切実な変身願望と、相変わらずの「私」
「どうして私の人生は、相変わらずこんななのかな…」
「昔っから、私って、こんなまんまだな…」
こんな具合に
「変わりたい願望と裏腹に、どうにも変われない自分、相変わらずの人生…」
そんな現実を苦々しく感じている人は少なくないと思います。
「変わりたいなあ…」という「変身願望」は世の中にあふれていて、
そのためだったら、何十万円もの大金をはたいてもいいと考えている人もあり、
そのためのセミナーや教材は、ネット上を中心によく売り込まれています。
「どんな風に変わりたいか」
というのは、実に様々です
リーダーシップを発揮できるようになりたい
もうちょっと我が儘を言えるようになりたい
甘え上手になりたい
他人の興味を引くような言動ができるようになりたい
ナンパできるぐらいの自信をもった男になりたい
色んな仕事にチャレンジしてゆけるようになりたい
周りから頼られる存在になりたい
心に描く「こうなりたい」像はそれぞれにありますが、共通しているのは
「とにかく今のままの自分では嫌だ」
という思いですね。
だけど皮肉なことに、現実はやっぱり
「これまで通りの自分が相変わらず続いていく…」
ということになってしまっています。
そして時折、
「今のままのあなたでいいんですよ。」
「ありのままの、あなたで良いのですよ。」
というメッセージが流行ったりします。
「そうかなあ…」と思う一方で、それでもやっぱり、今のままの自分に納得できないでいる。
「自分」に対して、なんとも割り切れない、モヤモヤした思いはやはり蔓延しているようです。
こういう「変わりたい」願望、変身願望に対して、仏教はどのように答えるのだろうか?
ということについて、今回はお話したいと思います。
「私」とは「秘密の蔵」
まず最初に確認したいことがあるのですが、
「変わりたい」とか「変われない」と言っている「私」とは、何を指しているのでしょうか。
ここが「なんとなく」の認識では、それはもう「変える」以前の問題となってしまいますね。
「私を変える」の「私」が分からない、
では、結局何を変えたいのか、よく分からんということになってしまいます。
それでは話にならないのですが、意外にそういう「話にならない」レベルで暗礁に乗り上げてしまっているのが殆どなのかもしれません。
「変えたい、変えたい」と言いながら、「何を」変えるのかということがぼんやりしている
これが実態なのかもしれません。
「私」とか「自分」といっても、目に見えるものはこの「肉体」だけです。
もし、この「肉体」をもって「私」とするならば、理想の肉体改造をすればよいのか?という話になりますね。
実は意外にこの「肉体改造」も「私を変える」の大切な要素になると思いますが、
ただ、それだけで済む話では、やっぱりありませんね。
「私」を変えるというのは、一体「何を」変えることなのでしょうか?
「性格」を変える?
「習慣」を変える?
「キャラクター」を変える?
「立ち位置」を変える?
どれも的外れというわけではなさそうですね。
だけどやはり「部分的な」感じがします。
仏教では、本当の「私」は、「蔵(くら)」のようなものだと教えられます。
「蔵…何それ?」
という感じかもしれませんが、
「蔵」というのは、何かを保存しておくものです。
私達の心の奥底には、大事なものを保存している秘密の「蔵」があって、それこそが本当の「私」だと仏教では教えられます。
ではその「蔵」は一体何なのか。それは一体、何を保存しているのか。
それこそが「業(ごう)」と呼ばれるものです。
「業」とは仏教の言葉で、「自業自得(じごうじとく)」の「業」ですね。
これは「行い」という意味です。
だから「自業自得」というのは、自分の「行い」が自分の受ける運命を、現実を、生み出してゆくということです。
そんな「自分の未来はこれからどうなってゆくか」という最も大切なことを決める「因(たね)」となるものが「業」であり、私達が日々やっている「行い」です。
だから「業」とは非常に重要なもので、決して無視できないものですね。
私達が日頃からやっている様々な「行い」
それは、他人が見ていようが見ていまいが関係なく、全て、未来を生み出す「因」として、心の底の秘密の「蔵」に残っているのですね。
「過去」は、どんどん過ぎ去ってゆくものです。
だけど、「過去」に造った「業」だけは、残り続けて未来を生み出してゆくということです。
「今」のこの瞬間も、次の瞬間になるともう「過去」ですね。
まるで夢のように消えてゆきます。
私の高校時代なんて、3年間あったにはあったはずですが、もうとっくに過ぎ去って「過去」となっています。
その当時は、一生懸命に生きている「現実」だったはずなのですが、
今となってはぼんやりとして、非常におぼろげなもので、「あれは夢だったのかな」ということさえも思えます。
そんなおぼろげで夢のような「過去」でも、唯一、今の現実に引き継いでいるものがあります。
