人生最高のプレゼント~雀の卵~ 

人生で最高のプレゼントを貰った話

ちょっと前に、ある女性の方からとても心温まるお話を聞きました。

その方が小学生だった頃、同級生の男の子の家に遊びに行ったことがあったそうです。

その男の子の家がなかなか遠くて、歩いて行くとかなり大変な交通の不便な場所だったそうです。
そのため、彼の家には遊びに来てくれる友達がなかなかいなった。
そんな中、その女性は遠い道を歩いて、彼の家へ遊びに行ったそうです。

その男の子は、誰も来てくれない中、そんな大変な思いをして家へ遊びに来てくれたことがとても嬉しくて、何かをプレゼントしたいと思ったそうです。
だけど、家にはプレゼントとしてあげられるものが見当たらなかった。
だけど、何かプレゼントしたい…

そこでその男の子は、何を思ったのか、自分の家の屋根によじ登りました。
しばらくして、屋根から降りてきたその男の子の手には、小さな卵がありました。

「これをあげる」

と差し出された小さな卵。
それは、家の屋根に巣を作っていた雀の卵だったのです。
子供なりに、「何かプレゼントしたい」と考えて考えて、思いついた精一杯が屋根の上の雀の巣から卵を取ってきてプレゼントする、ということだったそうです。

その女性は雀の卵を大事に受け取って、家へ持って帰ったそうでした。

そんな思い出話をされて、その方ははっきりと言われるのです。

「今でもそれは、私にとって人生で最高のプレゼントの一つです。」

…それにしても、「これまで生きてきた中での最高のプレゼント」っていうのがまた凄いですよね。
それも「雀の卵」が。

そこで、どうしてこの「雀の卵」を貰った時にそんなにも嬉しかったのかを、もっと掘り下げて考えてみたいと思います。
というのも、この「雀の卵」を「人生最高のプレゼント」と喜べるところに、とても大事な教訓があり、それがまた仏教思想に通ずるところがあると思いましたので。

だって「雀の卵」って…むしろ、もらってもちょっと困る、という類のものかもしれないですよね。
ずっと置いておけるものでもないし。
雛をかえしてその雀を飼うのかというと、それも、ねえ…
そうかといって、調理して食べるというのもなんだか心配だし。気も引けるし。

「何か利用価値があるか」
「売ればいくらぐらいになるか」

そんな発想で見ていたら、そこに「最高のプレゼント」という価値を見つけることは難しいですよね。
どうしてその卵に、それほどの喜びを感じることができたのでしょうか。

「原因ごと」受け止めたならば

仏教で「知恩、感恩、報恩」という言葉があります。
文字通り、
恩を知り、恩を感じ、そして恩に報いる。

人間として、この気持ちこそが大切だと教えられているものです。
能力が高いとか、物を多く知っているとか、理解力があるとか、人として評価されるポイントは色々あります。
しかし仏教では、いくら色んな面が優れていても「知恩、感恩、報恩」の気持ちがなければ、決して人として立派とは言えないとされます。

この人は立派な人といえるかどうか、ということは、
恩を知り、恩を感じ、恩に報いようとする
こういうことができるかどうかで決まる、とまで言われています。

また同時に、人間が「幸せ」を感じられるかどうかも、この気持ちで左右されると言えます。

たとえば、誕生日に友達が焼き肉をご馳走してくれたとします。
これは、「幸せ!」となりそうですけど…

だけどもし「誕生日なんだからご馳走してもらうのは当たり前」と思っていたらどうでしょうか。
あまり「幸せ」と感じることはできないでしょう。

まして「いやいや、せっかくの誕生日、もっと珍しい高級な食事をしたいのに、焼き肉かよ…」なんて思っていたらどうでしょうか。
幸せどころか、焼き肉というご馳走にありついていながら「不満一杯」ということになってしまいます。

