惑っても惑っても立ち返るべき“拠り所”はあるだろうか

洪水に浮かぶ“島”のような拠り所を人生に持て

「惑わないようになりたい」ってどれだけ願っても、縁がくればやっぱり惑いは起きます。

自分の仕事に嫌なイレギュラーが発生したら「チッ」って思ってしまうし、

他人に「嫌われてるかも」って思いがよぎったら不安になるし、

大事な場面で緊張して本調子を出せないことだってあります。

「惑うことが一切なく、いつでもベストな行動を貫ける」

というのが理想ですが、望ましくない心についつい流されてしまう。

そんな「惑いの洪水の中で生きている」という現実そのものを変えることは難しいでしょう。

それでも

「惑いに流されても、立ち返る“拠り所”がある」

そのような“拠り所”を持つことは、誰にでも出来るのですね。

大パリニッバーナ経というお経があります。

これは、ブッダの臨終が近づいた時期に説かれた様々な教訓が記されているものです。

その中でも特に有名なブッダの教訓が、これです。

「自己を洲とし、自己を拠り所として、

法を洲とし、法を拠り所とせよ。」

ブッダという偉大な師が亡くなってしまったら、この先どうなるのか…と不安に駆られている仏弟子たちに、

ブッダ自身が残された言葉ですから、なんとも重い言葉です。

ここで出てくる「洲」というのは、川の中に浮かぶ小さな島のようなものです。

インドは洪水の多い国で、その規模は日本とは桁違いです。

河川の水で街ごと沈没してしまうこともあるそうです。

そんな時に小高い丘や樹木は、洪水の中の「洲」となって避難生活の大きな拠り所となります。

インドの人々にとって「洲」「拠り所」を表す非常にぴったりの喩えだったことと思います。

そんな、インドの激しい洪水のように、私たちは惑いの心に流されがちになります。

だからこそ「洲」が必要であり、「拠り所」が必要なのですね。

その「拠り所」について、「自己を洲とせよ」と説かれています。

人生の中心に“何”を据えているのか

「自己を拠り所にする」と聞いて、

「自分の精神力や自分の判断力や自分の能力など、とにかく自分の力を頼りにして生きる」

と理解するのは、実は大きな誤解です。

このような誤解が起こらないように、ブッダは弟子に対して

「自己とはどういうものか」を、懇ろに教えられていたのですね。

私たちは日頃から「自分」を意識することが少なからずあると思います。

「つくづく自分が嫌になる…」

自分は、あの人にどう思われてるんだろう…」

と、「自分」というイメージを浮かべて、

嫌になったり、気になったり、不安になったり、時には誇りに思ったり…

その「意識」の強さは、相当なものですよね。

「自意識過剰」なんて言葉がありますけれど、「自分」を過剰なまでに意識するのは当たり前のことです。

自分の恋人や好きな人の事を、意識しますよね。

自分の子供の事を、他人の子供よりも、意識しますよね。

先生なら、自分の教え子の事を意識しますよね。

世界に何十億人もの人間がいても、意識を向ける人間は限られます。

そして、その意識の強さには必ず差別があります。

その、「意識を向けるか向けないか」は、何を基準に分かれるのでしょうか。

また、その向ける意識の「強さ」は、何を基準に変わるのでしょうか。

それは一貫して、「自分」との関わりの強さですよね。

もっと言えば「自分を満たす存在か否か」で分かれるとも言えます。

恋人、好きな人、家族、教え子…

いずれも、強い執着を向ける存在に違いありません。

その執着ゆえに、他の人々の事をぞんざいにさえしてしまいます。

「大切な人のためだから」

という大義名分は、多少は他の人に冷たくしたり迷惑かける事さえも是としてしまうところがあります。

このような差別の基準は何かと言えば、

「自分を満たし、自分を豊かにしてくれる存在か否か」

と言うのが正直なところなのですね。

なぜ恋人が大切なのか、なぜ家族を守りたいのか、それも、他の誰を犠牲にしてでも…

それは分かり切ったことで、「自分」が大切だからです。

家族や恋人や仲間への執着はそのまま、「自分への執着」の現れと言えます。

根本的な執着の対象は、あくまで「自分」という存在なのですね。

根本的であるがため、これは自覚されにくいことです。

ちょうど樹木でも“根元”の部分は地中にあって目立たないけれど、それが源となって、“幹”が出来、“枝葉”が茂ります。

そして、目につくのは“幹”や“枝葉”の方です。

「仲間が大事」「恋人が大事」「家族が大事」と言う意識は自分でもよくわかりますが、

本当はそれら全てに「自分の」がついており、「自分への執着」が根本となっているのですが、それがなかなか自覚できないのですね。

そんな根本的な執着の対象が「自分」なのですが、

その最大の執着の対象である「自分」とは、突き詰めると“何”なのでしょうか?

案外これが、ぼんやりしているのですね。

「自分という人格」なのではないか。

と言ってみたところで、その「人格」って何なのでしょうか。

“性格”のことでしょうか?

