「日常そのもの」に潜む底知れない恐怖とは~「サスペンス」を求める現代人~

「サスペンス」を欲しがる現代人

「サスペンス」という言葉をネットで調べてみると、
語源が「サスペンダー」からきていて、「観客の心を宙吊りにする」という意味があるそうです。

そういえば私ごとですが、子供の頃にホテルの二段ベッドから降りようとしたら、
ズボンのサスペンダーがハシゴか何かに引っ掛かって、二段ベッドから宙吊り状態になってしまったことがありました。
(文字通り「サスペンス」状態になってしまいました)

そんな子供の頃の経験から言わせてもらうと、「宙吊り状態」は、かなり不安な心境です。
緊張して張り詰めたような感じになりますね。

そんな、不安や緊張を抱いた不安定な心理状態が「サスペンス」ということですね。

サスペンス映画やサスペンスドラマを観ていると、
確かに観ている私達も、不安でハラハラしますし、緊張を覚えることもあります。
ある意味、そういう精神状態になりたくて、その状況に自分も感情移入したくて、
私達はサスペンスのストーリーを好んで観るのだと思います。

考えてみると
「宙吊りにされる」とか
「不安な心境にさせられる」とか
「緊張を覚える」とか
いずれもかなりのストレス状態ですよね。

そんなストレス状態にわざわざ入りたくて、時にはお金を払ってでも、
そういうものに触れるというのも不思議なものですね。

これは「サスペンス」に限ったことではなく、そういうものは世の中にたくさんあります。

ホラー映画
ジェットコースター
お化け屋敷

など「恐怖」に駆られるようなエンターテインメントも、多くの人に好まれます。

一般的に「不快」な感情とされる不安恐怖を味わえるものが一種の「エンターテインメント」として成立しているのは、
面白いものですね。

きっとそこに「非日常」をみるのでしょうね。
平穏で、決まった行動の繰り返しの毎日。
朝起きて、
家と会社の往復をするばかり。
家と学校の往復をするばかり。
同じ人と顔を合わせて、同じような仕事をして、同じ食堂で同じような食事をして、
そうやって日々は飛ぶように過ぎてゆきます。
1年があっという間に過ぎたかと思うと、
平成そのものが30年で終わってしまい、これまたあっという間。

こういう「日常」に「非日常」の刺激を求める気持ちは、強烈なものがあるのかもしれません。

「惰性で日常を生きている」
「その日常がまた飛ぶように過ぎていっている」
退屈で虚しいような、だけど切羽詰まって焦るような、
倦怠感と焦燥感に満ちた「日常」こそが、もしかしたら何より恐ろしいものなのかもしれません。
「ただ、生きている」
というこの現実に、実は人間は耐え難い恐怖と苦痛を覚えている。

金があって、やることがない。実はこれ程辛いことはないんです。
贅沢な悩みと思われるでしょうけど、なってみたら本当に辛いものなのです。」
そんな話を聞いたことがありますが、そういうものなのかもしれませんね。
金があったら、悩みがないから「日常の虚しさ」をごまかさない。
かといって、やりたいこともなければやはり「日常の虚しさ」に向き合わなければならない。

悩みがあるわけでもない。
やりたいことがあるわけでもない。
これは、「日常の虚しさ」という最大の恐怖との対面を強いられる、恐ろしい状態なのかもしれません。

最も身近に潜む「日常」という最大の恐怖から逃れるためになら、
宙吊り状態(サスペンス)にされてもかまわない
というわけですね。
ありきたりの日常とは対極にある「緊張」状態を提供するエンターテインメントは、常に求められています。

「日常そのもの」が醸す恐怖

誰にだってこの「ただ、生きている」という現実は存在します。
「生まれてきて、成長して、生きて…
そして年老いて、病気がちにもなり、
最後は必ず、墓場が待っている。」
人生の装飾を剥ぎ取って本質を露わにすると、こんな暗い「現実」が浮き彫りになってきます。

「人生は、タライよりタライへ移る、50年」
と言ったのは一休さんですが、「生きる」を凝縮してその本質を眺めたら、
そこには否定しようのない虚しさが漂っているのですね。

