「目に見えない原因」に「名前」をつけたとき…
学校で科学の分野の勉強をしていた時に
「エネルギー」
という概念が出てきたのを覚えているでしょうか?
この「エネルギー」と呼ばれるものは、
固体でもない、液体でもない、気体でもない。
「物質」とは異なるものですね。
「水蒸気」は、水が蒸発して「気体」となったものですから、目には見えなくても「物質」であり、質量もあるものです。
ところが「エネルギー」は、同じ「目に見えない」と言っても、「水蒸気」のような「気体」となった物質ですらない。
だから質量もない。
だけど紛れもなく「存在するもの」として、学問対象となっております。
私達が身近に利用している分かりやすいのは「電気エネルギー」ですね。
手元のスマートフォンのバッテリーの中に蓄えられている電気エネルギーで、
画像を表示させたり、音を出させたり、動画を再生させたり、実に様々な働きをしてくれています。
こんなに小さな端末機からこれだけの機能が生み出されるのも、人間が「エネルギー」を解明して、それを利用する技術を発達させたからこそです。
人間が、目に見える「物質」にばかり固執していたら、
人間の肉体労働の力や、川の水流による水車の力などで、
モノを動かしたり、何かを作ったり、何かの演出をしたり…
ごく限られた営みを、かなり大掛かりな準備で行う他なかったでしょう。
人間は、五感で確認できる物質以外に、「エネルギー」と呼ぶべき存在に目を向けることができた。
どうやら、物質以外にも、人間の生活に影響を及ぼしている目に見えない存在があるらしい、と。
そしてその存在を否定すること無く、とことん向き合って、その解明に尽力して、ついに「実用化」にまで至ったわけですね。
これって、凄いことですよね。
「物質」という存在以外に、認識できる対象がなかった頃からすれば、
「エネルギー」なんて、今で言えば「魔法」みたいなものかもしれません。
オカルトチックな、得体の知れないものと敬遠する人も多かったことでしょう。
だけど、
「五感で感じられるモノばかりが全てではない」
こう思うことが出来たからこそ、根気強く、そんな得体の知れないモノに向き合い続けて、ついにその解明と実用化に成功したわけです。
「こればっかりは運…」にもまた「原因」がある
「エネルギー」は、様々な現象を引き起こす「目に見えない原因」となっていますね。
あらゆる現象に、目に見えない「原因」が存在することは、色々な分野の学問研究によって明らかにされています。
自然現象も、物理現象も、科学現象も、生物の活動も、それぞれに目に見えないエネルギーがあって、それが原因となり、
地震、噴火、交通事故、発火、作物の実り、などなどの種々の現象を引き起こしています。
昔は、そのような様々な「エネルギー」の存在など誰も知れませんでしたから、表面上に引き起こる「結果」ばかりしか知らず、その「原因」は謎でした。
それが、目に見えない「エネルギー」という概念を発見したことで、こんなにも詳しく解明され、対策が立てられ、それを生活に活かすことすらなされます。
そんな中にあって、未だ「謎」とされている「原因」はまだまだありますが、その際立ったものが、
私達一人一人に引き起こる「幸」「不幸」といった結果の「原因」です。
私達が一番、「どうして?」と原因を問わずにいられなくなるのは、私達自身の結果に対してです。
他のことだったら、「そんなもの、何の興味もない」という人も大勢いますよね。
だけど、自分自身に引き起こる「幸」「不幸」などの「結果」に対しては、誰もが無関心ではいられません。
何よりも切実な思いで、「どうして?」と心から問うのが、このことに対する「原因」です。
ところが、最も切実なこの問いに対してだけは、科学でも医学でも他のどの学問でも、解明されてはいません。
どうしてこんな交通事故に、「私が」遭わなければならなかったのか…
どうしてこんな自然災害に、「私が」遭わなければならなかったのか…
どうしてこんな上司の元に、「私が」所属しなければならなかったのか…
どうしてこんなトラブルが起きる現場に「私が」居合わせなければならなかったのか…
他の誰でもなく「私自身」にどうしてこんな結果が引き起こってしまったのか?