それが、その「過去」に私がした「行為」です。
過去の現実も、過去の思い出も、全ては過ぎ去ってゆくのですが、唯一、私のした「行為」だけは、過ぎ去って消えることなく残り続けるのですね。
これを「業」と呼びます。
その「業」は、目に見えない心の底の秘密の蔵の中に、目に見えない「力」となって残っていますので、これを「業力(ごうりき)」とも言います。
そんな「業力」をすべて収めて保存しておく「蔵」が心の奥底にあるということです。
その「蔵」こそが、「本当の私」だと仏教では教えられます。
そして、その「蔵」に収まる業力が、何かの「縁」に触れたときに、私の運命を生み出してゆきます。
私に次々と起きてくる不可解な運命は、実にこの「業力」が次々と生み出しているものだということです。
そんな「運命を生み出す因」である「業力」の集積のような「蔵」が、「私」の実態だということです。
「変わっている」ようで「繰り返して」いる私
ということは、何か「行い」をすれば、新たな「業力」となって、心の「蔵」の中に収まって保存されます。
今この瞬間も、あなたのした「行為」は「業力」となり、心の「蔵」に収まっています。
次の瞬間も、またその次の瞬間も、
「行為」の積み重ねが、新たな新たな「業力」となって、心の「蔵」へどんどん収まってゆきます。
しかも、私の「行為」といっても、
この「肉体」で色々な「行動」をするのも、この「口」で様々な言葉を発するのも、
そして、「心の中」で密かに色々なことを「思う」のも、
すべて私の「行為」であり、それらはすべて「業力」として心の「蔵」へと収まります。
心の「蔵」には、常に新たな新たな業力がどんどん収まって、激しく変化し続けていると言えます。
「私」というものは決して「固定」した存在ではない。
常に、新たに新たに変化し続けて続いてゆくもの。
これが「私」の実態です。
さてそんな「私」の実態を知れば、
「変わりたい」
「私を変えたい」
などと言うまでもなく、常に新たな行為をすることで、私は常に「変わっている」ということができます。
だけど、そんなに変化の激しいものが「私」なら、どうして
「変わり映えのしない人生」
「相変わらずの私」
ということになってしまうのでしょうか。
それは、私の「行動」が、同じような「行動」の繰り返しだからです。
「新たな新たな行為」を重ね、「新たな新たな業力」が心の「蔵」に収まっていると、先程いいましたが、
実はその「行為」は、毎日毎日、ほとんどが決まりきった「行動」なのですね。
今日の一日を思い出してみてください。
何なら、この一週間を思い出してください。
その「行動」のトータルのうちの大部分が、「日頃の習慣」と呼ぶべきものではないでしょうか。
朝、起きて、顔を洗って、身支度をして、朝食をとって、出かけて、
いつもの電車に乗って、
いつもの会社に言って、
いつもの上司や同僚と顔を合わせて、
いつもの仕事をこなして、
いつもの食堂やレストランで昼食をとって…
大部分、いや、ほとんどが「いつもやってること」ではないでしょうか。
「これまで一度もしない行動をした」
なんてことは、ものすごく稀なのかもしれません。
日々、同じような「行動」を積み重ねていれば、「私」も変わり映えしなければ、「私の現実」も相変わらずとなるのは当然のことです。
たまに、いつもと違う行動をしてみても、他の圧倒的な行動が「いつもの行動」であれば、「焼け石に水」状態ですね。
「本当の私」である心の奥底の「蔵」がそんな状態なので、表面的な意識の変化や、ちょっとした心境の変化をしたり、新たな刺激を一時的に受けただけでは、「私」そのものの変化はおぼつかないわけです。
だからこそ、「変わるための行動」は、繰り返し、繰り返し、する必要があるのですね。
1日や2日や1週間ほど「行動」を続けただけでは、「変化」といっても、他の圧倒的な「いつもの行動」による「業力」で、結局いつもの「私」となってしまいます。
絶えず、繰り返し、新たな行動を続けて、続けて、1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月も続ければ、今度はそれが私の「新たな習慣」となり、新たな業力の集積となります。
その業力から、私の新たな現実が、確実に動き出します。
「新しい行動の積み重ねが大切」なんて、結論だけならどこでも言われていることでしょうし、目新しい話ではありません。
だけどこのシンプルなことを、「どれほど強い確信を持って理解しているか」は、恐ろしいほどの「差」となります。
その時に「私」というものの実態はどんなものかということ。
この「心の蔵」という、仏教で教える「私」の実態を理解することが、その言葉に底知れない「深み」を帯びさせることとなります。
「業力」という、運命を生み出す「因」を繰り返し繰り返し造り続ける。
この、「新たな行動の繰り返し」の意味することが、どれほど重要なことなのかを深く理解し、確信をもって実践していきたいものです。