「当たり前」と思っていたり、まして「もっと良くて当たり前」などと思っていれば、どんな恵まれた出来事も、そこに幸せを感じることはできません。

これがもし、

そんなに経済的に余裕があるわけでもなかろうに、そんな中私のために出費をして焼き肉を食べさせてくれているんだな。
誕生日に楽しい時間をプレゼントしたいと思って、私がどうしたら喜ぶかを考えてくれたんだな。
私が好みそうな店をわざわざ探して、チョイスしてくれたんだな。

などなど、友達が自分のためにどれだけのことを考えて、どれだけのことをしてくれたのかということに目を向ける。
その「恩」を受け取ったならば、同じ「焼き肉を食べさせてもらう」でも、幸せの度合いはずっと大きくなります。

「恩を知る」というのは、そういうことですね。
もたらされた結果を受け流すのではなく、また、ただ受け取るのではなく、その結果の原因にまで思いを馳せて、それらを含めて受け取るということです。

家族の作ってくれたお弁当一つでも、
「いつもの弁当」
と受け流すことだってできるでしょうし
「もっといいのを期待してた」
と不満を抱くこともできるでしょうし
「朝早くに起きて、こういう手間をかけて、自分の好みや栄養をこれだけ考えて用意してくれたのだな」
原因ごと深く受け止めることもできます。

表面的な結果の向こう側にある、自分に対しての気持ちや気遣いや苦労、それごと受け取ったとき、私たちは深い幸せを感じることができます。

これが「恩を知り、恩を感じる」ということです。
そうなれば、その気持ちに応えられるようにがんばりたい、という「報恩」というエネルギーが沸いてきます。
それが次の幸せへとつながっていきます。

「知恩」「感恩」「報恩」は、自分の中に嬉しさや幸せを起こし、さらに次の幸せへとつなげていくとても大切なステップと言えます。
仏教で、人として非常に大切な心がけだと言われるのも頷けます。

身近に潜む一生モノの幸せ

雀の卵がなぜ、人生最高のプレゼントだったのか。
それは、雀の卵そのものが大きな財産的価値だったからではありません。
その小さな卵を差し出した男の子の、
「せっかく遠い道を歩いて遊びに来てくれたことに、何かで応えたい」
という気持ち一杯、そして、そのために何をしてあげられるかを思案してくれたこと、それで思いついたことを実行してくれたこと。
その小さな雀の卵の向こう側にある数々の「原因」ごと、その卵を受け取ったからに違いありません。

もし、その「原因」を見ることができずに、ただ「雀の卵」だけを受け取ったならば、「なにこれ」で終わったかもしれません。
少なくとも、一生忘れられない最高のプレゼント、と思えるような幸せを感じることはできなかったでしょう。

ところで実はこの話には後日談がありまして
それから数十年後の同窓会で、その友人と再会したそうなのです。
その時にその女性は言ったそうです。
「覚えていないかもしれないけど、小学生のときに、あなたから最高のプレゼントを貰ったの」
するとすぐに
「雀の卵でしょ」
と返ってきたそうです。
その男の子も、忘れられなかったのでしょうね。

ということはその男の子にとってもまた、
「同級生が遠くから苦労して自分の家まで遊びに来てくれた」
ということがそれだけ嬉しかったということでしょうね。
「友達が会いに来てくれた」
という結果の向こう側にある、「どんな思いで、どんな苦労して来てくれたんだろう」という原因に思いを馳せることができれば、何十年も忘れられないような嬉しい出来事になるのですね。

ただ「自分に会いに来てくれる」この出来事にも、考えてみればどれだけでも深く恩を知り、感じることができるのですね。
あなたがこれから会う人の向こう側の原因に、ぜひ少しでも思いを馳せてみてください。
きっといつも以上に、その人との時間を喜べることと思います。

私たちの身に起きている「何気ない」出来事にも、その向こう側の原因に思いを馳せれば、一生忘れられないほど嬉しい「恩」が潜んでいるかもしれません。
「雀の卵」の向こう側に「人生最高の喜び」があったように。

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