「同じことの繰り返し」にうんざりしているあなたへ

日常の繰り返しに心から熱中できる人

同じ職場で、同じ同僚と、同じような仕事をこなす毎日。

週末の休みまでは、その繰り返しにひたすら耐えて、金曜日になれば束の間の解放に心躍り、

だけどあっという間に週は明けて、「繰り返し」は再開される。

「同じこと」にしょっちゅう向き合う日々というのは、程度の差こそあれ、基本的には「生きる宿命」のようです。

「ああ、同じことを繰り返して生きているなあ…」

そんな思いがふっとよぎると、恐ろしいほどの無意味感に襲われてしまいます。

それで、仕事を変えたり、住む場所を変えたり、環境を変えたり、趣味を変えたり、旅行に行ったり、

大小様々な「変化」を求めて、その無意味感を紛らわせようとしているのかも知れません。

人が魅力を感じる大きな要素に「非日常感」があります。

ディズニーランドやUSJのようなテーマパークは、「異世界」をも感じさせる「非日常」を提供してくれる典型例です。

ライブコンサートや、野球やサッカーのスタジアム観戦もまた、普段とは全然違う空気感の中で、夢見心地の興奮を味わわせてもらえます。

「海外旅行に行くのが“生きてるなあ”と感じられる唯一の時間です」なんて話も聞いたことがあります。

確かに海外旅行に行けば、見たことのない文化に触れて、食べる物も泊まる場所も、全てが新鮮な世界で過ごせると、

五感全部で新鮮な刺激を受けて「ああ、生きてるなあ」と感じられるのでしょう。

その時は、「日常の繰り返しの無意味感」から解放されるのかも知れません。

いずれも「非日常の刺激」を五感で感じられるから、満たされるものを感じられるのでしょう。

だけど、それは「一時の非日常」だからこそ生き生きしていられるのであって、

例えば海外旅行でも、仮にその旅行先が“移住先”となって、そこでの“生活”が始まると、もはやそれが「日常」となってしまうのでしょう。

いずれにせよ、私たちが生きる世界は基本的に「繰り返し」の避けられない「日常」なのですね。

ところで、「非日常」を“提供している側”は、きっとそれが「日常」になっていることでしょう。

ディズニーランドのコンサートスタッフは、同じアトラクションを、毎日何回もお客さんに提供しているはずです。

そこにはきっと、お客さん側が味わっているような非日常感はなく、逆に「同じことの繰り返し」なのでしょう。

コンサートでパフォーマンスを披露しているプロのアーティストは、同じ歌や同じ踊りを、血を吐くほどに何度も何度も繰り返して練習し、それを披露しているはずです。

面白いものですね。

刺激満載のエンターテインメントは、「日常」と「非日常」のぶつかり合いで構成されているというわけです。

そうすると、刺激を“提供する側”の「日常」は、やはり虚しく、無意味感に満ちたものなのでしょうか。

ライブコンサートのアーティスト達は、

「もうこの歌、何回目なんだよ…」

と、うんざりしながら歌っているのでしょうか。

野球選手たちは、

「いい加減、違うパフォーマンスしたいよな」

と、飽き飽きしながら試合しているのでしょうか。

必ずしも、そうではないはずですよね。

もしかしたらそんな人もいるかも知れませんが…

ただ、そんな気持ちで、あれだけの鍛錬や向上が出来るとは思えないですよね。

きっと、「同じパフォーマンスの繰り返し」にやる気と誇りを込めて打ち込んでいることでしょう。

よく聞きますよね。

一流のアーティストや一流選手ほど、飽きもせずに基礎的なトレーニングに愚直に取り組んでいると。

その眼は、「うんざり」でも「虚しさ」でもなく、ギラギラして真剣そのものです。

同じ場所で、同じトレーナーのもとで、同じ動作…

そんな「繰り返し」を前に、その“眼”は一体何を見ているのでしょうか。

きっと、外野からは「何の変哲もない繰り返し」にしか見えないものの中に、

彼らの眼は、熱中せずにいられない“何か”を見ているのでしょう。

それはきっと、本気で取り組んだ人でないと見えない“何か”なのですね。

そこに“人生の全てが収まっている”と見えたとき…

私たちもまた「同じ繰り返しの日常」の中に、一流選手が見ているような熱中せずにいられない“何か”を見出せたなら、

「日常そのもの」が根本的に変わってゆくはずなのですね。

別に、無理に環境を変えたり、取り組む内容を変えたり、人を変えたりしなくても、

“視点”一つ変えることができれば、今あなたがいるその場所で、常に“生きている”手応えを感じられるはずです。