性格は、自分の一つの“特徴”ですよね。気持ちの傾向というか、行動の傾向というか。

そのような、自分を構成する、“いち要素”というべきものでしょう。

“見た目”だってもちろん、一面にすぎません。

“能力”も、ある分野で発揮される“いち要素”です。

「“自分”って何を指しているんですか?」

という質問に対して、よく考えてみると私たちは“性格”や“能力”や“見た目”や“立場”などの、“いち要素”しか答えられない。

「そのもの」の正体が浮かんでこない。

これが私たちの「自分イメージ」の実態なのですね。

実はこれは、驚くべきことです。

もっとも根本的で、もっとも大きな執着の対象が「自分」なわけです。

いわばその「自分」を常に人生の中心に据えていて、行動基準にしているわけです。

ところがいざ、「その“自分”って何?」と、その核心を突かれた時に、「ただのぼんやりとしたイメージ」でしかないわけです。

答えてみたところで、それは“いち要素”にすぎない。

依然としてその全貌はぼんやりしたままというわけです。

私たちはそんなあやふやなものを、「自分」という言葉で「確固として有るもの」とし、一生かけて人生の中心に据えている。

実にこれが、様々な「惑い」の温床となっているのですね。

“自我”を破り、“自己”を捉え直す

だからこそ、仏教が終始、課題とし続けていたことが、

「“自己”を、正しく捉え直す」

ということだと言えるでしょう。

そういう教えを生涯説き続けられたブッダがその最期に

「自己を洲とし、自己を拠り所とせよ」

と言われているわけですから、そこで言われる「自己」とはまさしく、道理に則って、正しく捉え直された「自己」なのですね。

だから続けて、

「法を洲とし、法を拠り所とせよ」

と言われているのです。

「法」とは道理ということですが、「自己」を追求するにあたって、依って立つべき“道理”があるのだと教えられています。

それが、「縁起の法」です。

「縁起の法」に則って「自己」を正しく捉え直すことが、本当の意味で、「自己を洲とし、自己を拠り所とする」ということになるのですね。

そんな極めて大切な「縁起の法」とは何でしょうか。

先ほど、「自分って何のことか」という問いに対する答えとして

「この人格のことではないか」

という考えを挙げましたね。

その「人格」というのは“性格”とも言えるものですが、

“性格”と言っても、何か決まった形や実体があるものではありません。

いわば、様々な場面、場面でなされる行動の連続から一つの傾向を見出したものですよね。

「仕事でトラブルが起きた時に、こんな発言や行動をする。」

「家族でまったり過ごしている時には、こんな気分になってこんな言動をとる。」

「珍しい事に遭遇した時には、こんなリアクションをとる。」

そういった、様々な縁において様々な行動を起こしている、その積み重ねが、“性格”と呼んでいるものの正体なわけです。

ということは、その時々の「縁」によって「起きている」もの。

つまり「縁起」のものであるということです。

“能力”にしたって、同じことが言えますよね。

一つのステータスみたいに呼んでいる“能力”ですが、これも固定した実体のあるものではありません。

「クレームが入った時に、相手にどう対応するか」

「プレゼンにあたって、どのような資料を作るか」

「取引先と、いかに契約を成立させるか」

など、仕事の場面だけでも、さまざまな「縁」によって行動を「起こす」という、無数の「縁起」があります。

これらの「縁起」の積み重ねが“能力”と呼んでいるものの正体です。

このように「縁起」とは「縁」によって「起きる」ということなのですが、

それは“瞬間的なもの”なのですね。

人生の“場面”は、一瞬、一瞬で移り変わってゆくものです。

そして、二度と戻ってこないものです。

そんな“一度きりの瞬間の連続”が人生と言えます。

他人との関わりの中で、それを特に感じますよね。

同じ人との関わりでも、昨日その人と過ごしたひと時は、もうその時限りのものですよね。

「あの時、こういう事を言ってあげればよかったな」

と思うことはありますが、もうその「あの時」そのものは、二度とやって来ません。

似たようなチャンスはあるかもしれませんが、それはもう過去とは別物ですから、

過去を教訓としつつも、やはり「その時」のベストを尽くすしかないわけです。

他人との関わりにおいては “一度きりの瞬間の連続”を特に実感します。

それは“川の流れ”のようでも“滝”のようなものでもあります。

常に“一瞬、一瞬の連続”なのですね。

そして、その場面、場面で必ず何かを思い、発言や行動を起こし続けて人生は展開して行きます。

一切は、このような瞬間、瞬間の縁起によって成り立っている。

これが仏教で教えられる「縁起の法」です。

この「縁起の法」に則って「自己」を観たならば、

私たちがイメージしているような「実体」としての固定した「自分」などは存在するはずもありません。

あるのは、瞬間、瞬間の縁起によって起きては過ぎ去ってゆく“関わり”と“行動”の連続です。

そのような“瞬間の縁起の連続”が「自己」の正体です。

この「縁起の法」に則った視点で見た時、これまでと全く異なる「自己」が見えて来ますので、自ずと道理にかなった行動となります。

一言で言えば“今この瞬間に為すべき事を精一杯為す”ということですが、

これが、

「自己を洲とし、自己を拠り所とする」

ということであり、

「法を洲とし、法を拠り所とする」

ということなのですね。

「自我」への執着に捉われた惑いの心の洪水の中で、その洪水の中にある「洲」を拠り所とするように、

縁起の法に立ち返って、自己を捉え直し、道理にかなった行動を実践する。

そのような確固とした拠り所を得たならば、それは生涯の財産となることでしょう。

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