「服」は着てみて、「人」は付き合ってみてこそ
こないだ、ワイシャツが5着セットでの安売りされていたので、思い切って5着買ったのですけど。
店頭においてあるワイシャツって試着ができないんですよね。
クリップみたいなので固定されて畳まれているので、広げて袖を通したりということができない。
ただその商品を見て、色合いなどから気に入ったものを、選び、自分と合うサイズを選んで購入するしかありません。
なので、見た感じの好みで、気に入ったのを5着選んで購入しました。
そして家に帰ってから、自分の部屋で5着とも実際に着てみました。
家で今さら試着かよ…て自分で思わないでもなかったのですけど。
これで失敗だったらちょっといたたまれないですよね。
結構ドキドキなんですよね。これまであまり着なかったピンク色のワイシャツとかも冒険して買ってみたものだから。
なんというか、5着セットとなれば、なんとなく1着ぐらいは冒険しちゃうんですよね。
結果的にどれもハズレはなかったんですけど、ただ面白いことに、
見た感じで気に入ったランキングと、着てみて気に入ったランキングとが全然違うのですね。
もっと気に入ると思っていたのが着てみるとそれほどでもなかったり
逆に、そんなに強く目を引いたわけじゃないのだけど着てみると無性に気に入ったり。
ちなみに冒険して買ったピンクのは、思った以上に気に入りました。
でもつくづく思ったのは、「着てみないと分からない」ということでしたね。
店頭に並んでいるのを見るのと、着るのとでは、全然違いますよね。
服は、実際に着てみないと分からない。
このことは、色んな事にも言えますよね。
「人」だって、そうです。
遠目に見ている印象と、実際に話をして関わってからの印象とは全然違うということがあります。
正直、怖そうだな…と思っている人が、実際会話をしたらとても楽しかったりします。
そこからさらに、一緒に食事に行ったりカフェで話をしたりするようになると、また変化します。
別にその人自身は変わらないのでしょうけど、関わり方の変化で、こうも違ってみえるものだなと感じます。
前に友人がしみじみ言っていたことが、
「自分が理想だと思う人と、結婚して実際に幸せになれる人とは、違うよな…」
ということだったのですけど、妙に納得してしまいます。
彼は今、もともとの自分の理想というわけでもない相手と結婚しているそうですけど(とても相手には言えないでしょうね)、とても幸せを感じているそうです。
どんなことでも、自分との関わりが始まって初めて自分にとっての本当の価値が見えてくるということです。
現実を左右する見えない「因」
仏教で
「因縁生」
という言葉があります。
全ての結果は、「因」と「縁」とが結びついて引き起こる、という教えです。
私が受ける結果に対する「因」は、「私の行い」だと仏教では教えられます。
あくまで自分の結果は自分の行いから引き起こされていると教えるのが仏教で、これを「自因自果」と言います。
自分の「果(結果)」は自分の「因(行い)」が引き起こすということです。
私達はこれまで色んな「行い」をしてきていますよね。
私達の生活は、行いの連続だと言ってもいいでしょう。
ただ、その行いにもいわゆる「ルーティン」の占める割合は大きいでしょうね。
朝起きてから家を出るまでの行動、だいたい毎日同じですよね。
「私の洗顔のやり方は、相当バラエティー豊かですよ」
なんて人は珍しいと思います。
同じことを毎日毎日繰り返して、ほとんど意識せずとも身体が動いて行動している、そういう「習慣化された行動」が相当割合をしめています。
会社勤めをしている人なら、出かけてから会社に着いて、自分のデスクに座るまでの行動も、たぶん毎日そんなに変わらないでしょうね。
もっと言えば、やってる仕事内容も結構同じようなパターンの繰り返しかもしれませんね。
組織として効率よく業務を進めるためには、パターン化が大切なわけで、それぞれの社員が役割を担って、一つのパターンに沿った行動をし、それらの行動が有機的に組み合わさって一つの事業が進んでいくのですから。
基本的に自分には決められたパターンの仕事がある場合がほとんどなわけですね。
仕事が終わって家に帰ってテレビをつければ、いつもの番組がやっている。
風呂に入って、いつもの食卓で食事を摂って、歯を磨いて、寝る。
