思考を「現在」に帰結させるクセをつけよう
嬉しいことがあると、そのことを何度も思い出しては、喜びに浸りたくなりますね。
もしかしたら、その時の顔はニヤついているかもしれない。
ちょっと幸せな気分に浸ることが出来るのだから、それは仕方ないですよね。
逆に、嫌なことがあったり大きな失敗をしてしまった時も、
そのことを何度も思い出しては、後悔の念に暮れてしまいます。
今度は反対に、苦々しい表情で、うつむいてしまっているかもしれません。
ショックが大きいと、どうしても思いを引きずってしまいますので、これまた止めがたい習性なのかもしれません。
「私の過去」というのは、私にとってはもちろん大切なものです。
なにせ、その過去の私の連続が、今の私を構成しているのですから、
これまでの過去と切り離して、現在の私は成立し得ません。
だけど同時に、過ぎ去ってしまえばもう決して戻れないし、変えることもできないのが「過去」です。
過去にどれだけ思いを馳せてもその時には戻れないし、
過去をどれだけ悔いてもその過去は変えられません。
小学校時代、中学校時代、高校時代、大学時代…
それぞれに、スポーツをしたり勉強をしたり友達と遊んだり恋愛をしたり、
そうして一生懸命生きてきた「私」がいました。
もっと言えば、去年の私、令和に変わる直前までの平成の私、先月の私、昨日の私も、
その時、その時でいろんな人と関わったり、いろんな経験をしたり、いろんな感情を起こしたりして生きてきました。
けれどもう、それら過去のすべての「私」はもう過ぎ去った夢のようなもので、
それらの積み重ねによって構成された、「現在の私」があるのみです。
「過去」は、すべて過ぎ去ってしまい、すべて「現在」に収まっている。
そしてあくまで「私」は、「現在」を生きている。
この事実に抗うことはできません。
だから、私たちが「過去」に思いを馳せるときも、
「ああ、あの時は楽しかったな、幸せだったな…」
だけで終わってしまったり、
「ああ、ほんとうにバカな事をしたな、あの時は辛かった…」
だけで終わってしまったりしては、ただの「空想」で終わるようなものです。
それらの過去があっての「現在の私」
ならば、思考は常に「現在」に帰結させてこそ、意味のある思考になると言えるでしょう。
過去、楽しかった日々が確かにあった。
それらの経験を積み重ねた現在の「私」がいるのですね。
じゃあ「今」、私はどう生きていくのか。
言うまでもなくこれが最も重要なことです。
過去、辛い思いをした日々が確かにあった。
大きな過ちを犯したこともあった。
それらを積み重ねて現在の「私」があります。
じゃあ「今」、私はどんな行動をしてゆくのか。
これが「私」にとっての最も大切なことです。
「過去」を振り返ることそのものが悪いとは言えませんし、
「やるな」といって「やらない」ようにできるものでもありません。
ただ、過去と現在の関係を考えたならば、
そして、私はあくまで「現在を生きている」という事実を見たならば、
その思考は、最後には「現在」に帰結させるべきなのですね。
「ただ過去を思うだけで終わってしまう」
では、それによって何か実りを生み出すことは難しいと言わざるを得ません。
未来の実りのために、私のできる唯一のことは、「現在の行動」を変えることだけだから。
「過去」にも「未来」にも種は蒔けない
当然過ぎることですが、
「行動」は、現在にしかできません。
「過去」に行動をすることは不可能です。もう過ぎてしまっているのだから。
「未来」に行動をすることも不可能です。まだ訪れていないのだから。
「現在」にしか、私たちは行動することはできません。
そして、「行動」こそが「未来の結果」を造る種であると教えるのが仏教です。
このことを「自業自得」と言います。
私が未来に受ける結果(自得)の種となる「自分の行い(自業)」は、現在にしか造ることはできない。
ということは、
私の未来は、現在でのみ、変えることができる。
ということです。
これ、全部当たり前で、誰もが「分かっている」ことだと思います。
だけど私たちが顧みてみるべきことは、
私はいったいどれ程、この「現在」に一点集中して全力のパフォーマンスを実践しているだろうか。
ということなのですね。
「ああ…昨日は楽しかったな…」
「あーあ、昨日のあの発言、まずかったかな…」
「明日の仕事、ちょっと不安だな…」
「うん、仕事は順調、この調子なら、来月にはこうなって、来年はこうなって…」
思考が、過去に飛んでいたり、未来に飛んでいっていたりしている時間と、
「現在」に一点集中している時間と、
果たしてどちらが長いでしょうか。
リアルに未来を動かす種を現在に一点集中して造っている時間が、一日にどれほどあるでしょうか。
「私は未来の夢に向かって努力しています」
と言ってはいるけれど、その「努力している時間」のうちに、
「本当に現在に一点集中できている」時間が、どれほどあるでしょうか?
