「自分を客観視しなさい」を本気で実現する方法~「業(行い)」の見えないロジック~

絶妙の「キラーパス」を出せる条件

「感情に流されていると、見落としてはいけないものを見落としてしまう」
これは、確かですね。

私は高校の頃、サッカー部だったんですけど、監督が試合前によく言っていた言葉を今もよく覚えています。
「心は熱く。だけど頭はクールに。」

「感情」は大事なものに違いありません。
私たちの行動を動かすものはやっぱり「感情」ですから、いわばエネルギー源です。
サッカーの試合なら。
「勝ちたい。負けたくない。最高のプレーをしたい。」
これは感情に他なりません。
そして、これがなかったら、いいプレーどころか、そもそもサッカーをやってすらいないでしょう。
この感情を燃やし続けるからこそ、
キツいトレーニングも続けることができるし、
叱られても、負けてヘコんでも、立ち上がれるし、
いいパフォーマンスを追求し続けることができます。

「熱い感情」を燃やし続けることは、
継続するためにも、ベストを尽くすためにも、不可欠のことでしょう。

だけど同時に、「冷めた頭」「冷めた目」を持つことも欠かせないことなのですね。
完全に、熱い感情「のみ」に支配されてプレーしていたら、
周りも何も見えなくなり、ともすれば独りよがりなプレー、視野の狭いプレーばかりとなってしまいます。

冷静な目でもって、チームメイトの動きやコンディションにも気を配り、
敵の動きや作戦にも目を配り、それらを総合的に判断して、どこにボールを出すのがベストかをとっさに判断する。
それが出来るからこそ、絶妙に「急所」を突く攻撃が出来るのですね。
「キラーパス」なんて、「熱い思い」だけで出来る代物ではありません。

熱い感情を燃やしながらも、どこかで冷静な「目」を持っている。
この、一見相反する事を両立させることが、スポーツでも、仕事でも、人間関係でも、
成功させるために必要なことと言えるでしょう。

だから、
「熱い感情を燃やしても、それに流されてはいけない」
と言われるのですね。
それは、「大切な事を見落とさないため」に他なりません。

「行い」の見えないロジックを解明すれば…

「見落としてはならない」大切な事は色々ありますが、最も見失ってはならないものは、「自分自身」であり、
「自分自身の行い」なのですね。

仏教では、私たちの行いのことを「業(ごう)」といいます。
そして、私たちの「業」は、必ず私自身の運命を生み出す「種」になると教えられます。

「自分の行い」に対する捉え方って、本当に個人差が大きいですね。

「自分のした行いには、必ずその行いに応じた報いがやって来る。」
というように、「因果応報」を真理として深く信じている人もいます。
そんな人は、「行い」自分に報いをもたらす強い「力」を持つものとして捉えているでしょう。

だけど、そんな「因果応報」なんてただの教訓にすぎない、と考える人もいます。
「行い」をしたからといって、「その行いに応じた報いが必ず自分に現れる」なんて法則が存在するわけじゃない。
まして「行い」に、報いをもたらす「力」なんてあるはずがない。
そんな非科学的な事は信じられない、という人もいるでしょう。

「万有引力」は、信じられる。
「磁力」という力があることも、信じられる。
科学の分野で解明されている、目に見えない「力」は信じられる。

だけど、「行い」の、自分に報いをもたらす「力」なんてものは、科学で証明されているものではないですよね。
だから、そういうものは信じないというのも、分かります。

仏教で教えられる「因果応報」は、科学分野の領域外の事を「真理」として教えられたものです。
「業(行為)」には、自分の報い(運命)を生み出す「力」があり、これを「業力(ごうりき)」と教えられていますが、
「業力」という概念は、科学分野で扱われているものでもなければ、まして科学的証明があるわけでもありません。
あくまで仏教で教えられる「真理」です。

そして仏教では、この「業力」のしくみについて、詳しく説明されています。
科学が「万有引力」や「磁力」のような目に見えない力を詳細に解説しているように、
仏教は「業力」という目に見えない力について、そのしくみを詳細に解説されているのですね。
「目に見えない真理を、筋道立てて分かるように解説する」
という点では、科学も仏教も同じです。
ただ、扱っている内容が違うだけなのですね。

だから、仏教を学べば学ぶだけ、
ちょうど科学を勉強して、目に見えない色々な真理を理解していくように、
「業力」という目に見えない力についての理解がどんどん深まっていきます。
そうすると、自分の「行い」に対する捉え方に変化が起きてくるのですね。

「業力」を理解していなかった時は、
自分の「行い」なんて、やったらそれで終わり。
誰も見ていなければ誰の記憶にも残らないし、物理的痕跡を残さなければ物質的にも証拠は残らないし、自分が忘れてしまえば自分の記憶にさえも残らない。
そうなれば、「行い」なんて、しなかったも同然。

そんな程度に思っていたかもしれません。

だけど、「業力」の存在について理解を深めれば深めるだけ、
自分のした「行い」の重みが変わっていきます。
他人が見ていようと見ていまいと、物理的痕跡が残ろうと残るまいと、たとえ自分自身が覚えていようと覚えていまいと、関係がない。
「行い」をしたら、それは「業力」となって自分の中にずっと残る。
それは決して消えることはない。
「行い」の重みが、まるで変わってきます。

自分のしている「行い」一つ一つをそんな風に捉えるようになれば、どうなるでしょう?

最も見失ってはならないのは、「自分自身の行い」ということが、ハッキリ分かるのですね。

本物の「自分を客観視する視点」を育む方法

「自分の行動を第三者的に客観的にみる目を持つことが大切」
よく言われることですね。
全くその通りだと思います。

「自分の行い」にこそ注目し、「自分の行い」を徹底的に洗練させてゆく。
本当はこれが、最も大切なことです。
「いやいや、そんなことより家族が大切だ、友達が大切だ。」
という人もいるかもしれませんが、
「大事な人を大切にする」というのは、いわば「自分の行い」の積み重ねに他なりません。

どんな態度で接するのか
どんな言葉をかけるのか
どんな目でその人を見つめているのか
どんな感情をその人に向けているのか

これが全て、「自分の行い」なのですね。
その「行い」そのものに注目して、より洗練させていくことが、「他人を大切にする」の実態です。
そのためにも、「自分の行い」を冷静な目で観察する事は、不可欠です。

だけど「自分を客観的に観る」というのは、口で言うほど簡単ではありません。

私たちの目は外向きについているので、周囲のことには目が向きますが、自分自身に向けることは物理的に不可能です。
そのように、私たちの心の「目」もまた、やはり外へ向いています。
だから、自分の身の周りに対しては色々と気が付き、よく観察できますが、
「自分自身の行い」となると、必然的に見落としまくりになってしまいます。

そんな、「自分の行い」を見落としまくっている私たちの目を、自己に向けるための教えが、まさに仏教なのですね。
そのために仏教では「因果応報」の真理を説き、「業力」を説くのです。
そうして「因果応報」について、「業力」について、理解すればするだけ、
「自分の行い」の重みが深く知らされます。
「見落としてはいけないのが自分の行い」という事が、深いレベルで理解できます。

そうやって養われるものが、
「自分を客観的に観る視点」
なのですね。

着実に築いたその視点は、どんな偉大な哲学者の「言葉」よりも、自分の人生を好転させる力強い土台となるでしょう。