主だった行動は、これまたほとんど同じことの繰り返し。
もちろん、「同じ行動」というのは、ざっくりと見た言い方ですよ。
厳密に言えば、食べる物も毎日微妙に違いますし、同じ人との会話といっても、全く同じ会話をするわけではないし、仕事で入ってくる案件も一つ一つ、どこか違います。
細かく見れば「まったく同じ行動」というのはありません。
だけど、ざっくりと見れば、私達の感覚ではやっぱり「同じような行動の繰り返し」とも言えるわけですね。
だから「昨日、何をしましたか?」と聞かれても、結構、「いやー、何をしたかなあ?」となることも多いのですね。
仕事が終わって、夕方に
「あーあ、今日一日、何をしてたんだろ…」
とつぶやく同僚の言葉をよく聞きます。
いや…めっちゃ仕事してたじゃないですか、と思うんですけど、その人にとっては記憶にも残らないルーティンの繰り返しだったのかもしれません。
一人一人の習慣があり、行動パターンがあり、それを繰り返して、その人独自の「因」を積み重ねているというわけですね。
その「因」が、他人や物など何らかの「縁」と結びついて、その人の結果が生み出されるのが「因縁生」ということです。
同じ「縁」に触れても、私がどんな「因」を積み重ねているかによって、結果は大きく変わるということです。
無自覚に習慣化された行動という「因」を積み重ねている私達は、自分がどんな因を持っているかの自覚があまりありません。
そうすると、実際に縁に触れてみないとどんな結果が現れるかは分からないのも頷けます。
ショートカットは存在しない
他人も、お金も、財産も、地位も、名誉も、土地も、家も、車も、服も…あらゆるものは私にとっての「縁」です。
そんな「縁」に触れる私の積み重ねてきた「因」はどんな状態か。
それによって私の結果は、全く異なるということです。
私は日頃からどんな習慣を持っているか。
どんな行動をして、どんな言葉を発して、どんなことを日頃考えているか。
それらが全部私の「因」の積み重ねとなっています。
その「因」と「縁」が結びついたときに私の結果が現れるということを教えているのが
「因縁生」
という仏教の言葉です。
「人生で何を手に入れるか」も大切なことですが、それまでどんな「因」を積み重ねているかは、また根本的に重要なことです。
このことを抜きに欲しいものを追うだけでは、思うような結果に至ることはありえません。
そう考えると、
宝くじが当たって数億円というお金が自分のものになったとか、
遺産を相続して、多額の財産が自分のものになった
こういう、そこに向けた行動(因)の積み重ねも無しに、大きな財産などを手に入れてしまうというのは、非常に危ういことですよね。
宝くじが当たって大金を手に入れたが故に、かえって人生の破滅を招いてしまったという話はよくあります。
本来あるべき、大金を手に入れるための行動(因)の積み重ねも無しに、大金という「縁」に恵まれたというのは、決して幸せな結果とは言い難いということですね。
はたから見れば、「大金を手に入れた」ということは、羨ましい限りですが、本当にその人の受ける「結果」は、その人の「因」次第です。
大金という「縁」がどんな「因」と結びついているかで、結果は全く異なります。
つくづく、人生にショートカットなどないことが分かります。
ただショートカットで結果に至っているように見えているだけです。
その人の本当の結果はやっぱり、その人の因の積み重ねの現れでしかありません。
そう考えると、他人の羨ましい境遇に一喜一憂するのも、あまり意味のないことなのですね。
本当にその他人が受けている結果は、その人の「因縁生」であり、「因」次第ですから、どんな「縁」に恵まれているかだけではわかりません。
だからやっぱり、大切なのは自分がどんな「因」を造り続けているかということです。
そして、それを踏まえて自分がどんな「縁」を選ぶかということです。
もちろん「縁」も大切なのですね。
これによって私の行いが変化していくこともありますから。
自分の行いの積み重ねと、触れる縁とで、自分の現実は引き起こされてゆく。
この「因縁生」の道理をあきらかにみて、どんな「因」を造り、どんな「縁」を選ぶかということを大切にすることで、本当に望む現実が切り開かれてくのですね。