「困った人」対策の最善の一歩は〜怨憎会苦が避けられないなら…〜

誰もが無視できない問題は…

「身近に、ちょっと困った人がいて…」
こういう悩みは、本当にいろんなところで聞きます。
これを読まれている方も、もしかしたら「誰か」を想像されたかもしれません。

「困った人」って、どんな人なのでしょうか。
つまりは、「迷惑な言動をする人」という事ですね。

「乱暴な物言いをする」とか
「仕事や役割をサボったり忘れたりして、少しも悪ぶれることもない」とか
「人の悪口ばかりをいつも言う」とか
「とにかくいつも怒っている」とか
「態度がいつも、ものすごく偉そう」とか

他人の「気に触る言動」は、もう挙げればキリがありません。
こんなに色々挙げていると
「自分も誰かにとっての『困った人』なのかな…」
と不安にさえなりますね(汗)

会社で、学校で、サークルで、近所で、あるいは家庭の中で…
自分の「居場所」の中に「困った人」がいると、たちまちそれは大きな「悩みのタネ」となります。

私達が「生きる」ということは、必ず「何かと関わって」生きることになります。
衣食住という最低限のことだけ考えても、それを維持するための色々な「関わり」があります。
現代の日本のような複雑化した社会の中で生きるのであればなおさら、日々、様々な「関わり」の中で生きています。
「住んでいる家」「一緒に暮らしている家族」「通勤や通学手段となる電車」「通っている会社や学校」「その中にいる人々」「競争相手」「取引相手」「愛読書」「好きなゲーム」「好きなスポーツチーム」…

仏教ではそんな「関わり」のことを「縁」と言います。
「生きる」ということは、様々な縁に「生かされている」とも言えますね。
そんな「人生そのもの」を構成する、様々な縁の中でも、特に大きなものが「人の縁」です。
「自分と縁のある人がどんな人なのか」
それこそが最大の関心事という人がほとんどなのかもしれません。
だからこそ、「困った人」の存在は、とても無視できないのでしょう。

「嫌いな人」を避けられない構造とは

仏教では、「誰もが絶対に避けられない苦しみが8つある」と教えられ、それを「四苦八苦」と言います。
その中に「怨憎会苦(おんぞうえく)」と言われる苦しみがあります。
「怨憎」とは、「恨みや憎しみ」ということですから、
「嫌なものと会わなければならない苦しみ」が「怨憎会苦」です。

「嫌いな人」や「苦手な人」と、どうしても会わなきゃいけない苦しみ、というのはもちろん怨憎会苦ですし、
それは「人」に限らず、
「テストが嫌い」という人にとっての「テスト」も、
「花粉が辛い」という人にとっての「花粉」も、
「虫が苦手」という人にとっての「虫」も、
あらゆる「嫌なもの」と会わねばならない苦しみが「怨憎会苦」ですから、非常に幅広いですね。

その中でも「他人」に対して感じる嫌悪感で苦しむ怨憎会苦が、特にひどく私達を苛みます。
「どうして、『他人』に対して私達はこんなにも特別に感情的になるのかな…?」
という事は、私も時折考えるのですが、自分も「人間」であり、他人もまた「人間」
そういう「同じ人間同士」というところに、
善くも悪くも、どうしても無視できない、どうしても気になってしまう要因があるのかもしれません。
私達にとって、「好きでたまらなくなる存在」も「人間」だし、「嫌いでたまらなくなる存在」もまた「人間」なのですね。

怨憎会苦は、いわば私達の「心」が生み出している苦しみとも言えます。
身近に「嫌いな人」がいて、その人のために自分が激しく苦しんでいるとしても、
じゃあ、その人のために全人類が苦しんでいるのかと言えば、もちろんそんなことはありません。
その人と会う人、会う人が皆その人のために苦しむわけでもありません。
中には、その人に頼りがいを感じている人、好意を抱いている人、親しみを感じている人だっていることでしょう。
だけど自分は、その人に対して嫌悪感を抱かずにいられない。
そうさせる原因は、やはり自分の「心」にこそあります。

「だから自分が悪い」と言いたいわけではもちろんありません。
人間の心は、「誰に対しても愛せる」なんていう聖者のような心にはとてもなり難いもので、
どうしても、「この人が好き、この人は嫌い」という「愛憎」が渦巻いてしまう、感情の生き物が人間なのですね。
だから「全人類から好かれる人」もいないし、「全人類から嫌われる人」もいません。
いるのは「自分にとって好きな人」「自分にとって嫌いな人」です。
一人一人のそれぞれの世界に、それぞれそういう人がいる、ということです。

一人一人の「心」が生み出すのが怨憎会苦なので、「嫌いな人」を避けてどこに逃げようとも、
その逃げた先で、私達の「心」が「嫌いな人」を造り出してしまいます。
だから、どうにも避けられないものが怨憎会苦なのですね。

避けられない以上は、私達にとっての問題は、その苦しみとどう向き合うか、という事になります。
自分にとって、どうしても「嫌い」となってしまう縁を無くすことはできませんが、
「そんな縁を前にして、自分がどのような行動をするか」
というところにベストを尽くことはできます。

もちろん、世の中にはあまりに酷い悪縁もあります。
暴力、破壊、執拗な精神攻撃…
そんな極端に攻撃的な縁がそばにある時は、「苦しむ」どころか、「身の危険」すらありますから、
「この縁だけは、どうしても断ち切らなければならない」
という場合もあるでしょう。

