「決断できる人」になる思考法~「因縁生」を観る~③

「ポジティブ思考」の前にまず…

「自分の身に起きた現実の受け止め方」というテーマは、わりと色んなところで語られているようです。

人生、生きていれば日々いろんなことが起こりますよね。
私自身もそうですけど、他人の身の上話を聞けば、まあ色んな事が起こるものだなと思います。

そんな時に、自分に起きる出来事一つ一つに対して
「私はこのように受け止めるように心がけています」
という考えを聞くこともけっこうあるのです。

「何事も出来るだけ感謝の気持ちで受け止めるようにしています」
「何事もプラスに受け止めるようにしています」
「自己責任と受け止めて反省に心がけるよう努めています」
「感謝」や「ポジティブ思考」や「反省」を心がけているという話は時々聞きます。

自分の身に起きる現実を「どのように受け止めるか」一つで、人生は良くも悪くも大きく変わるということは紛れもない事実です。

受け止め方一つで、日々自分の中に起きる感情も変わるし、そこから出てくる思考も変わるし、行動も変わる。
だから、人生も変わる。

こういうことで、「自分の現実をどう受け止めたら良いか」に対するアドバイスは世の中に数多くあります。
いろんな本にも書いてあると思います。
その中でもよく聞くのが、やっぱり「プラス思考」や「感謝の心」で受け止めるというアドバイスなのですね。

では、仏教ではどうなのでしょうか?
やっぱり、「感謝の心で何事も受け止めましょう」とか、そういうことを言うのでしょうか?
確かにそういうイメージが強いと思います。
そして、それ自体は間違いありません。

しかし仏教では「プラス思考」とか「感謝」とか「反省」という話の前にまず
「起きた結果の「因」と「縁」をごまかさずに観てゆきなさい」
と、説くのです。

その前提として、「自分の身に起きる結果の全ては因縁生である」という教えがあります。
このことについてはこれまで2回に渡ってお話ししてきています。

植物の果実がなるには、
まず種(因)がなければならないし
その種が芽を出して茎を伸ばして実をならせるのを助ける土壌、水分、日光、温度のような環境(縁)がなければならない。
種(因)と、適度な環境(縁)が揃って初めて果実がなる。

ちょうどそのように、
自分の身に結果が起きるには、
それを引き起こす自分の行動(因)があってのことであり、
またその行動(因)が結果に至るのを助ける環境(縁)があってのことである。
周りの人、社会の仕組み、組織、天気、さまざまな要素が私たちにとって「縁」となります。
行動(因)に環境(縁)が加わって、はじめて自分に結果が起きる。

これが「因縁生」という道理で、仏教が根幹として教えていることです。

「プラス思考」の前に…
「感謝」の前に…
「反省」の前に…
まず、「因縁生」の道理に則って自分の結果に対する「因」と「縁」をあきらかに観てゆく。
これが大切なことなのです。

日々、色んなことが自分の身に起こりますね。
体調不良に陥ってしまったり
仕事でクレームの対処に追われてしまったり
作業が山積みとなり遅くまで残業するハメになったり
同僚に陰口をたたかれてしまっていたり
友人からの信用を失ってしまったり

いろんな問題が起きてきます。
それらの問題には必ず、それを引き起こしている自分の行動(因)と環境(縁)とがあります。
どちらか一方だけということは無いというのが「因縁生」ということです。

自分のどんな行動(因)がこのような結果を引き起こしたのか。
そして、
どんな環境の要素(縁)があってこのような結果を招いたのか。
この「因」と「縁」の両方をあきらかに観てゆく。

まずこれが大切なのですね。
自分の身に起きた結果をまず、「因縁生」の道理に則って合理的にとらえて理解する。
まずはこれをやることです。

「感謝する」も「プラスに考える」も「反省する」も、まず、これをした上でのことなのです。
自分の結果に対する「因」も「縁」も知らないと、
何にどう感謝していいか、分からない。
何をどうプラスに考えたらいいか分からない。
何をどう反省したらいいか分からない。

そんな状態で「感謝しなきゃならない」「プラスに考えなきゃ」「反省しないと」というのも、なかなか厳しいものがあります。
まずやるべきは、結果に対する「因」と「縁」を冷静に観ることなのです。

「冷静に観る」というところが大切なのですが、私たちはついつい感情的に偏った見方をしてしまいがちなのです。

「愚痴」状態に陥らないために

植物の果実が「因」(種)と「縁」(環境)から起きるということなら、誰でも「因縁生」を冷静に観ることができます。
その他の客観的な現象に対しても、いろんな学問の探求から「因縁生」をどこどこまでも深くみつめてゆくことができます。
人間は、あらゆる「因縁生」を探求して、文明・文化を発達させてきたということも出来るでしょう。

