「自分」を見るとザワつく心に振り回されないために〜「自己嫌悪」と「罪悪観」〜

肝心なときにザワつく感情の波

自己嫌悪に陥りがち」
自信過剰になりがち」
ざっくり2つのタイプに分けるとしてら、あなたはどちらのタイプでしょうか?

自分の感情を見つめてみると、私は自己嫌悪にも自信過剰にも、どちらにも振れることがあるなと思っています。
子供の頃から、その振れ幅は相当大きい方だと思います。
「謙虚」の文化が根強い日本ということもあってか、表面上は「自己嫌悪」を出すことが多かったように思います。
しかしその反対の「自信過剰」に振れているときも相当あるように思います。

他人を評価するときは、わりと冷静に、客観的に評価をすることができても
その対象が「自分」となると、途端に感情の波が強くなります。
そして「自己嫌悪」か「自信過剰」の極端な見方になりがちなのですね。
よく「人は自分に最も興味がある」と言われますが、話題が「自分のこと」となれば途端に心のギアが入ってしまいます。

友達数人で会話をしていて、ニュースの話題やスポーツの話題や友達の話題など、話題が転々としているうちに、「自分のこと」が話題になり始めると、どうでしょうか。
ニュースの話題の時と同じような気持ちで会話に入ることができるでしょうか。
そんな、冷静な気持ちではいられなくなるはずです。

みんなで集合写真を撮って、その写真を渡された時に、まず「誰」を探すでしょうか。
言うまでもなく「自分」ですね。
その次に、「好きな人」という具合でしょうか。

「自分」に対してが一番、関心が高くなる。これは人として自然なことと言えます。
とにかく何よりも「気になって」しまうのですね。
そんな「自分」を見るとき、どうしても感情が入ってしまいます。
「自分」を観察の対象にした途端にどうにも制御できない心のギアが入り、観察を大きく狂わせてしまいます。

「自分の話をするときは気をつけた方がいい」
と言われます。
「初デートであまり「自分」を話題に語ると、印象が悪くなるリスクが高い」
なんていう恋愛の教訓を聞くことがありますけど、これはかなり頷けます。
どんなに気をつけて語っても、言葉の端々に「自慢っぽさ」「自虐っぽさ」がにじみ出てしまいがちなのですね。
必要以上の感情がどうしても「自分」を対象とした途端に入ってしまう。

私もこれまで、「自慢っぽさ」「自虐っぽさ」がプンプン漂う会話をどれだけしてきたことか…
思い出すとけっこう、痛々しく思えてしまいます。
もし、そんな自分の現場の映像が残っていて見せられたら、痛々しすぎて正気を失うかもしれません。

こういうのをゼロには出来ないまでも、どれほど少なくできるかということは、私達にとって重要な課題と言えましょう。
自己を冷静に見つめるための確固たる視点を如何にして持つか。
そのために、仏教の人間観を知ることが、間違いなく大きな力となります。

「人間都合」の枠を外した時、「人間観」は一変する

仏教で説かれる人間観は、いつでもどこでも変わらない普遍的な人間の姿です。
そして大事なことは、その評価基準が「人間の都合」ではないということです。

私達がふだん「自分」をみる時には、常に「家族の中での自分」や「職場での自分」や「友達の間での自分」というように、様々なコミュニティーでの役割を持つ「自分」を見ています。
人間社会の一切から隔絶した「自分」など、考えようがありません。

「あるコミュニティーにおける自分」を見る以上、必ずそこには、そのコミュニティーの都合で評価することになります。
「職場」はとても分かりやすいですね。
「その会社での仕事」という共通した目的が、その構成員にはありますから、「その仕事に如何に貢献するか」が重要な評価基準になります。
また、長い時間、同じオフィスの空間で一緒に過ごすのですから、「居心地のいい空気を作ってくれるか」ということも求められているかもしれません。

「仕事に貢献できるかどうか」
「いい空気を作ってくれるか」
どちらも、そこにいる人間たちの都合です。

家族であれ、友達同士であれ、人が集まってコミュニティーを作る以上、そこにはそのコミュニティーの都合というものが存在します。
私達は常に、その場その場の人間の作った都合に照らして「自分」を評価しています。
その「人間都合」という枠を取っ払って「自分」をみるということは、普段の生活ではそうそうありません。

だけど、たまにちょっと違った視点から「自分」を「人間」を見つめてみることも、あるかもしれません。

たとえば、
「この地球環境全体から見た「人間」とは「私」とは、どんな存在なのだろう?」
そういうことを考えたり、また問題提起されること、たまにありますよね。

「地球環境全体における私」となると、普段の感覚としている「あるコミュニティーにおける私」とは全く違った見方となります。
なぜなら「地球環境全体」には、「人間」以外の存在が圧倒的割合を占めますから「人間都合」が相対化してしまいます。