「運」が悪かったのかなあ…などと言ってはみても、それはこの問いの答えになっていないのは言うまでもありません。
私に訪れた「運命」の原因は何だったのか。
その結果に対する目に見えない「原因」も、必ず存在するはずです。
「結果」には必ず「原因」があるということ。
その「原因」は、必ずしも五感で感知できるものばかりでないこと。
これは、人間が様々な学問を発展させてゆく中で確認してきたことです。
私達一人一人の身に起きる「幸」「不幸」の「運命」の原因は何か。
人間にとって最大のテーマとも言えるでしょう。
その答えを明確に示しているのが仏教であり、「業(ごう)」という教えです。
「行い」は消えない
「業(ごう)」とは、仏教で「行い」のことを表す言葉です。
「行い」は、目に見えるものでしょうか?或いは、耳で聞こえるものでしょうか?
少なくとも現在進行形で「行っている」間は、目に見えたり耳で聞こえたりするものですよね。
他人と喧嘩しているとか、
立ち小便をしているとか、
居眠りをしているとか、
暴言を吐いているとか、
様々な行いがありますが、それが「為されている」間は、五感で確認することができます。
だけど、その「行い」が終わってしまうとどうでしょうか。
喧嘩を終えて、お互い別れたなら…
立ち小便をし終わって、スタスタと立ち去って行ったなら…
居眠りから目を覚まして、何食わぬ顔で過ごし始めたなら…
暴言を言うだけ言って、気が済んで黙ったなら…
そんな風に、「やり終えて」しまえば、もうその「行い」は五感で感知しようがありません。
動画に収めたり録音していれば確認できるかもしれませんが、それはただの「記録」であり、
「行い」自体はもう、どこにも見えない、聞こえないですよね。
このように「行い」とは、一時的に五感で感じられる状態で「表れて」
それがやり終えた途端に、もう目にも見えない、耳にも聞こえない、となってしまうものです。
じゃあその瞬間に、「行為」は消滅したのでしょうか?
これが実は、そうではないのだと仏教では説きます。
「いやいや、『行い』を『やり終えた』ならばもう、『行い』そのものは消えているだろう?」
そう思うかもしれません。
しかし、「有る」ものが「無」になることは絶対にありえないというのが科学の鉄則ですよね。
水が蒸発して水蒸気となり「目に見えなくなる」ことはあってでも「無」にはなりません。
状態が「変化」するだけです。
「行為」は、為されている間は「目に見える」状態として存在していますが、
やり終えた後に「消滅する」のではありません。
「目に見えない」状態に変化するだけで、決して消えることなく残り続けています。
この目に見えない状態となった「行為」を「業力(ごうりき)」とも言われます。
目に見えない「力」となって、私の奥底深くに残っているのですね。
そして、実にこの「業力」こそが、私の「幸」「不幸」を引き起こす原因となっているのです。
先程お話していました、
私の「運命」を引き起こしている、「見えない原因」って何なのだろうか?
この問いの答えがまさにこの「業力」です。
私達は日々、どんな「行い」をしているでしょうか。
よく覚えているものもあれば、すっかり忘れているものもあるでしょう。
なにせ、やり終わったらもう五感では感知できませんから。
かろうじて「記憶」に留めることができるぐらいです。
しかしその全てを記憶するなど不可能です。
だけどその「行為」は全て、「消滅」などしていないのですね。
私の心の奥底に「業力」となって、全て残っている。
私の「運命」を引き起こす、見えない「原因」として残っています。
それが、私の「運命」を次々と引き起こしている。
これが「運命」のしくみなのですね。
これをシンプルに行ったのが「自業自得(じごうじとく)」という言葉です。
世に「目に見えない」原因は様々あります。
それを「知る」ことで、人間はとてつもなく可能性を広げてきました。
「知っている」ことは、大きな武器と言えます。
「業力」という「目に見えない原因」を知っている。
これは、最も大切な原因を知るという、この上ない武器となるでしょう。