「未来を動かせるのは、現在にフォーカスした時こそ。」
この鉄則は、なんとなく分かっていても…
私たちの思考はついつい、過去に行きっぱなし。
あるいは、未来に行きっぱなし。
なかなか現在に一点集中する時がないのかもしれません。
現在に一点集中するとは、
現在の「因」と「縁」とに一点集中するということです。
「因」とは「行動」のこと。
「縁」とは「環境」のことです。
現在、私を取り巻いている「環境」は、私の五感で感じることができます。
目に見えるもの、耳に聞こえるもの、鼻で感じる、舌で感じる、皮膚で感じるもの
それは「現在」私の周囲を取り巻いている「縁」に他なりません。
「五感」を働かせて、いま私を取り巻いている「縁」をしっかり認識し、
その「縁」の中で、私が出来る行動、なすべき行動(因)に没頭してゆく。
これこそが、「現在のベストパフォーマンス」を発揮して、着実に未来を動かすことのできている時間
と言えるでしょう。
「過去」や「未来」に思考が飛んでいる間は、ただ「意識」だけで旅している状態なので、
五感は置き去りになっており、今の私とりまく「縁」も、その「縁」の中で私のいますべき行動(因)も、
置き去りになってしまっています。
そこから思考が「現在」に戻ってきた時に、
「現在の因縁に一点集中」
というモードに入ることができるのですね。
リアルな未来を開く「鍵」は「現在」にある
先程も言いましたが、
「過去の事も未来の事も考えるな」
なんて話をしたいわけではありません。
「過去」は、現在の私を造ってきた積み重ねだし、
「未来」は、現在の私がこれから生み出そうとしてゆくものです。
どちらも私にとって大切な事ですよね。
ただ、
私が意図的にコントロールできるのは「現在」だけ、という事です。
「行動」という、未来を着実に生み出す「種」を蒔けるのは「現在」だけ、という事なのですね。
その「現在の行い」をどうするか、を決めるためには、
過去を思い出すことも、未来に思いを馳せることも、必要になるでしょう。
だからこそ、
「過去」に行っていた思考を、
「未来」に飛んでいた思考を、
いかに「現在」に帰結させ、最後には「現在」への一点集中に入るか
という事が大切なのですね。
「鍵」はあくまで「現在」にあるという事です。
これから「先」の扉を開く鍵は、過去にも未来にもなく、この「現在」にのみある。
このことを常に意識することです。
「現在」に生きることは、より「現実」に向き合って生きることになりますが、
「現実」って、しんどいですよね。ぶっちゃけ(苦笑)
それに対して「空想」は、心地よくて楽なのですね。
「鍵」が「現在」にあると分かっていても、思考は「過去」や「未来」へ行きたがるのは、
しんどい「現実」より心地よい「空想」に浸っていたいという私たちの本音の現れなのかもしれません。
過去の空想
未来の空想
異世界の空想
物語の空想
学問の中の空想
私たちの思考が飛んで行きたがる「空想」は、周囲にあふれています。
そして、それらの空想にアクセスできるインターネット環境が整備されている今日では、
ついついスマホでSNSを見たり、LINEを見たり、YouTubeを見たり、
しんどい「現実」から「空想」へと没入してしまう時間がどんどん増えているのかもしれません。
それをゼロにすることとはますます、中々難しいでしょう。
だけど、たとえ一時、過去や未来や空想に思考が飛んでいても、
「現在の因縁」にちゃんと戻ってきましょう、てことです。
「現在の因縁」に一点集中できる時間を増やせば増やすだけ、
私の未来の現実は、大きく変わることでしょう。