現実が動き出す出発点~「無我」を知る~③

「自分はこんなだから…」その固定化を崩すには

自分に対して強いマイナスのイメージを抱いてしまって、そのイメージに囚われて現実を好転できない、ということがありますね。

「私は嫌われ者だ」
「私は貧乏人だ」
「私はコミュニケーション下手だ」
「私は格好悪い」

自分に対してこのような強いイメージを抱いてしまうと、なかなか抜け出すことが難しい。
自分に対しての「固定化」をしてしまっていると言えます。

「人は無限の可能性を抱いているのだから、心がけ次第でどれだけでも変われるよ」
と、いくら言われても
「そうは言っても、こんな自分が…」
と、やっぱり「こんな自分」という固定化したイメージから抜け出せないものです。
どうしても私たちは自分に対して「こんな自分」という固定がはたらいてしまいます。

仏教で説かれる「無我」の教えはそんな固定化を根本から崩して、そんな固定した「自分」というものはそもそも無いのだと教えます。
この「無我」を理解すれば、「どれだけでも自分は変われる」というのは気休めではなくて「本当のこと」だと知ることができます。
この確信が、自分の殻を破って、現実を自分の望む方向へと動かす出発点となります。
「無我」とはどんな教えか、お話ししていきたいと思います。

仏教では、すべては一時的に因縁が揃って出来上がっているものであり、固定した「我」というものは存在しないと教えています。
これを「無我」と言います。

「諸法無我(しょほうむが)」と言われ、あらゆるものにおいて、固定した「我」というものは存在しないと言われます。
私の身の周りのあらゆるものがそうだし、また、「私自身」についても言えることなのです。

この肉体を支配する「精神」が「私」…?

そうは言ってもどこかに固定した変わらない「私」が存在するはず、というのが私たちが自然に抱く思いです。
それが、目に見える肉体なのか、目に見えない精神なのか、そのあたりの意見は分かれるところですが。

ただおそらく、「肉体」は私の「持ち物」であり、その「持ち主」が精神的な「私」であるという考えが有力でしょう。

頭のてっぺんから足のつま先までのこの「肉体」は、60兆もの細胞で構成されていると言われます。
その肉体は日々、新陳代謝を繰り返し、古くなった細胞は垢となって風呂で排水溝へ流れていきます。
爪も伸びてきたら爪切りで切ります。
髪の毛も伸びてきたら、美容室や床屋で切ってもらいます。
考えてみればこの肉体は激しく入れ替わって変化し続けていると言えます。

変化し続ける肉体はあくまで私の「持ち物」であって、その持ち主として、肉体がどれだけ変化しても一貫して変わらない「精神」がある。
その肉体をコントロールし、支配している「精神」こそが「私」だと考えるのは自然なことでしょう。

「理性」が絶対視された歴史

近代の西洋文明は人間の「理性」を絶対的なものと位置づけて、近代合理主義が押し進められたと見ることもできます。

近代以降、押し進められた科学文明の発達は確かに大変なものですよね。
産業革命を皮切りに、大量生産、大量消費の文化が作り出されて、合理的な生産力はすさまじく進歩しました。
道路が整備されて自動車が走り、空路が整備されて飛行機が空を飛び交い、インターネット技術が発達して情報が世界をかけめぐる。

ちょっと昔では想像もつかなかった夢のような仕組みが次々と実現されてゆき、現代の高度な文明に至っています。
これらは人間の「理性」の産物と言えるでしょう。
今、こうして私の文章をあなたに届けられるのも、この文明の恩恵によるものに違いありません。
これだけの文明を生み出す「理性」の凄さから、これを絶対視するのも頷けます。

この「理性」こそが「私」そのものだと信じる気持ちは非常に根強くあります。

ですが、強力な力を持つからと言って、「理性」を「私」そのものと断ずるのは早計でしょう。

「理性」の産み出した文明は、あくまでも手段です。

その手段の活かし方次第では、文明が最悪の結果を運ぶこともあり得ます。

発達した科学技術によって、何百万人の命を奪う殺戮兵器を作り出されることもあります。
人の心を傷つける言葉がネットを通じて世界を駆けめぐることもあります。
化学による添加物が人の健康を蝕み、合理的な開発の名の下に地球の生態系が破壊されることも起きています。
「理性的判断」が、とんでもない方向へと事を運んでしまうことがどれほど起こっていることか知れません。

これらの手段の方向性を決定づけるものこそが、人間の本質と言えます。
それは、「理性」の奥底に潜む人間の「本心」であると仏教では教えます。

「私」の追求の末に

仏教では、「理性」と呼ばれる精神の領域の奥底に私たちの「本心」が潜んでいると教えます。
じゃあ、その「本心」こそが固定不変の「私」なのかというと、この「本心」はそんな固定不変のものではありません。

その本心の実態は、私たちの「業(ごう)」を全て収めて保存する「蔵」のようなものであると仏教では教えられています。

「業」とは、「自業自得」の「業」のことで、「行為」という意味です。
人間の叡智によりどれだけ文明が発達して便利な世の中になろうとも、私たち一人一人がどんな現実を生み出すかは、一人一人の行い次第で、あくまで自分の現実は自分の行いが生み出すと仏教では教えます。
これが「自業自得」、自分の行い(自業)が自分が受ける結果(自得)を生み出す、という道理です。
それで仏教では私たちの行いのことを「業種子(ごうしゅうじ)」とも言われます。
善くも悪くも、自分の現実を生み出す種ということですね。

私の造った「業」の種子は決して消えることなく、必ず私の結果を生み出す種として私の中に残り続けます。
その「業」を収めて蓄える「蔵」のようなものが、仏教で教える私の「本心」なのです。
(この「自業自得」の教えについては、「行動を貫く信念の源泉~「業」の哲学~」の記事で詳しくお話ししています。)

この肉体でどんな行為をするのか、この口でどんなことを思うのか、また心の中でどんなことを思っているのか、これら一切が私たちの「業」であり、私の現実を生み出す「業種子」となります。

ということは、この一瞬一瞬も、「業」はものすごい勢いで造られ続けており、私たちの心の蔵の中に収められ続けているということです。

それだけ激しく業は次から次へと収まり続けているということは、私の本心は常に激しく変化しているということです。
その有様はまるで滝のような状態だと説かれています。
一見、固定した布が垂れ下がっているように見える滝も、その実態は、新たな新たな水滴が次から次ぎへと落ち続けて激しく変化しながら、続いてゆく。
私たちの「本心」も、その実態は滝のように新たな新たな業が収まり続け、激しく変化しながら続いてゆくものなのです。

私たちの肉体は常に新陳代謝を繰り返して変化していますが、私たちの「本心」もまた、激しく変化し続けているもので、決して固定したものではないと教えられます。

「私」を探し求めて突き詰めても、どこにも「固定不変の私」なるものは存在しない。
まさに「諸法は無我」と教えられる通り、あらゆるものに、固定した「我」というものは無いのですね。
それは「私」についても例外ではありません。

「どうせ私なんてこんなだから…」
ついつい思いますが、そうやって固定化した「私」はただの錯覚だということです。
そんな固定化された「私」なんてものはそもそもどこにも存在しない。
自分で勝手に固定化してしまった「私」に囚われてしまっているところから脱却し、これからの自分の現実を生み出す今の一つ一つの行いにこそ目を向けるべきなのです。

色んな苦難に見舞われても、「何を為すべきか」に目を向けて、冷静に最善手を打ってゆくための出発点は、「無我」という視点に立つことです。
このことが、どんな逆境に立たされても、絶望的状況に陥っても、そこから最速で現実を動かしてゆく出発点となるのです。

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