“意に沿わない場面”の中にこそ自由がある

“自由に生きる”道に憧れるものの…

「お金を稼ぐって、大変なことなんだよ」

種々のビジネスに手掛けている友人が何気なく口にした一言ですが、

様々な「稼ぐ方法」を模索してきた経験があるだけに、その言葉には説得力がありました。

多くの人は、

「会社に就職して、会社から与えられる仕事をこなして会社から給料の支払いを受ける」

という形で生活の糧を得ていますが、他にも稼ぎ方は無数に存在するようです。

起業して自分のビジネスを始める方法もあるし、株や不動産で資産を増やすという方法もあるし、

フリーランスで仕事を受けて稼ぐ方法もあるでしょう。

色々な方法が存在するとはいえ

「好きなことを好きなようにやって稼いでいる」

という話は聞かないですね。

世の中からお金を貰うためには、世の中に築かれているお金が流れる“仕組み”を理解して、

その“仕組み”に則った行動に精一杯努めることで、自分の懐にお金は流れ込んでくる。

その“行動”には、他から課せられた制限がいくつもあるわけですね。

「好きなことを好きなようにやっている」ということでは、どこでその世の中“仕組み”から逸脱するか知れません。

商品開発、集客、セールス、アフターサポート…

持続して世の中から自分にお金が流れ込むように努め続けるというのは、

自分の意に沿うか沿わないかに関わらず、世の中が要求してくる行動を、ひたすら続けなくてはなりません。

そういう点は、会社に所属して働くのも、他の方法で稼ぐのも、共通しています。

別に、会社という組織に所属しているから“意に沿わない行動”をせざるを得ないのでもないし、

あまり好きではない分野の仕事をしているから“意に沿わない行動”になるわけでもない。

好きな分野に携わろうが、会社組織から離れた環境での仕事をしようが、

お金が自分の懐に入るためには、必ず何らかの形で“相手”をよく考えた行動をしなければなりません。

お金は、道端で拾う事でもない限り(横領になりますが)、他人から自分に流れ込むという形を取らざるを得ないのだから。

これは何も“稼ぐ”に限った話ではありません。

自分の生活の平穏を保つためだけでも、その「平穏」を成り立たせる様々な要素を保ち続けなければなりません。

経済的に不足がないことはもちろん、

人間関係が良好であること、

健康状態が問題ないこと、

万が一の災害などに備えがあること、

自分に対して一定の自信が持てていること、

などなど、経済面、精神面、肉体面、他者との関係など、様々な“要素”で生活は成り立っていますから、

どこかが崩れただけで、生活は一気に「平穏」を失ってしまいます。

「大きなことは望まない。ただ平穏でさえあればいい。」

などとよく言われますが、その「ただ平穏を保つ」ことが、どれだけの条件を揃え続けなければならないことか知れません。

そのためには、「好きなことを好きなようにしている」というわけにいかないのですね。

意に沿わなくても、努めざるを得ない行動が次々と発生してゆくのは、

「様々な条件によって成り立っている平穏な生活」

という実態を考えただけでも、やむを得ないことです。

結局のところ“生きる”ということは、意に沿わない行動の連続とならざるを得ない…

なんともシビアな、私たちの“生きる現実”というものです。

しかも、そんな世の中から課せられた制限に従って行動さえしていれば、

安心して生きてゆけて、人生に満足が得られる、幸せを感じられる

そんなことが保証されているなら、まだ耐える甲斐もあるのですが、どうもそうとも限らない。

いや、そうやって忍耐しながら生きれば生きるほどに、

「負担はどんどん増えていくなあ」

「悩みはどんどん深刻になっていくなあ」

「理不尽なことばっかりが押し寄せてくるなあ」

「こんなに真面目に努めているのに…」

と、不毛な消耗戦の如き様相を呈しているのが現実だったりします。

“意に沿わない場面”の中に自由がある

「好きなことをしていられる自由は、極めて限られている」

「意に沿わない行動のリターンも、たいがい期待できない」

こんな現実の中で、

「たまの休日の自由時間だけを明かりにして生きる」のも

「いつかこの忍耐が報われることを期待している」のも

あまりに寂しい結果しか見込めないのは、なんとなく分かってしまいますよね。

そうすると私たちは、

“意に沿わない場面”の中にこそ、

“自由”と“安心”と“満足”などの“生き甲斐”をなんとしても見出してゆくべきでしょう。

人生の大部分が“意に沿わない場面”で埋め尽くされてしまう現実は、否定しようがないわけですね。

かといって、その行動へのリターンが保証されているわけでもありません。

そんな現実の中で、“意に沿わない場面”を、

「耐えるしかない時間」

「早く終わって欲しい時間」

としか捉えられていなかったら、

人生の大部分が「耐えるしかないもの」「早く終わって欲しいもの」という、なんとも寂しいものになってしまいます。

かといって、“やりたくない行動”から極力逃れ続ける、という人生戦略は、

「多くの他者との“関わり”によって成り立つ人生」という現実を見れば、分が悪い方針と言わざるを得ません。

“やりたくない行動”“意に沿わない行動”

