最強の武器は「根拠のない自信」〜“一切は空”と観る視点〜

自信でも楽観でもなく“活路を確信している”

「どんなことだって、やってやれないことはない」

なんて、普通に思える人はそんなにいないかもしれないですね。

こういうことを思ったり言ったりする人は、よほど自分に自信がある人なのだろう…

そう思われるかもしれませんが、必ずしもそれだけではありません。

「自信」というのは基本的に、自分のこれまでの経験によって作られるものですよね。

学校でいい成績が取れたり、難しい資格を取れたり、他人を喜ばせることが出来たり、仕事で結果を出せたり…

そういう過去の自分の行動や結果の積み重ねから「成功できる自分」というイメージを作り上げて、

そういう“自己イメージ”に基づいた思考や行動が自然と出来ることから、その行動にも発言にも、

“確固たる自信”というものが伴っているわけです。

こういう“自己イメージ”を持つことが出来れば、それは大きな武器になることでしょう。

ですが、そのような経験の積み重ねがなくても、

「どんな壁でも、乗り越えられないことはない」

という確信を抱いて生きることは、不可能ではありません。

よく「根拠のない自信」なんて言われますよね。

別に、すごい実績を持ってるわけでも、これから挑むことに経験や知識を持っているわけでもないのに、

「まあまあ、なんとかなるって♪」

…なんでそんなこと思えるの、と周囲が思うような言動を見せる人がいます。

楽観的と言えば楽観的。

だけど、ただの「楽観思考」では済まない“確信”があったりします。

その確信は、どこからくるのでしょうか?

「なんとかなる。」

「乗り越えられないことはないだろう。」

「やって、やれないことはないだろう。」

そう思って、目の前の困難な状況に挑めるかどうかは、経験、能力、知識の有無や量とはまた違ったところでも分かれてくるのですね。

それは一体、どんな要素なのでしょうか。

“それ”を備えていることで、どんな未曾有の危機が現れようと、自分の経験や知識や技術では通用しそうにない困難が訪れようとも、絶望だけはせずに済みます。

ですからそれは、どんな大きな成功体験に基づく“自己イメージ”よりも大きな力となるでしょう。

それは、

“現実を固定的に観ていない”

ということです。

“固定化の発想から離れている”

と言ってもいいでしょう。

人間の、現実に対して“変化を起こせる力”とはまさにこれなのですね。

“一切は空(くう)”という教え

自分の生きている現実を、

“極めて流動性に富んだもの”

とみるのか、

“変わり映えのない牢獄のようなもの”

とみるのか、

これは純粋に、“ものの見方”の問題に極まると言えるでしょう。

たとえ経済的にも人間関係的にも大成功を収めて、世の中を自由に飛び回っているように見える人でも、

“牢獄に閉じ込められたような不自由な人生”

としか思えないことだって、いくらでもあります。

これこそ、“固定的な視点”が生み出す“牢獄”というわけです。

自分の住んでいる「家」は、「家」という固定化された実体以外の何物でもない。

自分の勤めている「会社」は、「会社」という固定化された実体以外の何物でもない。

「家族」も「親戚」も「友人」も「同僚」も、自分の生きる現実を構成する様々な環境や人が、

それぞれ固定化された実体を持った要素の寄せ集めのように見えている…

このような固定的な見方をする限り、その要素たる環境や人脈がどれだけ広がっても、“牢獄”が広がるだけのような状態になってしまいかねません。

だけど、

「本当に世界は、そんな固定化された実体を持つ要素の寄せ集めで成り立っているのだろうか?」

と、その“見方”を根本的に疑ってみてもいいわけですね。

仏教はまさにその“見方”そのものにメスを入れるのです。

“固定化された実体など、何一つ存在しない”

これが、仏教が何千年も変わらず説き続けてきたことです。

“あらゆるものは、固定した実体をもたないものである”

このことを“一切は空(くう)である”と教えられました。

あらゆるものの本質が実体を持たない“空”であると、どうしてそんなことが言えるのでしょうか。

先ほど述べたように、

私たちは自分の身の回りの環境や人について、基本的に“実体を持った存在”とみているわけですね。

「家」も「会社」も「家族」も「友人」も。

ですが、たとえば「家」から「会社」へ通う途中の道にある建物も全て、同じように実体を持って存在しているでしょうか?

