善悪の定義って何ですか?
仏教では、
「こういうことは「善」ですよ。
「善い行い」ですよ。
やったらいいですよ。」
と、いろいろな「善」を教えられます。
だけど
「善い行い」って何なの?
「善だとか悪だとか、そんなこと誰が決められるの?」
と、そもそもその「善悪の定義」から懐疑的になる人も多いかもしれません。
確かにそれを論じてゆくと、かなり奥深い話になってしまうことは間違いありません。
とても一回の記事では伝え切れませんが、
「善」ってどういうもの?
ということをテーマに今回はお話したいと思います。
仏教では、私達が「行い」をすることを、
田んぼや畑に「種」を蒔くようなもの
と教えられます。
「種」を蒔けば、やがて実る「収穫」は、他ならぬ蒔いた人の物になります。
「行為」とは、私に収穫をもたらす「種」のようなもので、
私がやった「行い」に応じた「結果」が、私に現れる。
「因果応報」という言葉は、そのことを教えている言葉ですね。
行い(因)に応じた結果が、必ず報いるということです。
だから「善い行い」とは、自分に幸せな結果を生み出す「種」だと仏教では教えられます。
「因果応報」なので、「行い」と「結果」が対応しているわけです。
なので「善」とは、「幸せを生み出す行い」ということになります。
そこに、誰かの都合が入るものでは全くありません。
もちろん、国の都合も社会の都合も入りません。
ただ、私の幸せを生み出す「種」が「善」だということです。
だから、他の誰かのためにするものではないのですね。
「善い行い」はもれなく、自分のためになるということです。
一生懸命、「善い行い」に努めていると、
「こんなにやっているのだから、誰かに感謝してもらいたい」
という気持ちになりがちですが、本当は逆なのですね。
蒔いた種の収穫はみんな、蒔いた人のものになるように、
自分が「善い行い」をしているなら、もれなく自分に幸せな結果が現れるのだから、
こんなにいい「種」を蒔かせてもらう機会をもらえるなんて、なんと有り難い…
と、「やっている人」が、感謝できるものなのですね。
農家の人が
「土地が欲しい」
「できるだけ広い土地が、あれば、あるだけ欲しい」
と思うのは、そのほうが恵まれた結果を得られることを知っているからですね。
確かに土地がたくさんあれば、それだけ仕事が増えます。
より広い範囲を耕さなければならない
より多くの種を蒔くことになる
より多くの範囲の面倒をみなければならなくなる
苦労は多くなることは間違いないですね。
そんな、苦労が多くなるのに、忙しくなるのに、何を好き好んで「土地」が欲しいと求めるのか。
それだけ収穫が多く得られるからですよね。
苦労して種を蒔いた分、それに応じた収穫が手に入ります。
その時に、自分に多くの土地があるに感謝できます。
「善い行い」をする機会が多いというのは、多くの「土地」を持っているようなものです。
その分苦労は多くなりますが、それだけ多くの収穫を手に入れることができるということです。
間違いなく実り多い人生が開けてくることになります。
「価値」に迷い、「行動」に迷う現代
だからこそ私達にとって、
「善い行い」とはどんな行いなのか?
ということがとても重要なことになります。
基本的に私達は、「善い行い」をしたいですよね。
そのほうが気持ちがいいし。
やっぱり自分にいいことがあるような気がするし。
そんな、あえて「悪いことがしたい」なんて人は、そうそういないはずです。
だけど、
「一体どうすることが、善い行いなのか?」
ということに、私達はいろんな場面で悩むのですね。
特に現代は、迷いやすい時代なのかもしれません。
というのも、これまで信じられていた
「こうしてゆけば善い」
という方向性に、行き詰まりを感じているという感が否めないのが現代なのですね。
一昔前までは、わりと「価値観」がシンプルで分かりやすかったと言えますね。
いい学校を出て、いい会社に入って、いい人と結婚して、いい家に住んで、子供をつくって、育てて…
退職金をしっかり貰って、老後は安心して悠々自適の暮らしをする。
そして、可愛い孫ができて、そんな温かい「家族」に囲まれて、安らかに人生を終える。
そんな「絵に描いたような幸せ」みたいなものがありました。
その路線に沿って生きていれば、「大丈夫」と安心できる力強い方向性が用意されていたところがありますね。
だから、
「学校でいい成績を取ればいい」
「会社で売上に貢献するよう尽くせばいい」
かなりシンプルな「善い行い→善い人生」という路線がありました。
もちろん、それが本当に「善い人生」なのかどうかは別ですが。
少なくともそういう共通の価値観があれば、そんなに迷わなくても良かったと言えるでしょう。
だけど今は、もっともっと価値観は多様化してきています。
特に、インターネットの発達で日本中、世界中の情報が誰でも手に入れられるようになって、
これまで知らなかったような、いろんな価値に触れられるようになりました。
そうすると
「学校なんかより、もっと価値ある学びがあちこちで得られる」
「会社に尽くして働くよりも、こういうことをすればよい」
