埋まらない「不足感」に打ち克つ道〜「求不得苦」との付き合い方〜

常について回る「不足感」〜「求不得苦(ぐふとっく)」

ワイシャツのヨレヨレ感が気になるな…
と思って買い替えたら今度は、
腕時計のバンドが傷んでいるのが気になるな…
それを買い替えたら今度は、
ジャケットのパターンが少なすぎるのが気になるな…
もうちょっとカジュアルなズボンも欲しいな…
カバンももう1つぐらい…

「不足感」というものは次から次へと、自分のどこかの部分に対して起きてきます。

今、挙げたのは服や物について、ですが
もっとジャンルを広げれば
知識、スキル、社会的地位、人間関係…
実にいろんなところに私達は常に「不足」を感じながら生きています。

これまでの人生で、この「不足感」がなかったことがあるでしょうか。
「今、私は全てに満ち足りている」
と、心から言えた瞬間があるでしょうか。

藤原道長の歌ですが、
「この世をば 我が世とぞ思う
望月の 欠けたることもなしと思えば」
こんな風に、
「この世の全てが私の物。空に輝く満月に一点の欠け目も無いように、私の人生、完全に満ち足りた。」
なんて一度くらい言ってみたいものですけど、たとえ言えたとしても瞬間的なことでしょうね。
次の瞬間からやっぱり
何かが不足し始める
何かが物足りなく感じてしまう
こんな具合に、常にどこかの何かに「不足」が、「物足りなさ」が、生じてしまいます。

このような「不足感」に苛まれる苦しみのことを仏教では「求不得苦(ぐふとっく)」と言います。
文字通り「求めても、得られない苦しみ」ということです。
どんな人が、どんな人生を送ったとしても絶対に避けることのできないものとして、仏教で教えられる苦しみの一つです。

「あの人は、全てに満ち足りているんだろうなあ…」
そんな風に思える人、周りにいますでしょうか。
なかなかいないんじゃないかと思いますけど、そこまで思わなくても
「無いものだらけ、足りないものだらけの私より、ずっとずっと満たされた生活を送っているんだろうな」
というように思う人はいるんじゃないかと思います。

だけど本当のところ、他人の人生の「満足感」や「不足感」なんて、知る由もないのですね。
逆に他人が、私がどんな「不足感」を抱いているかを分かってくれるかというと、難しいでしょうね。
おそらく人によって全然違ったように見えていることと思います。

あなたよりも、仕事のスキルの劣る人からすれば、もしあなたが
「自分はまだまだだな…こんな能力で先通用するのだろうか…」
と、自分のスキル不足に悩んでいたとしても、
「これだけデキる人は、気持ちに余裕をもって仕事できているんだろうな…」
と映っているかもしれません。

もしあなたが、
「こんな年収では、結婚して、子供ができて…と考えたら、とてもゆとりなんて考えられない。全然足りないよな…」
と、年収の不足に悩んでいたとしても、もっと収入が低く不安定な人からすれば、
「これだけの安定収入だったら、気持ちにゆとりがもてるのだろうな…」
と映っているかもしれません。

自分の周りにいる、ゆとりを醸し出しているように見える人たちも、
その実態は私達と大差なく、色んな不足感に満ちた生活を送っているのかもしません。

「想像できないステージ」には「想像できない不足感」

「持てば持つほど、足りないものが見えてくる」
これが人間の「欲」の実態だと仏教では言われます。
「人間の欲には底が無い」とよく言われますが、持っているものに応じて、欲望は膨張していくということです。

「年収これぐらいになったら、もう不足に思うことはないはず」
「あの人くらいデキるようになったら、満ち足りた気持ちになるはず」
「ああいう円満な家庭を持つことができたら、心は満たされるはず」
そんなイメージを持ち、そんなステージへたどり着けることを夢見ているのですが、夢見ている間は、そこに立った景色を知る由もありません。
そこへは、行ってみなければ分からないのですね。