「いや、当然どれも同じように実体のある建物でしょう」

と言われるかもしれませんが、自分の「家」や「会社」と比べたら、随分と虚ろな存在ではないでしょうか。

前に、自宅の最寄り駅から帰宅する途中の道で突然「更地」となった場所を見かけました。

「あ、ここ更地になってる。…ていうか、前はここに何があったっけ?」

こういうことってよくありますよね。

毎日毎日その前を通っていて、視界には入っていた“そこにあったはずの建物”なのですが、

それが何だったのか、全く思い出せないし、思い出せる見込みもありません。

ただのビルだったかもしれない、住宅だったかもしれない、何かの店だったのかもしれない。

そういう「建物」というのは、非常に虚ろな存在だったわけです。

実体を帯びていたには帯びていたのでしょうけれど、朧げなものでしかなかったわけです。

あなたは、誰か知り合いのことを「もしかして実在しない人物なんじゃなかろうか?」なんて、疑ったことはあるでしょうか。

実は、私は友人からそういう疑いを一時的に抱かれたことがあります(笑)

もしかしたら、ブログを読んでくださっている皆さんの中にも、「武村ショーゴ」なんて人物は実在するのか?なんて思われている方がいられるかもしれません。

もし、このブログが閉鎖して、私が仏教哲学の発信をやめてしまったならば、「武村ショーゴ」なんて、実在していたのやらしていないのやら…

そんな朧げな存在になってしまうかもしれません。

そんな風に、振り返ってみるとその実在性が非常に虚ろであったと知らされるようなものって結構ありますよね。

だけど一方で、自分の住んでいる家や勤めている会社がそんなことにはならないでしょう。

たとえ自分の家が火事で焼けても、勤めている会社が倒産して更地になっても、

「確かにこの家は実在していた」

「確かにこの会社は実在していた」

と確信を持って言えることでしょう。

それは、それだけ“関わり”が深かったからですよね。

毎日そこで生活している、毎日そこで仕事をしている。日々、“関わり”を深めている訳です。

そんな“関わり”の深い人や物は、強い実在性を放っているのですね。

だけどそんな人や物でさえも、“関わり”を絶って何十年も経つと、

「本当にそんな建物があったのかな」

「本当にそんな人が実在していたのかな」

と、その実体さえも虚ろになってしまうこともあるでしょう。

ということは、

“関わり”が“実体”を生み出している。

ということなのですね。

その“関わり”が深ければ、“実体”はハッキリしてくるし、

“関わり”が薄ければ、“実体”は虚ろなものとなります。

「いや、そんなのは主観に過ぎないでしょう?」

と言われるかもしれませんが、“存在”なんてどこまで行っても主観的なものでしかありません。

地図に情報が記載されたり、テレビで報道されたり、教科書に載ったりして、大多数の主観によって認識されているものを、「とりあえず」客観的な存在と見做しているに過ぎません。

そういった、無数の心と行動による複雑な“関わり”によって、“ものの存在”は成り立っているのが真相というわけです。

全ては“関わり”によって“起きている”ものである。

これを仏教では“縁起”と言います。

“一切は縁起である”

これは仏教の一貫した教えであり、根幹となる教えです。

何の“関わり”も要することなく、独立して存在している物(実体)など、存在しないと説くのです。

私たちが「実体だ」とみているものは、“関わり”によって、実体らしきものが一時的に“起きている”に過ぎない、すなわち縁起のものだということです。

だから“空”だと教えられるのですね。

“縁起である”ということと“空である”ということとは、本質的に同じことを言っているわけです。

「道が開けるのは必然」と知る智慧

“一切は空である”

と聞くと、「何も存在しない。虚無である。」というように誤解されがちなのですが、決してそうではありません。

あくまで“固定した実体を持つものは何一つない”というのが“空”ということです。

縁起による千変万化する現実は紛れもなく起きているのですから“虚無”とは全く違います。

“空”だから「何も存在しない」というのは、大きな誤りだと、仏教ではこのような誤りに対して特に注意を促しています。

むしろ逆に「“空”だからこそ、あらゆるものが現れてくる」と言えるのですね。

もしこの世界が“空”ではなくて、固定した実体を持つものの寄せ集めで成り立っているのだとしたら、

私たちが生きている現実のような千変万化した流動的な展開はありえないのです。

私たちが生きて、感じて、経験している一切のことが“空”だからこそ成り立っているのです。

そういう意味で“空”は、あらゆる存在の源だと言えます。

このように、一切を“縁起”と見て“空”と見る視点は、個人差こそあれ、私たちもある程度は持っていると言えるかもしれません。

物事が、どこか虚ろなものに思える。

過ぎ去った現実が、まるで夢か幻だったように思える。

そんな感覚は、特に日本人には顕著だったりするのですね。

実はその視点が仏教的には極めて大切だというわけです。

初めに述べた、

“現実を固定的に観ていない”

“固定化の発想から離れている”

というのが、まさにこの“縁起”や“空”を観る視点です。

現実を“固定的な実体”とみてしまい、自らを牢獄で覆ってしまうような迷いから、

“縁起”と観て“空”と観る視点を磨くことで、あらゆる現実に変化を起こす活路を見出せることが、自然と理解できます。

“必ず道は開ける”

ということが、経験や知識や能力による自信を用いるまでもなく、“道理”として見えてくるということです。

それこそ、あらゆる困難を前にしてもしなやかに逞しく生きる“智慧”と言えるでしょう。