意識高く、派手に生きる道
「意識高い系」という言葉がありますね。
決して褒め言葉ではないみたいですけど、色々な含みのある言葉です。
「大言壮語ばかりで中身が伴っていない」
などという含みもあるみたいですが、「意識が高い」ことは間違いないですよね。
人格的にも、能力的にも、そして経済的な面でも、より高みを高みを目指す。
そういう事に価値を感じているという事です。
そして、そうなれるためのマインドやノウハウに高い関心を持って、学んでいる。
あとは「実行さえできれば…」というところで、そこまでには至れずに、残念系の意味合いになっているでしょう。
意識が高く、かつその意識の通りの「実践」も出来ている人が本物の成功者ということですね。
そういう成功者のマインドやノウハウを勉強していて、影響も受けていて、
意識「だけ」が高いけれど、そのための実行が伴っていない時に「意識高い系(笑)だね」などと言われるのでしょう。
この「意識」というのは私達の「心」の問題ですが、
仏教では私達の心は「煩悩」だと説かれますので、意識が高かろうが低かろうが、それは煩悩の「表れ方」の違いという事になります。
煩悩の代表格をなす「欲望」は、大別すると5つに分けられて「五欲」と言われます。
食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲
この5つですが、「意識が高い」というのは、この中ではどれが強いことになるのかな…と考えてみると、
まずは名誉欲でしょうね。文字通り他人から認められたい、大事にされたい、褒められたいという欲です。
「より高みへ」というのは、「人間関係」の存在が前提にあるはずです。
他人から認められ、精神的に満たされた人生を送ってゆきたい。
抜きん出て、慕われて、尊敬される、そんな道を目指すのですから、「名誉」を求める欲が満たされてゆく道に違いありません。
同時に、高い収入を誇り、豊かな生活を実現させてゆくことも重要な要素なので、「財」を求める欲が満たされる道でもあります。
名誉欲と財欲(利益欲)を、あわせて「名利」と言われます。
「意識」を高くして生きる道は、名利が満たされてゆく道ですね。
だけど同時に人間には「睡眠欲」があります。
出来るだけ寝て暮らしたい。あまり面倒なことはしたくない。楽に生きていたい。
そんな心が睡眠欲です。
たとえ「名利」を求める心があっても、睡眠欲がその行動にブレーキをかけてしまいますので、本当に満たしている人はごく限られているのでしょう。
名利の心は強く、成功者を目指したいとは思っている、
そして成功者の書いた本を読んだりセミナーに出たりすることぐらいはする、
「知識」としては色々なことを勉強して身につけている。
だけどいざ「実行」となると、睡眠欲に阻まれてしまい、結局「口だけ」となってしまう。
こんなケースが多くなるのは、五欲に生きる人間という理解からは、自然なことと言えるかもしれません。
自分のペースで慎ましく生きる道
「スローライフ」という言葉もあります。
社会の競争にとらわれずに、慎ましく自分のペースで生きてゆくという生き方を「スローライフ」と呼ぶそうです。
これは名利の心のままに高みを目指してゆく「意識高い系」とは対極をなす考え方とも言えそうです。
煩悩の「五欲」に当てはめると「睡眠欲」が強く出ているような感じがしますね。
名誉にしても利益にしても、それにこだわって求め始めると、本当にキリがありません。
そして何より疲れますよね。
「人間関係」の中で高みを目指すともなれば、他人の名利ともぶつかることになります。
勉強して、働いて、稼いで、他人からの尊敬を集めることも出来るでしょうけど、同時に敵をつくることだってあります。
「尊敬される」ということは、他人の注目を自分の方に集めるわけで、相対的には他の人の注目度は自ずと下がります。
そんな存在を苦々しく思う人が出てくるのも当然で、まさに「出る杭は打たれる」です。
仏教では人間社会を「煩悩の林」などと呼ばれまして、
人間一人一人に五欲が渦巻き、そんな人間が密集して、欲がぶつかり合い、時には競争し、時には攻撃し、疲弊しながら生きてゆく様は、まさに煩悩の林です。
ただでさえ、そんな周囲の煩悩の中で神経をすり減らさねばならないのに、そこで高みを目指すなど、狂気の沙汰とも思う人もいるでしょう。
だけども「名利の心」は、そんな煩悩の渦中に飛び込んで、自分の実力を示さずにいられないのですね。
そんな名利の心と、「そんな無理して疲れることをしなくても…」という睡眠欲とで、綱引きのような状態になっていますが、睡眠欲が勝ればスローライフ寄りとなってゆきますね。
楽に、自分のペースで、ゆったり、のんびりと…
だけど、その心地よさを本当に保ち続けることは、「煩悩の林」では、かなり難しいかもしれません。
まず、周囲が名利を求める方向へと煽ってきますよね。
会社に勤めていれば、結果を求められますし、自ずと競争に加担せざるを得なくなります。
競争社会の中で名利の道に巻き込まれないように保つことは、激しい川の流れの中を一人逆らうようなもので、よほどの意思がないと難しいでしょう。
また、自分の中の名利を求める心が、どうしてもそんなゆったりした生活に「物足りなさ」を感じ、刺激を欲してしまいます。
他人との関わりの中で、好きだ、嫌いだ、勝った、負けた、という感情に煩わされる生活は、煩わしい一方で魅力的な刺激でもあるのですね。
どれだけ、煩って悩んで嫌気がさしても、それらがなければないで、今度は物足りなさを感じるのだから煩悩は厄介なものです。
気づけばまた、名利の泥沼に足を踏み入れてしまっていたりするのですね。
「煩悩」はごまかし得ないなら…
どんな生き方を選ぶのかは自由ですが、ただ一つ、誰もが免れられないのは、
「煩悩に動かされて生きる」という真実です。
意識を高くして生きるのも煩悩なら、
スローライフを満喫しようとするのも煩悩で、
煩わしさ、悩ましさ、疲弊、そして物足りなさ…
これらが伴わない生活などは、あり得ないということです。
それは自分もそうだし、他人も同じです。
自分と違う生き方の人をみると、まるで煩悩の苦しみから離れているように思いますが、
それは煩悩の表れ方が違うだけで、その人なりの煩悩で煩っているのが実態です。
病気にかかっている人は、それぞれが、
「自分の病ほど辛いものはない」
と思うそうです。
頭痛で悩んでいる人は、
「頭痛ほど辛いものはない」
と思いますし
花粉症で悩んでいる人は、
「こんなくしゃみ、鼻水、目のかゆみ…四六時中それに苛まれる苦痛に勝るものはない」
と思いますし
腰痛で悩んでいる人は、
「体の中枢をなすこの腰が痛みで動けない状況ほど苦しいものはない」
と感じています。
そういうものが病気なので、結局のところ甲乙つけられるものでもなく、「みんな辛い」と言う他ありません。
人間は「煩悩」という病気でそれぞれ煩っているようなものです。
そして、自分の「煩い」ほど辛いものはないと感じずにいられないほど「煩悩」は私を煩わせます。
だけど本当は、何も特別なことではないのですね。
誰もがそんな煩悩で煩っているのが実態です。
煩い悩みが尽きないのが「生きる」こと。
そんな煩悩の林の中で、何を求め、何を為すのかを模索しながら生きる他ありません。
どんな煩いの中でも、出来ることがある。
そしてその行動は、必ず自分の未来を生み出してゆく。
それが仏教で説かれる「因果応報」の道理です。
煩いの中でこそ、「因果応報」の道理に即して、自分の最善を尽くしてゆきたいものです。