というように、既存の価値観にどんどん疑問符が付けられて、選択肢が一気に広がりました。
「学校の勉強を頑張って、いい成績をとっていればいい」
「いい会社で、一生懸命会社に尽くして「出世」していればいい」
そんな、昔はかなり広く信じられていた「価値」だったことが、今や「それも一つの選択肢」となりつつあります。
また昔は、ご丁寧に、
「男は男らしく、こうあるべき」
「女は女らしく、こうあるべき」
みたいな男女それぞれの価値観まで用意されていました。
「外で働いて、勉強や経験で培った能力を発揮して、バリバリと売上という結果を出す、デキる男」
「家で家事をして、子育てをして、旦那の帰りを待って、細やかに気配りが出来る、よく出来た女性」
そんな「理想の男性像、女性像」のイメージがありました。
「男がそんな、女がするようなことをしなくていい」
とか
「女がそんな、男がするようなことをしなくていい」
なんて、今ではセクハラ発言と言われるようなことが、まかり通っていた時代があったのですね。
それが今や、そんな固定的な価値観が排除され、「理想の男性像」も「理想の女性像」も、相対化、多様化しています。
飛躍的に選択肢が広がったことが、「価値」に迷いやすい状況を生み出しているとも言えるのですね。
どんなことを頑張って、どんな結果を手に入れたら、私は幸せと言えるのか。
「それは自分で考えなさい」
と言われるようになりました。
時空を超えて変わらない善行
ところが仏教では、いつでもどこでも変わらない道理に則って、
「善い行いはこういうことだ」
ということを明確に教えられています。
どれだけ世の中の価値観が変わっても、変わらない「善い行い」が、仏教の中には教えられています。
だから、2600年前にインドで説かれたことですが、
その「善」の一つ一つが、価値観の激変した現代にも見事に通用しています。
仏教で説かれる「六度万行(ろくどまんぎょう)」と呼ばれる善はまさにそんな、時代を超えて通用する、行動の指針となる教えです。
「六度万行」とは
「万行」は、「よろずの行」ということで、「たくさんの善」ということです。
人に応じて、場所に応じて、場面に応じて、たくさんの善い行いが仏典には説かれていますが、それを6つにまとめて教えられたものが六度万行です。
常にこの6つに心がけていれば、あらゆる場面において、「善い種を蒔き続ける」ことができる、道理に則った「指針」となる教えです。
「布施」、「持戒」、「忍辱」、「精進」、「禅定」、「智恵」
これが六度万行ですが、今回はその中の「忍辱」を取り上げてお話したいと思います。
これは、「忍耐」ということで、「耐える」ことです。
「耐える」と聞くと、「善い行い」というより、なんだかすごく消極的なことのように思いますね。
だけど仏教ではこの「耐える」ことが、素晴らしい結果を生み出す「行い」だと教えます。
生活していれば、至る所で気に入らないこと、嫌なことがやってきます。
そしてその都度、腹を立てたり、不平不満を言ったり、ヤケになったり…
そういう「怒り」に支配されてしまいそうになります。
ここで、
そのまま「怒り」の心に任せるのか、
「忍耐」するか、
いずれかを私達は選ぶことになります。
ここで「忍耐」を選ぶというのは、立派な「善い行い」だということなのですね。
もしあなたが、これまで、キレてもおかしくない、不平を爆発させてもおかしくない、ヤケになってもおかしくない数々の場面で、「耐えて」きたのなら、それは「忍辱」という「善行」を重ねてきたということです。
これは、なかなか出来ない、大変素晴らしいことだということです。
一つ誤解の無いようにお話したいのですが、
「じゃあ、どんな不当な、理不尽なことをされても黙っていたらよいということなのですか?」
ということ、そういうことではないですよね。
忍耐の反対はあくまで、「怒りに支配されてしまう」という状態です。
だから、「怒りに支配されてしまう」のを「堪えた」ならば、それが立派な忍耐です。
その上で、
だけどこういうことは主張する必要がある、
こういう不正は正す必要がある
と「判断」することは、当然あるでしょうし、これも大切なことです。
怒りに支配され、怒りにまかせた行動をしてしまう
ということと
不正を正すために必要な行動をする
ということとは、別問題です。
怒りに支配され、怒りに任せて行動してしまうと、
自分では「正しいことだ」と思っていても、いろんな歪みを起こしてしまい、破壊的な結果を生み出してしまいがちなのですね。
だから、古今東西問わず、怒りに支配されそうなところを、「耐える」というのは、素晴らしい善行だと教えられるわけです。
そう考えると、「忍辱」という善行をできる場面は、日常にあふれていますね。
いつでもどこでも、努めて行うことができます。
こんなシンプルなことでも、これを努め続けたならば、他の人にはできない、いろんなことが出来てしまう可能性が広がります。
常に、冷静に的確な判断のもと、為すべき行動を為すための土台が出来上がってゆき、自ずと行動は正されていくことでしょう。
あなたの中に、いろんな場面で「善い種」を蒔き続けてゆく習慣が築かれてゆくはずです。