人生に「本物の結果」を積み重ねるために〜因果の早とちりを払拭する〜

運命を狂わせる「幸せ」の早とちり

「宝くじが当たることは、幸せなことなのか」
こういうテーマで論じたら、きっと色んな意見が出てきそうですね。

「幸せのようでいて、実はリスクの方がずっと大きい」という意見がけっこうありますよね。
私も、そうだろうなと思います。

「宝くじを買う」という行為は、ただ「買う」ということに尽きます。
ゲン担ぎとか実績とか色々言われますが、理論上はどこの店で買おうが同じみたいですね。

株や不動産投資なら、経験や知識のなせる技とか、色々なマインドが物を言う実力勝負の世界と言われます。
パチンコや競馬でも、その道をとことん追求すれば、ある程度、当てる確率を上げることができるようになってくるのかもしれません。

だけど宝くじだけは、そうはいかないようですね。
どれだけ店を選ぼうが、買うタイミングを考えようが、当たる確率をコントロールする余地はない。
本当に、「買う」か「買わないか」の二択に尽きる、非常に純粋なシンプルな、「低い確率に賭ける」という行為です。

つまり、行為は「買う」というただそれだけで、後は「結果を待つだけ」ということなのですね。

このように、ほとんど実質的な行為を伴わず、「結果だけ」を待つ。
そういう形で得られる「結果」は、多くの場合、運命を狂わせてしまうようです。

「宝くじを買う」→「宝くじが当たって数億円が手に入る」
この「行為」と「結果」は、一見、もっともな因果のように思いますが、「数百円のお金を出してくじを買う」と「数億円の大金が手に入る」とは、とてつもない隔たりがあります。
どう考えても「行為」と「結果」は釣り合わないわけです。

そんな「行為」に余りにも見合わない「結果」を手に入れてしまった場合、後が大変ですね。

考えてみれば、「数億円の大金を得た」というのはまだ瞬間的な通過点です。
お金の規模がものすごいので、ただその「大金を得た」だけで、それがそのまま「幸せ」のように思いますが、そんなことはないですよね。
福沢諭吉が印刷されたこの紙切れ一枚そのものは、それ単体では意味を持ちません。
お金は「何か」と交換できるから、価値があるわけです。

言うまでもなくお金は「手段」であり、使うためのものです。
ということは、幸せになれるかどうかは、このお金をどう運用してゆくか次第です。
私にとっての本当の結果は、その大金を運用してどんな未来を切り拓くか、ということです。

もし、その大金を手にれてからの行いが

仕事をやめて
贅沢三昧の生活となり
知識も経験もない投資話に飛びついて無謀な運用をしたり
周りの人間が信用できなくなっていったり…

これでは、ほどなくして数億円のお金も尽きてしまい、贅沢三昧の習慣と歪んだ人間関係だけが残ってしまうという結果となってしまいそうですね。
「破滅は、当選した時から始まっていた」なんてことになってしまいます。

「大金が手入るかどうか」が、そのまま私の幸せな結果につながるわけではありません。
大金があろうがなかろうが、やはり自分の結果は自分の行動が生み出してゆくということです。

「幸せ」の因縁を見極める

自分の結果は、自分の行動が生み出す。
これを仏教では、「自業自得」といいます。
私に才能があろうと、大金があろうと、恵まれた環境があろうと、それだけで結果は決まらないのですね。
それらを活かして、私がどんな行動をするか。
その行動が、私の結果を生み出します。

外から見たら、「その人が受けている結果」と思えるようなことがたくさんあります。
先程の宝くじの例のような、
「大金が手に入った」とか
「芸能人のような美女と結婚した」とか
「一流企業に入社した」とか

それを見て、他人は羨みます。
だけどその人にとっての本物の結果は、それからの「行動」次第ということです。

「大金」「芸能人のような美女」「一流企業」…
これらは、仏教で言うなら「縁」です。
それらのどれだけ恵まれた「縁」があってでも、それだけでその人の「幸せ」となるわけではありません。
恵まれた「縁」の中にあっても、その人が本当に心から満たされた人生になるかどうかは、その人の「行動」が決めます。