ただ、ハッキリしていることは、今、自分の中で渇き求めている「欲望」が、そのステージに到達した瞬間に無くなる、なんてことにはならないということです。
その先へと向かうより大きな欲望となっていることでしょう。
「今手に入れているものをキープした上で、できればもうちょっと…」
そんな心が、どこまで歩もうが、どんなステージに至ろうが、無くなることはもうありません。

間違いなく言えることは「欲を満たす」という道を歩んでいる以上、
私達がこれまで感じてきた「不足感」、そして今感じている「物足りなさ」
これは、どんな先のステージへ行っても引きずり続けているということです。

確かにこの世界は、新たな刺激に満ちているということは間違いないですよね。
行ったことのない国に行き、触れたことのない文化に触れれば世界は広がるでしょう。

色んな人と会って、色んな考え方や生き方に触れれば、自分の中にも劇的な変化が起こるかもしれません。
今の仕事をがんばり続けて、さらに大きな仕事を任されるようになれば、自分の器はさらに大きくなるはずです。
チャレンジすればするだけ、自分の成長や出会いの広がり、世界の広がりができて、ダイナミックな人生が展開されていきますね。

だけど、「欲」の本質は全く変わりません。
手に入れた物に対する執着も起こすし、自分に無いものを欲することもやめられません。
このことと「成長」とは、全く別問題ということです。

求めても、求めても、そしてどれだけ成長しても、「不足感」は無くならない。心から満たされ切らない。
この「求不得苦」は、どんな人間がどんな変化を遂げても、そしてどんな環境に身を置いても、ありつづける人間普遍の苦しみなのですね。

埋まらない「不足感」の前に私達は…

「求不得苦」を抱えて生きている。
これだけは、誰もが同じだということです。
「欲」を持って生きている人間である以上、社長であろうと、トップアスリートであろうと、職を退いた悠々自適暮らしであろうと、関係ありません。
「求不得苦を抱えて生きている姿」という点では全く同じです。

この「人間観」を持つことが重要だと仏教では言われます。
自分よりも恵まれているように見える人も、自分と同じ「求不得苦を抱えて生きている人間」だという人間観は、色んな場面で自分を冷静にさせてくれます。
実は私が思っているほどに、他人に羨むような要素は無いということです。
もし、想像できないくらいに恵まれた境遇にいる人がいたら、その人はまた想像できないくらいの求不得苦に苛んでいる人です。
「いったい、どんな求不得苦をこの人は味わっているのだろう…」
そんな風に考えるのもアリだということです。

自分も他人も、抱えている本質的な苦しみは同じです。
ならば、「求不得苦」の実態をよく理解して、それとどう向き合い、どう生きていくかを考えてこそ、本当に前進してゆける道が開かれてきます。

「求不得苦」は一生ついて回る。
この覚悟を持って生きるしか無いということですね。
「いつかこの求不得苦が無くなる。」
「どうすれば、この不足感を無くすることができるか。」
この路線で生きていたら、これは大変です。

「鼻先にぶら下げられた人間を追いかける馬」の図は有名だと思いますが。

まさにこんな感じになってしまいます。
「一生埋まらない距離を、一生掛けて埋めよう埋めようとし続ける」
そのことに全力を尽くす方向に走ると、収集がつかないことになります。
そして限られた人生は、どんどん消費されてゆきます。

「不足感を埋め尽くそう」
という方向には走るべきではない
ということが「求不得苦」の教えからの一つの教訓です。

「求不得苦」は一生ついて回る。
「不足感」は常にあり続ける。

このことを前提として生きる他ないということです。

「求不得苦」そのものは、無くすることはできないものとして、あきらかに観てみる。
これをやって初めて見えてくることがあります。
「不足感」がたとえ一生ついて回ろうとも、それでも「為し続けたい」ことが、きっとあるはずです。
その、あなたが「本当に為したいこと、為し続けたいこと」を見つけるべきだということですね。

「どうやって不足感を埋めるか」
という思考から、
「不足感と一生付き合いながらも、自分は何を為し続けたいのか」
という思考へとシフトした時に、自分が心から望んでいることは何か、の答えに近づくことができるはずです。