「ほぼ100%人間都合の視点」だったのが、「人間都合が相対化した視点」へとシフトした時、全く違う「人間」の像が浮かび上がってきます。
それは、
大量の生物を殺戮し、
地球の生態系そのものを破壊し続け、
絶滅へ追いやった種は数知れず、
地球資源も搾取し続けて、
地球そのものを爆破させかねないリスクを生み出し続けている
地球史上例を見ない、凶悪かつ危険な生物…と言ったところでしょうか。

残酷な人に対して
「このケダモノ!」
と言い放つことがありますが、先程のような人間の姿を考えれば、この言い草は「ケダモノ」に失礼と言わざるを得ないわけですね。

確かに、虎や狼のような肉食動物は鋭い牙や爪を持ち、多くの生き物の命を奪って食する獰猛な存在です。
しかし彼らも、自分の腹を満たす以上の殺生はしないでしょう。
まして、生態系を破壊したり、何種類もの生物を絶滅に追いやったりなんてこともしません。
「命を奪う」という規模においては、人間のそれと比べればほんの微々たるものです。

しかも「人間」の場合は、ただ腹を満たすだけでは気が済みません。
もっと新鮮なものを、もっと美味しいものを、もっと珍しいものを、そして、それを好きな時に好きなだけ…
どこどこまでも「欲」を追求し、その結果、「ただ腹を満たす為」の何十倍もの命を奪う結果をなっています。
「ケダモノ」たちが可愛らしく思えるくらいに「人間」は大量殺戮を涼しい顔でやってのける危険生物ということになります。

このように視点を変えると、「人間」という存在の欲深さと、自己中心性が露わになってきます。
より「人間」の本質的な姿が浮き彫りになって来るのですね。

「自らの欲の為に、他を奪い尽くす存在」
このような姿を仏教では「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と言います。
「煩悩」は、人間の本質的な心を表す仏教の言葉ですが、その「煩悩」の代表的なものが「欲望」です。

そしてこの「欲望」の本質は、「己のために他からどれだけでも奪い尽くす」という性質です。
この性質を仏教では「我利我利(がりがり)」と言います。
「私の利益、私の利益…」と、己を満たすことしか考えない。その為に平気で他から奪い続ける。
そういう欲望の本性のことを「我利我利」と言われます。

地球規模全体からみた人間の先程のような姿を現して余す所のない言葉が「我利我利」ですね。
しかもこれは、他の生き物に対してだけではありません。
人間同士の世界でも、「自分のコミュニティーの中で私は何を考えているか」を突き詰めていけば、
心の奥底に「我利我利」の本性が渦巻いていることに気がつくはずです。

「自己嫌悪」と「普遍的な人間観」は大違い

仏教ではこのように、恐ろしく悪らつな性質を人間の本性として露わに説いています。
「人間都合、自分都合」で自分を見ている間は毛頭気が付かない普遍的な人間の姿を鮮明に説かれています。
そのような人間普遍の「罪悪」を、ごまかさずに見つめることを「罪悪観」と言います。

そんな自分の姿をごまかさずに見つめてゆくと、どうなるでしょうか。

「いや…それはもうとてつもなく自己嫌悪に陥るのではないか」
もしかしたらそう思われるかもしれません。

「人間の罪深い姿」というのは分かるんだけど、あまりそういう面を見すぎると、自分に対して否定的になるのではないか、自分が嫌いになってしまうのではないか。
そんな意見もあるかもしれません。

実はこれは、「罪悪観」に対する誤解です。
「罪悪観」というものは決して、「自分が嫌いになる」というような感情的なものではありません。

仏教が教える「煩悩具足」「我利我利」という人間の姿は、私達が感情的に好こうが嫌おうが、関係なく普遍的にあり続けている人間の姿です。
昔の人間も、今の人間も、日本でもアメリカでもインドでもフランスでも、また、どんなコミュニティーにいようとも、そのコミュニティーでどんなポジションにいようとも…
そんなこととは関係なく、もれなく皆、「煩悩具足」という姿をしており「我利我利」という本性を持っている、というのが仏教で説かれる人間の姿です。

そんな時空を超えて変わらない人間の姿をごまかさずに見つめることが「罪悪観」です。
それは自分の中に普遍的な人間の姿を知り、普遍的な「人間観」を持つということにつながってゆくことなのです。

感情的なものとは全く違います。
感情は、浮き沈みがあります。
自分に対して感情的になっているということは、相対的に自信過剰になったり、自己嫌悪になったり、グラグラして落ち着かない、不安定な精神状態を引き起こします。

罪悪観はそのような感情的な、浮き沈みの伴う不安定な心ではありません。
それどころか全く逆です。
いつでも、どこでも変わらない、普遍的な人間の姿をごまかさずに観つめるということです。

私達は生活している中で、縁に触れ折に触れ、自分の中に様々な気持ちが渦巻いてそれに翻弄されてしまいますが、その一つ一つに対して、
「これが、煩悩具足と言われる人間の姿なのか…」
と、その普遍の真理に照らして自己を観ることができるのです。
実は、これ以上に冷静な自己の見つめ方はないのですね。

無駄にギアを入れることなく、よりニュートラルに自己を見る。
「罪悪観」はそのための最良の見方となることでしょう。