だけど、どこへ行こうとも「悪縁」をゼロにすることはできません。
そんな悪縁を前にしても「自分の行動」という「因」次第で、人生の結果を良くしてゆくことは、いくらでも出来るのですね。
「他人」はあくまでその「他人の心」で動いていますから、それを自分がコントロールすることはできません。
だけど、自分の行動だけは、自分でコントロールできる範囲内の問題です。
「コントロール出来る範囲の問題にだけ一点集中する」ことが、最もストレスなく人生を好転させられる秘訣なのですね。

あなたが「最高の種蒔き」をすればよい

だから仏教では、「どんな行動が、人生を好転させる『因』となるのか」を、詳しく教えられています。
それが、仏教が教える「善」です。

「この行いは『善』ですよ」
そういうことを、仏教では至る所で教えます。
そして、私達にその「善」を勧めています。
「善の勧め」
仏教の教えはそれに尽きると言っても言い過ぎではありません。

そんな数ある「善」の中でも、怨憎会苦に苦しむ私達にとって、特に有効と思われる「善」を一つ紹介したいと思います。

それは、「忍耐」です。

…は?

…「耐えろ」だって?

…ふざけんな?

もしかしたら、そんな反感を招いてしまっているかもしれませんが、仏教で言う「忍耐」についてもう少し詳しくお話させてください。

「忍耐」の反対って、何だと思いますか?
気に入らないことに対して「耐える」ことの反対って…?

それは「怒り」です。
「怒り」とは、仏教で教えられる「煩悩」の一つなのですが、
自分の「欲望」に、真っ向から逆らうような「他者」に対して、
カーッと腹が立って、感情的に「許せない…」という気持ちになってしまいます。
その精神状態がまさに「怒り」です。

この「怒り」の気持ちに入ってしまった時には、適切な行動判断はもう望めないでしょう。
「自分と周囲を、もうちょっと冷静に見る目を持っていれば、そんな行動をすることはなかったろうに…」
そんなとんでもない行動を引き起こすのが「怒り」です。
「普通に考えて、それだけは言っちゃいけない言葉だろう」
という言葉を、怒りの心は言わせます。
「この状況で、そういう行動だけはとっちゃいかんだろう」
そんな行動を、怒りの心はいとも簡単にさせてしまいます。
そうして、自分にとって大切な人や物を永久に失って、もう取り返しのつかないような事態を招いてしまう。
そんな最悪な結果の原因となるものが「怒り」です。

だから、数ある「煩悩」の中でも「怒り」は特に恐ろしいものと位置づけられています。
自分の人生も、他人の人生も、台無しにしてしまう恐ろしい原因となるものが「怒り」です。

だけど、「怒り」を一切起こさない人間もまたいません。
「人間である限り煩悩からは離れられない」
これが、仏教の人間観であり、誰も否定できない現実でしょう。
だから「怒り」を起こすなと言っても詮無いことです。

私達に出来る努力は、
起きてしまった「怒り」を、出来るだけ長引かせないこと。
少しでも早く、冷静な精神状態に戻ることです。
そして何より、
「怒りの心の状態のまま、行動しないこと」
これが大切ですね。

たとえば、ふと届いた友人からのLINEのメッセージに、
なんとも言えない苛立ちを起こしてしまった。
「皮肉でも込めた返事をしてやろうか…」
と思い立って、そのメッセージ文章を作成して、「送信」ボタンを押しかけてところで、
「ストップ!!」
です。

今、自分はどんな「心」でメッセージを作成していたか。
それは紛れもない「怒り」の心です。
この上なく破壊的で、大切なものをいとも簡単に壊してしまうような「怒りの心」にまかせて打ち込んだメッセージが、
いま、目の前のスマホの中で待機しているメッセージです。
これほど、危険なものはありません。
自分の人生に、最大級の爆弾を投下しようとしているようなものです。

「怒りの心の状態のまま、行動しないこと」
これは、人生の第一の鉄則に置いてもいいくらい大切なことです。

これが「忍耐」です。
「怒りの心にまかせて、どこまでも突っ走ろうとする己に、ストップをかけること」です。
そんな「行い」が、自分の人生を善くしてくれる因となる「善」なのだと仏教は教えるのですね。
確かに、大切なものを守り、失わないための、とても大切な「善」なる「因」に違いありません。

「気に入らないこと」が起きた時は、
その「忍耐」という「善」を実行するタイミングです。
「ここぞ、忍耐」というべき瞬間です。

そう考えると、あなたの身近にいる「気に入らない人」は、「忍耐」を実行するチャンスとも言えます。

「忍耐を実行できる人になる」
というのは、そう簡単なことではありません。
ある程度の訓練が必要ですし、縁に触れ折に触れ、実行を重ねて初めて身についてゆく「徳」とも言えます。

この先、自分の人生の「守りたいものを守る」ために、「忍耐」は必須の習得すべきスキルです。
これを習得できずに年を重ねて「いい年の大人」になってしまったら、ヤバいといってもいいでしょう。
ならば、怨憎会苦が身近にあるのなら、
それらを機会として、その必須スキルを磨くことが、どれだけこの先の人生の救いなるか知れません。

この先、何度も何度も身を助けてくれる「宝」とも言うべきスキルである「忍耐」を実行する。
そんな「行動」に一点集中することができれば、
「嫌いな人」との問題も、この先の人生そのものも、自ずと好転させてゆける道が開けてゆくことでしょう。