行動を躊躇させる「ブレーキ」を克服するには〜「恥じる心」の真相〜

肝心な時にかかってしまう「ブレーキ」

いざ行動を起こそうとすると、心の中で起きてしまうブレーキに悩まされてしまう
そういう人は少なくないと思います。

本当はもっと、行動をしたい。他人に積極的に関わりたい。

困っている人がいたら、積極的に声をかけて、
「何かお困りですか?」
と手を差し伸べられるようになりたい。

友達がいつもと違う服装しているのを見たら
「あ、その服似合うね」
なんて言葉をかけてあげたい。

「誰か、意見ありませんか?」
と、意見を求められている場面で、
「はい!」
と、積極的に意見を述べて場に貢献できるようになりたい。

…だけど、「いざ行動を」となると、途端に心の中でブレーキがかかってしまいます。

この「ブレーキ」の正体って、何なのでしょうね。
この得体のしれないブレーキが、いつも行動を躊躇させてしまう。
これがいつまでも「得体が知れない」ということでは、その攻略も何もあったものではありません。
今回はそれを解明していきたいと思います。

この「ブレーキ」が、自分の中で起きる、ある「気持ち」であることには間違いないですね。
他の誰かが遮るというものではないはずです。

行動を起こした後なら、誰かにそれを「止められる」ということはあるでしょうけど、
起こす前段階でストップをかけるのは他ならぬ自分自身です。
ではこの時、私の中にどんな「気持ち」が起きているのでしょうか。

行動を躊躇させる気持ちとはどんな気持ちかというと、やはり
「恥ずかしい」
とか
「周りに恥をかくのが怖い」
といった気持ちですね。

「私なんかがそういう行動をするのは、みっともないのではないか。」
「間違いを犯して、恥をかくのではないか。」
こんな恐れの気持ちが大きいと思います。

とはいえ、もしかしたら、
「いや、自分が恥ずかしいというより、
周りに対して迷惑になるのでないかという気持ちが強いです」
という方もいるかもしれません。

ですが、その「迷惑をかけるのでは…」と恐れる心を、もっと深堀りしてみると、
この「恐れる」というのはあくまで、自分の何かが脅かされるときに出る気持ちです。
「恐怖」はあくまで、自分の何かが脅かされる時に起きるものなのですね。

大切な人を、「私が」失うのが怖い。
大切な人を、「私が」傷つけてしまうのが、怖い。
他人に、「私が」迷惑かけてしまうのが、怖い。

「怖い」のは、「私が」関わるからです。
もし自分と関係のない「他人」が、周りに迷惑をかけてしまうのを見る分には、「恐怖」を感じるようなことはないはずです。
ただ「痛々しい」だったり「困ったものだ…」という気持ちになるくらいですね。
一方それが、「私が周りに迷惑かけてしまう…」となると、とたんに「恐怖」となります。

「周りに迷惑がかかる」という結果だけ見れば、自分がやるのも他人がやるのも、同じ結果です。

だけど、怖いのはあくまで、「自分が」迷惑をかけてしまう時なのですね。
そんな「迷惑かけた人」に、「自分が」なってしまうことが、怖いのですね。

恐怖はあくまで、「自分の」何かが損なわれることに対して起きるものだということです。

「誰に」恥じているのか…?

仏教で、人間の欲の代表的なものの一つに「名誉欲」が教えられます。
これは、他人からの自分に対する「評価」を求める欲です。

「名誉を求める欲」
というと、華々しい成果をあげて、周りから注目を集めるような積極的なものをイメージしますが、
そんな「積極的に求めるもの」ばかりが欲ではありません。

今の他人からの評価を守りたい、というのも名誉欲の一つの形です。
今でも今なりに、周囲の人からそれなりの評価や思いを向けてもらっているはずで、
それを壊したくない、という強烈な気持ちが私たちにはあるはずです。
もしかしたら、「新たな名誉を求める」気持ちよりも、「今の評価を守りたい」気持ちの方がずっと強いのかもしれません。

この名誉欲が、他人に対して「恥ずかしい」という気持ちを起こさせます。

しかも名誉欲というものは、なんとも見境のないもので、誰に対しても、「悪く思われたくない」という気持ちを起こします。
冷静に考えたら、もう会うこともないような赤の他人が自分をどう評価しようが、自分の人生にほとんど影響はないと分かっていても、
そんな人からも「悪く思われたくない」という気持ちが起きてきます。

周囲の友達はもちろん、その場限りの赤の他人に対しても、
「悪く思われたくない」
「変に思われたくない」
「恥ずかしい思いをしたくない」
という気持ちを起こすのが私達の名誉欲で、必死に己の体裁を守ろうとする余り、
無難な行動に、無難な行動に…
と、自分の行動を強く制御してしまいます。

まさにこれが「ブレーキ」ですね。
なんだかんだいって、必死に「自分を」守っている、欲の心が自分に思い切った行動をさせないわけです。

だけど一方で、
「もっと思い切った行動をしたい」
「チャレンジをしたい」
「他人にもっと積極的に関わる行動をしたい」
という思いも自分の中にあるのですね。

「私はこうありたい」
「こういう人生を歩んでいきたい」

そんな理想を追いかけている「自分」がいるのも確かです。
だからこそ、周りに対する無難な体裁を守っていても、
理想を追いかける「自分」は、このことを残念に思い、後悔の念が尾を引いてしまいます。

この思いはある意味
「自分に対して恥ずかしい」
という気持ちと言えます。

「大切な人」に恥じないために

「恥ずかしい」の思いにも、
周囲の「他人」に対して恥じる気持ち
理想を求める「自分」に対して恥じる気持ち
この2つがあるということです。

そして、
周囲の「他人」に対して「恥ずかしい」と思う気持ち、
これが思い切った行動に対するブレーキになるのですね。

そんな時にぜひ、もう一人の大切な「恥ずべき」相手を思い出したいものです。
理想を追い求める「自分」
という大切な存在があることを。

周りの人にどう思われるか、変に思われたくない…
だけど、
そんな周囲の他人より何より、「自分」に恥ずかしくない行動をしたい。

この思いを起こすことが、行動に対する過度なブレーキを、乗り越えるエネルギーとなるはずです。

時折、心の中に自分の「理想」を描くことがあるかと思います。
本当はこんな自分でありたい。こんな行動ができるようでありたい。
輝ける未来に期待する気持ち、願望を抱く気持ちが、確かに私達にはあるはずです。

そんな「自分」に、恥ずべきことに、ならないか…

こういう感覚を持つことで、他人に恥じる心のブレーキからの支配を脱する余地が見えてきます。

さして深く関わるわけでもないような「他人」よりも、
理想を掲げて、そこへ向かいたいと願っている「自分」の方がよほど大切ですよね。

その場限りの「他人」に恥ずかしい思いをするよりも、「自分」に恥ずかしくないように生きていきたい。
そんな風にも思うことができるはずです。
どちらも「恥ずかしい」という思いなら、強い方が勝つはずです。

理想を追う「自分」の存在が大きなものになればなるほど、
だんだんと、「他人にどう思われるか」、「周囲に恥ずかしいのではないか」、という思い以上に、
「自分」に恥ずかしい行動をしたくない
という気持ちが勝って、ブレーキを乗り越えての行動が実現してゆきます。

「恥ずべき」もう一人の大切な相手。
理想を求めてゆく「自分」
その存在を大切にし、「自分」に対して恥じない人生に、こだわっていきたいものです。