行動を貫く信念の源泉~「業(ごう)」の哲学~②

「業(ごう)」の哲学がもたらすもの

「業(ごう)」の哲学について前回からお話ししています。

自分の信念に従って行動のできる人に、人は魅力を感じると思います。
周りはどうであれ、自分が「すべき」と確信した行動を貫く信念。

その信念は「業(ごう)」の哲学を理解することで培われます。

かつての私は、「信念に従って行動する」というより、「学校で「○」を貰えるように努力する」という人間でした。

学校の勉強を真面目にやれば成績が上がる。
会社で真面目に働けば、それなりに評価される。

かつての私は、学校や組織のルール通りの行動にしか確信を持てなかったのです。
だから、ルールの外での自分の素の行動になかなか自信を持てなかった。

そんな私が、どうして「行動」そのものの力を確信することができたのか。

それは、「行為」に対する理解が大きく変わったからです。

「原因」と「結果」の法則

仏教では、「行い」は種子(たね)をまくようなものだと言われます。
なので、行いのことを「業種子(ごうしゅうじ)」とも言います。
行動することは、畑や田圃に種子を蒔いているようなものだということです。

ということは、蒔いた種に応じた結果が、遅かれ早かれ必ず現れるということです。

これは「因果の道理」を喩えで表しているのですね。
「因果の道理」とは、原因と結果の法則ということで、

どんな結果にも、必ず原因がある。
原因があれば、必ず結果が現れる。

という、原因と結果の関係のことです。

40度を超える異常な暑さが続いたり、突然で地震が起きたり、晴れていた空が信じられないぐらいの雷雨に一転したり、近年いろんな現象が日本で起きています。

そんなことが起きた翌日にテレビをつければ、その分野の専門家が登場して、
「これはこのような原因で…」
と、必ずその原因の解説をしています。

注目されるような出来事に対してテレビ番組がやることはまず、「その原因を明らかにする」ということです。
これをやらなかったことは無いといってもいいくらいでしょう。

「どんな結果にも、必ず原因がある。原因があれば、必ず結果が現れる。」

これがその大前提となっているのですね。
この大前提で、人はあらゆる出来事に取り組んでいるはずなのです。

だから、びっくりするような出来事を知ったならば、「どうしてそんなことが?」と原因を探る心が反射的に起きますね。

これは、
「どんな結果にも、必ず原因がある。原因があれば、必ず結果が現れる。」
この「原因」と「結果」の関係を信じているからです。

「原因があれば、必ず結果が現れる」ということは、原因があるのに、結果をもたらすことなくそれが「無」になるということは絶対に無いということです。
原因があれば、遅かれ早かれ、必ず結果をもたらすのであって、結果をもたらすことなく「無」になることは絶対にない。

この原因と結果の法則を、例外のない「真理」として理解することが、実は仏教を理解する基本の中の基本なのです。

「仏教を信じると言ったら、仏さんを信じることでしょう?」
というイメージのある人がいるかもしれませんが、一番大切な基本として語られることはこの「原因と結果の法則」です。

「原因」と「結果」の法則を「私」の上に当てはめる

そして次に、この法則を「私」の上に当てはめて説くのが仏教です。

今ここでお話しした「原因」と「結果」の法則を、「私」の上に当てはめてみてください。

実はこれが出来るかどうかが、仏教思想の哲学を理解できるかどうかの鍵となります。

というのも、なかなかこれが出来ないのです。

化学現象なら分かる。自然現象なら分かる。
そういうことなら、原因と結果の関係に則って起こっていると信じられます。
結果には必ず原因があり、原因は必ず結果を起こしていることは間違いないことだと疑わないのです。

だけど、いざ「私」の上に当てはまると、とたんに怪しくなってしまいます。

この「原因と結果の法則」を「私」の上に当てはめると、どうなるでしょう?

こうなります。

私のやった「行為」は原因となって、私に結果を引き起こすまでは「消えない」。

これを信じられるかどうかということです。
どうでしょう。信じられますか?

他のことなら原因と結果の法則に則って、自然に考えることは出来る人でも、「私の行いと私の身に起きる運命の関係」となると、「因果もクソもあるか」という気持ちになってしまうものなのです。

先ほどお話しした「原因と結果の法則を真理として理解する」ということは、自然現象、化学現象、物理現象ばかりでなく、「私の行いと運命の関係」にも当てはまるものが因果の法則だと理解する、ということなのです。

実はこれが最も難しいことです。

「私」のことを冷静に、道理に則って理解する。

このことは、人間にとって最も難しいことだと仏教は指摘しています。
そこにどうしても感情が入って、合理的に考えることが非常に難しい。
だからこそ、このことを最も重視して重点的に説くのです。

あらゆる分野についての「因果」が、色々な学問で語られています。
ところが仏教が語るのは、「私の行為と運命」ということについての因果です。
ここを仏教が語らなければ、誰が語る、と言わんばかりです。

「行為が消えない」とはどういうことか?