ところがどういうわけか、最も大切な「自分の身に起きる結果」に対しては、「因縁生」を合理的に観察することが途端に難しくなるのです。

「因」と「縁」を冷静に観つめるどころか
「運が悪かったなあ」の一言で片づけてしまったり
「自分は不幸の星の下に生まれてきたのだ」と、なぜか自分の結果を「不幸」に固定化してしまったり
「あの人があんなことをするから…」と、「他人」というごく限られた縁の一要素ばかりに気を奪われて悶々としたり
「何か悪霊が憑いているのではないか」と、迷信のような考えに走ってしまったり
「どうせ何もかも、私が悪いんだ」と、ヤケや自暴自棄を起こしてしまったり
「因」と「縁」の両方をバランスよく観る、とはほど遠い非合理な考えに走ることが少なくないのですね。

人間の叡智の積み重ねで、あれだけ様々な「因縁生」を解明して、高いレベルの教育も受けているにもかかわらず、こと自分に起きる結果に直面した途端に合理的とはほど遠い考えに陥ってしまうことがあります。

これがまた、人間の危うさなのですね。
このように「因縁生」を観ることができず、合理的とはほど遠い考えに陥った状態のことを仏教では「愚痴」と言われます。
「愚痴」というのは、「愚」も「痴」も「愚か」という意味です。
仏教で「愚か」とは、自分の結果について「因縁生」の道理を観ることができないことを言うのです。

仏教では、世間の学問の知識がないことを「愚か」とはいいません。
物をどれだけ知っている、知っていない、は問題ではないのです。
たとえ、百科事典を全部頭に入れているような人でも、自分の結果について「因縁生」を観ることができないと「愚痴」と言わざるを得ないのです。

先ほどのような
自分の運命を「不幸」と固定化してしまったり
ただ他人を恨むばかりに陥ってしまったり
迷信に走ってしまったり
ヤケや自暴自棄になってしまったり
そんな「愚痴」の状態に陥ってしまうと、そこから現実を好転させることは難しいですね。
因(行動)と縁(環境)を的確に選んで実行してゆくことでしか現実は変えられないのだから、それを見失って負の感情にまかせて動いていては、事態は悪化するばかりです。
悪化すれば、ますます愚痴状態に陥る。
愚痴状態に陥れば、さらに状況は悪化する。
そこからさらに愚痴状態を深めてしまって…負のスパイラルは深刻化するばかりです。

これが、人間が苦しみを深めてゆく構図です。
その始まりは、「因縁生」を見られなくなってしまった「愚痴」からなのです。

この愚痴から脱却して、まず「因」と「縁」をごまかさずに観つめる。
そんな「智慧」を持つことが、苦境においても「決断」が出来、状況を好転させていく鍵となるのです。

どれだけ「プラス思考で行こう」といっても「感謝の気持ちを持とう」といっても「反省しよう」といっても
それは「因縁生」の道理に則って、自分の結果に対する「因」と「縁」を冷静に観た上でのことなのです。
それ無くして、まして愚痴状態で、いくらそれを言い聞かせても、それはどこか歪んだ形となってしまいます。

だからこそ、何よりも「因縁生」をごまかさずに観ることが先決なのです。
仏教思想を学ぶことは、この「因」と「縁」を冷静にみる智慧を身に付けることとなります。
そこからポジティブ思考も感謝も反省も自ずと生まれて、そして最善の決断をできるようになっていくのです。
こういうことの出来る人こそが、「智者」と言うに相応しいですね。

「諦観」できる智慧

このように「因縁生」をあきらかに観ることを「諦観(たいかん)」といいます。
「諦」とは「あきらか」ということ
「観」とは「みる」ということ
「あきらかに、みる」ことを「諦観」と言います。

自分に事が起きたときに、「因」と「縁」をごまかさずに観るのが「諦観」です。

昔も今も、人間にとって課題となることはこれが出来るかどうかということです。
文明が発達していても、高度な教育を受けているといっても、豊かな国、裕福な家庭に生まれたといっても、「諦観」を出来るかどうかは、また別問題です。

どんな状況に陥っても自分のできる最善の決断をし、人生を切り開いてゆくことのできるのは、智慧をもって、因縁生を「諦観」することのできる人なのです。

あなたの身に起きた結果には、
かならずそうさせた「因」となるあなたの「行動」がある。
そして、
その行動を結果へと至らしめた「縁」という環境がある。

この道理に則って、常に「因」と「縁」の両方をあきらかに観る習慣を身に付けていきたいものです。

それではまた!

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