理に則って、必要な努力を積み重ねているわけです。
紛れもなくそれは、大きな欲望に突き動かされている姿です。
「煩悩」が激しく燃え盛っている真っ最中です。

それが、目先の安易な手段で楽に満たそうとしてしまうのが、「悪魔の囁き」に引きずられて、ついつい楽に溺れてしまうという状況です。

つまり、欲望の満たし方がズレてしまっているのですね。
「欲望を満たそうとしている」
事は、ハマる前も後も変わりません。

私の願望は、そんな方法で満たせるモノではない。
安易な手段、インスタントな方法ではなく、因果応報の道理に則って、本物の結果を手に入れるための道を歩んでいるんだ。
そんな「煩悩具足」なりの私の姿をよく理解することが大切です。

「欲望を満たす」か、「欲望を我慢する」か、の構図では分が悪すぎます。
また本当はそんな構図など存在しません。
どうせ欲望を追いかけるのなら、因果の道理に則って、より確かな、より大きな、そして継続的な実りを得るための道を進もう。
そういう信念に基づいて、私たちは努力しているというわけです。
その信念を貫けるかどうか、自分の心からの欲望を賭けての勝負を日々しているのですね。

そんな「心からの欲望」と、「今の私の努力」とが、バッチリ結びついていることが、「安易な道」に逸れてしまう事を防ぐ土台となることでしょう。