そんな、1日のどこにでも発生している場面に対して、本気の勝負を挑むことを心に決めた時から、

思わぬ活路がその中に隠されていることに気づけるはずです。

“つまらない仕事”は、本当にただ“つまらない仕事”でしかないのだろうか。

“面倒くさい家事やルーティン”は、本当にただ“面倒くさい行動”でしかないのだろうか。

“嫌いな人との関わり”は、本当にただ“嫌いな人との嫌いな時間”でしかないのだろうか。

先ほど、何の変哲もない「平穏な生活」も、その実態をよく見れば“無数の要素”によって成り立っている。

どんな要素の綻びから、どう変化し、どう崩れていくか分からない、ということを述べました。

これは、いま列挙した“つまらない仕事”も“面倒くさい家事やルーティン”も“嫌いな人と過ごす時間”も、同じことです。

私たちは、「好きな時間」「嫌いな時間」を無意識的にカテゴリ分けして、固定化してしまっています。

「○○の時間」と、言葉でもって名付けてイメージ化し、

「そういう時間以外の何者でもない」という固定化をしてしまっているのですが、

本当は、そんな“言葉”に対応した固定的な実体が存在するわけではないのですね。

「平穏な日常」と呼んでいるものが、極めて不安定で危うく保ちがたいものであったように、

「あらゆる物は、無数の“要素”がより集まって生じているものである」

という、仏教で「縁起(えんぎ)」と呼ばれる道理に則って見てゆくことで、

“嫌な時間”と名付けられた場面に対し、その“負の実体”を崩壊させ、全く違った状況を作り出す活路が見えてくるのですね。

あらゆる場面に「縁起」を観る

「嫌いな人と会わなきゃいけない状況が出来てしまった。しかも、継続的に…」

これは、結構重くのしかかってくる「嫌〜な状況」ですよね。

だけど、よくある状況でもあります。

その相手が、自分が「嫌いだ」と思える要素をこれまでの人生かけて集めて来たのかって思えるくらいの相手だったらもう、悪夢のような状況です。

だけど、一度その状況を受け入れて、

「さあ、この状況にどう対処するか。どういう心持ちで、どう接するか…」

ということを考え始めた時に、別の人からLINEが来たり、会う予定が出来たりすると、

それがどんな相手であっても、“格別の安心感”を感じるようになっていたりします。

“嫌いな人と会う時間”というのは、ただその時間だけが独立して存在するわけではありません。

その時間は、“好きな人と会う時間”や“そんなに好きでもない人と会う時間”とも、常に関係しながら成り立っています。

最悪にしんどい状況を一度受け入れて、それに対処する行動が始まった時から、その行動が、人生のあらゆる場面に影響し始めているわけです。

人生のどんな場面も、無数の要素から成り立っている「縁起」である。

“独立した場面”も“固定した場面”も、本当はあり得ないのです。

“つまらない仕事に従事している時間”だと言っても、

その職場を構成する様々な人間との関わりがあり、取引先との関わりがあり、

気配り、集中、判断、忍耐…などの様々な精神的要素があり、

それらが複雑に絡み合って、本当は無数の複雑な場面を連続的に生み出している。

そのような「縁起」がそこにはあります。

それらの要素がどう変化するかで、“場面”は流動的に、ダイナミックに変転して行きます。

またそんな“つまらない仕事の時間”だけが独立して存在しているわけでもありません。

“好きな人と過ごす時間”や“大切なライフワークに取り組む時間”や “ここ一番の勝負という大切な場面”など、

様々な場面とお互い関係し合うことによって、お互いの場面は成り立つのです。

人生のあらゆる場面が、そのような「縁起」によって成り立つ場面であると捉えれば、そこに無限の突破口が現れてきます。

「立ちはだかる壁のような場面」であろうと

「閉ざされた牢獄のような場面」であろうと

「敵だらけの四面楚歌のような場面」であろうと

そこに「縁起」を観て、無数の要素から突破口を見つけ出してゆく、

そんな“智慧”を持った時、いかなる場面をも自由に生き抜く人生が開てくることでしょう。