私の「結果」の根本的な種となる「行動」のことを「因」といいます。
「因」と「縁」とが揃ったときに、私の「結果」が生まれる。
これが仏教で教える「因果の道理」といわれる法則です。

このことをよく植物で例えられます。
とても肥えた土壌があって、天候もほどよくて、適度に雨も降り、作物が育つ最高の環境がたとえあっても、「種」を植えなければ何も収穫はありません。
土壌、天候…などの環境が「縁」で、収穫の元になる「種」が「因」です。
その「因」と「縁」が揃ってはじめて、「結果」は現れるということです。

「縁」だけでは、私の結果にはならないということですね。
「縁」はあくまで、間接的な要素であり、「私の行動」という「因」を造らなければ、「私の結果」は得られない。
これを「自業自得」と言います。

この「自業自得」は、他人からは分かりません。
傍目から見て
「大金に恵まれている」
「いい会社に入っている」
「いい人と結婚できている」
という事実は、
ただ「縁」に恵まれているだけなのか、
それとも、「因」と「縁」とがそろって、本当に満たされているのか。
その区別は、他人からはできませんね。

「幸せは他人からは判断できない」
とよく言われますが、まさしくこのことですね。

「本物の結果」を積み重ねるために

表面的に、一時的に何かが手に入ったという段階では、それはまだ本物の結果ではない。
それは「縁」に恵まれていることで、その「縁」を生かすも殺すも「自分の行い」次第ということです。
このことを、自分に対しても他人に対してもよく理解しておくことが大切ですね。

他人が、お金や地位や人や物に恵まれている、というただそれだけで「羨ましい」と思うのは、勘違いなのかもしれません。
その人が本物の結果を得ているかどうかは、分からないのだから。
その人は、その人の行動でしかその人の結果を得ることはできません。
自分もまた、自分の行動でしか自分の結果を得ることはできないのですね。

表面的な境遇がたとえ違っていても、このことはお互い共通したことです。
そうすれば、羨んだり妬んだりということ自体がナンセンスですね。
他人が人や物や金などに恵まれているかどうかなど、まったく問題にする必要のないことです。

私達は特に、他人が「楽していい目を見ている」と感じたとき、心がザワつきますね。
「あの人、大した努力もしていないのに…」
「私の方が、ずっと色んなことに耐えて、頑張っているのに…」
そんな思いが沸いてくると、とても穏やかではいられません。

だけど、もしその人が、見合った行動もなく、人やお金や地位に恵まれているとしたならば、「いい目を見ている」などと思う必要は全くないことが分かりますね。

「行動」も伴わずに「縁」だけを集めるような仮染めの結果など、あなたは求めてはいないはずです。
私達が求めているのはあくまで、因縁の揃った「本物の結果」なのだから。
他人の、ただ「縁」に恵まれている姿など気にすることなく、私の因縁を揃えることに注力すればよいということですね。

さてここで最初の
「宝くじが当たることは、幸せなことなのか」
という問いに戻ります。

「大金が手に入った」というのは、強烈な「縁」に恵まれた状態ということですね。
それが「自分の幸せ」という結果につながるかどうかは、「自分の行動」次第です。

あくまで、まだチャンスを得た段階、と捉えるのがよいでしょう。
「これで幸せになった」
と思うのは、危険な早とちりです。
その後の行動次第で、坂道を転げ落ちるような境遇に見舞われている人が後を絶たないのが現実ですから。

大金を得ても、いい職を得ても、素敵な人と結婚できても
それは「縁」という幸せになるチャンスを得たということです。
因縁揃って本物の結果を造るのは、それからの自分の行動次第というわけですね。

「因縁を揃えてこそ、私の本物の結果」
この因果の道理を理解しておくことは、自分の人生に着実な結果を重ねてゆくための土台となることでしょう。