「私」の上に因果の道理を当てはめたならば、私の「行為」は「因」となって、「結果」を生み出すまでは消えないのです。
これを「業不滅」と仏教では言われます。

「一度やった行いが消えない」ってどういうことなのか?
と疑問に思われるでしょう。

このあたりを、さっきの「種子」というたとえはよく表しています。

植物の「種子」は、結果を生み出す目に見えない力をその中に宿しています。
あんな小さな種から、芽が出て茎が伸びて、草になったり木になったりして、葉を茂らせたり花を咲かせたり実をならせたりします。
これは「種子」だからこそですよね。
石でも金属でも他の何でも、こんなことは起こりません。
それは、他のどんな材質の物にもない力をその種子が宿しているからに他なりません。

世界で最も背の高い木って何か知っていますか?
セコイヤという種類の木で、その高さは115mもあるそうです。
「ハイペリオン」と名付けられている世界で最も高い木です。

115mって、すごいですよね。
人工的に作られた建物ならザラにありますけど、自然に成長した木だけでそこまでになるとは驚きです。
それだけの木ならば、その種子もボーリングの玉ぐらいはあったのではないか?
そんな訳はありませんよね。1センチにも満たない、指でつまる粒のようなものです。
それが、115mもの巨木になるのです。
種子が宿している、物理的な質量とは無関係に存在する目に見えない「力」の凄さを思い知らされます。

ちょうど種子の中に木や葉や花を生み出す「力」が宿っているように、私たちの行いは、目に見えない力となって私の中にいつまでの残っていると言われます。
これを「業力」と言います。
これが結果を表す「因」となりますので「業因」とも言われます。

「業因」が「縁」に触れたとき、目に見える「結果」が現れる

そして、種子に土や水や日光や温度などの条件が整うと、芽を出し目に見える姿を表すように、私の中の業因に、何らかの縁が加わったときに、目に見える私の運命となって現れるのです。

ということは、私たちの行いが目に見える運命となって現れるのは、「」に触れた時なのです。
その「縁」とは、人だったり物だったり環境だったり、私たちの身の周りのあらゆるものが縁です。

誰かの言葉を聞いたとき。
何かの光景を見たとき。
特別な空気に触れたとき。

私に思いもよらない感情が沸いてくることがあります。
嬉しくなったり、悲しくなったり、悔しくなったり。
しかも同じ状況の人が他にいても、私だけに不思議と思いもよらない感情が沸いてくる。
そんなことがありますよね。

どうしてそんなことが起こるのでしょうか?

その原因は、私の中にあるのです。
周りの人たちにはない、私の中にあるその原因こそ、私の「業因」です。
かつてやった行いが業力として私の中に残っていて、その縁によって結果を表したということなのです。

これが「自業自得」のしくみです。
「自分の行いが、自分に返ってくる」という「自業自得」は、この因果の道理を教えたものなのです。

結果には必ず原因がある。
原因があれば、必ず結果をもたらす。

この因果の道理を私の上にあてはめて導き出される、私の行為と私の運命との関係が、自業自得なのです。

私の行為は「種子」であり、結果を引き起こすまで絶対に消えない。
それは、学校のルールの中の行いであろうと、会社の仕事中の行いであろうと、帰り道の電車の中であろうと、家に帰ってからであろうと、関係ない。
いつでも、どこにいようとも、私の行いは「業因」となって、全て私の中に残る。
それは縁が来たときに、私の結果となって必ず現れる。

この自業自得の道理を理解したとき、自分の中での「行動」の重みが全く違ったものとなります。

「業不滅」
この、自分の行動の重みを理解することが、周りがどうあろうとも自分の行動を貫ける信念の源となるのです。

次回、もう少し詳しく「業」についてお話ししたいと思います。

▶続きはこちら

「行為は保存される」という業(ごう)の哲学 「業(ごう)」の哲学について、ここまで2回にわたってお話ししてきました。 「行動が大事」...

ブログのカテゴリ分けを一新したことに伴い、従来のカテゴリ分けを廃止してしまいました。 なので、従来のカテゴリ分けを参照いただく...