そんな現実は、どんな人も等しく持っています。

「日常」のルーティンに陥れば陥るほど、
「生きること」そのものに内包される「底の知れない虚しさ」と向き合うことになってしまいます。
それが人間はどうしても耐えられないのですね。
それで人間は、切実に「変化」を求め、「非日常」を求めます。

あなたの周囲に、
「いかにもリアルに充実している人」
はいるでしょうか。

コンサートやイベントによく出かけて、
友人がたくさんいて、
しょっちゅう飲み会に行ったり
休日は恋人との楽しい時間を過ごし、
大型連休には海外旅行で、思いっきり羽根を伸ばしている。
その「幸せ」がInstagramにアップされて、
多くの「イイネ!」がついている。

いかにも「人生を楽しんでいるな」という印象を受けるような人も、
見方を変えれば、それだけの「変化」と「非日常」を追い求めて駆け回っているとも言えます。
もしかしたら、それぐらいの「刺激」と「変化」がなければ、「日常」の虚しさに呑まれてしまう
そんな危機にある人なのかもしれません。

しかも、多くの人からは羨ましい限りの経験の数々も、
当たり前のように繰り返し体験する生活になってしまうと、今度はそんな「派手な生活」がまた、
その人にとっての「日常」となってしまうのですね。

そう、あの恐ろしい「日常の虚しさ」の波は、当初は「非日常」だった場面にも確実に浸透してくるわけです。
「日常の虚しさ」からの離脱は、実は逃げ切れないイタチごっこをしているようなものと言えます。

「全く同じ姿」が見える視点

一人一人、規模も頻度も場面も、そして高級感も違うけれど、
実はみんな、同じ「日常の虚しさ」との戦いに必死になっている。
このことには、誰であろうと変わりはない。

このことを仏教では「有無同然(うむどうぜん)」と言われます。

私達が、
「私にこれがあったら、人生は幸せに溢れるだろうに…」
と思うような、
お金、才能、仕事、恋人、友達、自由…
これらが「有る」ことそのものが「幸せ」ではないということです。

本当は、
「無い」状態でも、「有る」状態でも、同じである。
ただ、
「無」から「有」へと、
「日常」から「非日常」へと、
「変化」が出来ている間にだけ、私達はつかの間の幸せを感じることができるというわけですね。
変化した先の「非日常」も、続けばそれがまた「日常」となり、新たな「非日常」を求め始める。
その繰り返しが、一人一人の現実だということです。

周囲から見た感じでは、
「まるで世界が違う」
「まるで充実感が違う」
ように見える一人一人が実は、本当は「同じ」ような現実に精一杯生きている。
これが「有無同然」という、私達一人一人の紛れもない現実だということです。

どんな人も、
「今」とは違う何かを、
「日常」とは違う「非日常」を、
「ただ生きる」から離脱して没頭できる「何か」を、
求めてやまないという性質があります。

サスペンスでも、お化け屋敷でも、何かのアトラクションでも、イベントでも…
リアルでは無理なら、バーチャルでも、ゲーム空間でも、アニメでも…

思えばそれは非常に危うい状態なのかもしれません。
「日常の繰り返し」という虚しさを抱えて生きている私達は、何にハマるとも知れない危うさがあります。
だからこそ、「有無同然」という現実をよく理解して、冷静な目を持つ必要があります。
そんな虚しい心に、周囲はどんどんつけ込んで来ますから。
うっかりハマれば、限り有る時間もお金も、たちまち消費してしまいます。

そんな危うさの中に、私はいる。
私だけでない。誰もがそんな危うさの渦中に身を置いている。
それは、日々の「充実」を見せつけてくるような人もまた例外ではありません。

「有無同然」という現実を知ることで、自分に対しても、他人に対しても、冷静な目を持つことができるでしょう。

他人への羨望も妬みも、この現実と比較すれば小事だと気が付きます。
羨んでしまうような人も、妬んでしまうような相手も、私も、同じ現実を抱えて精一杯生きているのですね。
それを理解するところから、本当の私の歩むべき道の模索が始まるのです。