「人相手」の演出
突然ですけど、「善い行い」を、想像してみて下さい。
…どんなイメージが沸くでしょうか?
電車の中で席を譲るとか
荷物を持ってあげるとか
落とし物を届けるとか
仕事を同僚に教えてあげるとか
無償の医療活動に従事するとか
色々出てくると思います。
じゃあ次に、
「悪い行い」を、想像してみて下さい。
こちらは、どうでしょうか。
道ばたでゴミのポイ捨てをしたり
禁煙ゾーンでタバコの煙を漂わせたり
並んでいる列に割り込みをしたり
他人の悪口をネットの掲示板に書き込んだり
人の物を盗んだり
人を傷つけたり、殺したり
これまた色々出てきますね。
それぞれ共通していることがあります。
「善い行い」は、人助け。
「悪い行い」は、人を苦しめること。
けっこう当たり前に、こうなっていますよね。
自然にそういうイメージが沸いてくると思います。
それほど私たちが生きている舞台は「人間関係」だということですね。
もちろん人間関係以外の要素も生活の中にはあります。
「地球に優しく」
「環境保護」
「生態系のバランスを考える」
そういう価値観もあります。
人以外の生き物や環境に対しても心配りをすることの大切さは色んな所で言われています。
ただこの価値観も突き詰めればやっぱり「人間のため」なのかもしれませんね。
地球環境のことを無視していたら結局、自分たち人間の身を滅ぼすことを私たちはよく分かっているわけですから。
こういう価値観も、その目的は「人間社会」を守るためなのかもしれません。
人間社会を守り、そしてこの人間社会の中でどう立ち回っていくか。
私たちの行動の規範は、この枠内のものがほとんどです。
だから、私たちが行動をとらえるときの基準は、「人間関係にどう影響するか」基本的にこれです。
「人様の迷惑にならないように」
「世間に後ろ指さされないように」
「人の役に立てるように」
常に相手として「人」が存在しています。
家族に対して
親戚に対して
友達に対して
近所の住人に対して
会社の上司や部下や同僚に対して
仕事上の取引先や顧客に対しいて
家庭を持って、会社勤めをして生きていれば、どんどん複雑な人間関係が出来てきますね。
さらにSNSなんかを利用し始めたら、もっと複雑になります。
職場の人や学校の友達をLINEで繋がってなんていたら、その複雑さが物理的に一人でいる時間にも及んできます。
これらの人と、いい関係でいたい、慕われていたい、尊敬されていたい、嫌われたくない…
その人間関係のことで私たちは頭が一杯になります。
そしてそういう「人相手」の行為として、自分の行動をとらえているといえます。
そうすると、こういう暗黙の了解があります。
「人相手なら、ある程度ごまかしも効く」
自分の朝から晩までの行動そのまんまを人にさらけ出して生きてはいないですよね。
まして自分の心の中で思っていることは、「人相手」ならば覗き見られることはありません。
他人が自分を見る目には限界がありますよね。
必ず目の届かないところがあります。
また、目の届く範囲であっても、ごまかしや見せかけが通用するのが人間の目です。
(たまにごまかしが通用しにくい、恐ろしく鋭い人もいますけど)
現実問題、ある程度の「演出」は、必要と言わざるを得ません。
ところで、私「武村 ショーゴ」のプロフィール、読んでくれました?
これですよ、これ。
ここからも、「こうやって人は自分を演出しているんだなあ」というのがよく分かると思います。
もちろん事実無根の嘘は書いていないですよ。
だけど、同じ事実も、「どう見せるか」によって印象は全然違います。その辺の演出は全力でやっています。
人相手にこういうことを当たり前にやって、私たちは生きています。
「演出」「見せかけ」そして「ごまかし」そういう習慣が私たちの行動に深く刻み込まれています。
山奥の満開の桜のように
仏教では、自分のやった行いに応じた結果が必ず自分に現れると教えられます。
これを「自業自得(じごうじとく)」とか「因果応報(いんがおうほう)」などと言われます。
自分の行い(自業)の結果は自分が受ける(自得)。
自分の行い(因)に応じた結果が報いる。
行いは、必ず自分にそれに応じた結果をもたらす。
このことを、道理として、真理として、仏教では教えられています。
植物の種が土壌に撒かれれば、その種子は自ずと芽を出し、花を咲かせます。
人目につくとかつかないとか、関係ありません。
桜の花は、とても人目をひきますね。
桜のシーズンでは花見という行事が催されるほど、非常に多くの人からもてはやされるのが「桜」です。
人間にとっての桜の花の情景はとても値打ちがあるわけです。
だけどそれは、人間の勝手な都合ですよね。
桜は別に、人間を楽しませるために花を咲かせているわけではありません。
ただ、種子が撒かれて、土壌や水や気温などの条件が整ったから、自然の道理に従って花を咲かせているだけです。
それを人間が勝手に愛でているだけです。
だから、たとえ山奥の誰一人として立ち入ることのない場所であっても、そこに種子が撒かれたならば、桜は立派に美しく桜の花を咲かせます。
「いや、誰も見ていないのだから美しく咲く甲斐もないし…」
などと言って、五分咲きくらいにとどめておく、なんてことはありません。
条件が整えば、誰の目にもつかずに、満開の花を咲かせるのです。
植物の世界では「演出」も「見せかけ」も「ごまかし」も存在しません。
あるのはただ、自然の因果の法則のみ。
仏教で教える「自業自得」「因果応報」ということも、その自然の法則と同様に、
「行い」という種は、人が見ている、見ていないに関わらず、撒いたならば必ず自分の結果を実らせる。
因果応報で、行いに応じた結果が、必ず自分に報いる。
そしてこの道理の前には、「演出」も「見せかけ」も「ごまかし」も一切通用しません。
山奥に着地した桜の種が、誰の目にも触れない中で満開の綺麗な花を咲かせるように
「人相手」ではなく、この「道理」を相手に、自分のすべき行動を精一杯行う。
それこそが、上辺の、かりそめの安心ではなく、本当に自分の望む結果を求める姿勢だと言えるでしょう。
「道理」のベースと「演出」のテクニック
とは言っても、「演出」も一切しない、「見せかけ」もしない、ありのままを常にさらけ出して行く。
…これはこれで極端すぎますよね。
周りだって、
「いや、そこはもうちょっと演出してくれないと…」
「もうちょっと、見せ方考えてくれないかな…」
「それ、暴露してしまうかな…」
こういう思いはあるわけで、それに応えることもまた必要なことですよね。
人間社会を離れて生きるのではない限り、取り入れていくしかありません。
「演出」を有る程度は駆使して人同士の良好な関係を作っていくということは必要です。
だけど、あまりにも嘘で塗り固めた関係は、脆いものとなってしまいます。
ついつい私たちはそれをやってしまう。
これらの手段は即効性がありますから、とりあえずの結果は得やすいのです。
だけど、それらのテクニックばかりに頼ってしまってはほんの一時的な薄っぺらい結果しか得られないのは目に見えています。
だからこそ、
「一切ごまかしが効かない道理」
があることをよく理解しておくことが必要なのです。
基本的にはこの「道理」を相手に、ごまかさない行動がベースであるべきでしょう。
その上で、人間関係という場面における必要なテクニックを取り入れていく。
この、道理に腰を据えるスタンスと、テクニックを取り入れられる柔軟性の両面が必要だということです。