その“視点”のヒントとなる話として、剣豪・宮本武蔵と柳生石舟斎との出会いの有名なエピソードがあります。

石舟斎が刀で切った芍薬の茎の切り口を、あるきっかけで目にした武蔵が、「なんと見事な切り口…この方に是非お会いしたい」と思いを募らせたという話。

細い茎の切り口なんて、ハサミで切ろうが、包丁で切ろうが、刀で切ろうが、まして誰が切ろうが、普通だったら何の違いも感じません。

だけど達人にはその“違い”がわかるのでしょう。この切り口一つに、長年の凄まじい修練が収まっているのだと。

この“違いが分かる眼”というのは、重要なポイントですね。

そしてこれは、別に超一流のプロだけに見える境地というわけでもありません。

武蔵は剣一筋に生きた剣の達人だから、剣に関する“違い”に敏感だったのでしょう。

私たちが目指したいのは、“人生そのもの”に対して“違い”を知ることのできる「人生の達人」です。

私たちが取り組んでいる事に対して、「同じことの繰り返し」と見えてしまう大きな理由が、

取り組む対象を、“独立した存在”と見てしまう事です。

例えばメーカー会社で、部品の発注の仕事があるとしたら、その「発注の仕事」だけを見れば、「いつもの仕事」です。

「発注の仕事」を専門にしている人であれば、一日中、その「同じ仕事」の繰り返しになってしまいます。

これはもう、「同じ事の繰り返し」の無意味感に、一日でどっぷり浸かってしまいそうな状況ですよね。

だけど、本当にそこにあるのは「発注の仕事」という単体の存在だけなのでしょうか?

それに取り組む動作の正確さ・体の姿勢・心の動き・コンディション・先方や同僚との様々な関わり…

などなど、実に様々な要素が複雑に関わり合って一つ一つの「仕事」が成立しています。

さらに、仕事が始まるまでに何をしてきたか、仕事を終えた後に何をするのか、

先週末の休日をどんな風に過ごして、今週末の休日をどんな風に過ごすのか、

この、仕事以外の場面との“関わり”も決して無視できません。

「いや、オンとオフは割り切る主義なんで。仕事に休日のことなんて持ち込まないし、休日に仕事のことなんて持ち込まないから。」

そういう割り切り主義の人も多いと思います。

もちろん、そういう割り切り主義を否定するつもりはありません。

ただ、そういう“切り替え”を意識的にしているとしても、「オン」と「オフ」が、「仕事中」と「休日」が、確実に関わり合っているということは、もはや否定できない道理です。

だいたい「オフ」という概念自体が、「オン」を意識した言葉です。

「休日」という発想自体が、「仕事日」を意識した考え方です。

それらが関わり合って“人生”が成り立っているのですね。

これを仏教では、

「一切は縁起のもの」

と教えます。

「縁」とは「関わり」ということです。

無数の「関わり」によって「起きている」ものが、人生のあらゆる場面であり、また人生そのものです。

「オン」と「オフ」も縁起であり、

「仕事」も「休日」も縁起であり、

「オフィシャル」も「プライベート」も縁起であり、

「自分」も「他人」も縁起です。

それぞれが関わり合うことで、それぞれが成立しているのであり、いずれかが単独で存在するなんて、あり得ないですよね。

「縁起」とは、このように「相互に依存して存在している」というあり方をいうのです。

この世に、「単体で独立した存在」など何一つありません。

その「縁起」を無視して、「仕事」にしろ、「トレーニング」にしろ、「勉強」にしろ、「単体で切り離した存在」として見てしまっているところに、

「同じことばっかりやってる」

という思いが起きてしまうのですね。

まるで、「同じことの繰り返し」に縛られているかのような不自由さ、無意味さを感じずにいられないわけです。

「発注の仕事」とみているものには、実に全人生の様々な要素との“関わり”が含まれています。

椅子に座り、パソコンに向き合い、手を動かし、電話をかけ、上司に相談して…

その様々な動作一つ一つに、これまで生きてきた“全て”が収まっています。

その「縁起」によって、一つ一つに必ず微妙な“違い”が現れます。

これは別に「仕事に人生賭けてます」という超意識高い人だけのことではありません。

「そこに人生の全てが収まっている」というのは、「意識」の問題ではなく、「縁起という道理」の問題だからです。

その縁起を無視して、「発注の仕事」という独立した存在だけを見てしまうと、それに縛られて不自由になり無意味感に陥ってしまいます。

「縁起の道理をみる視点」が、その不自由から解放させてくれます。

どんな小さなことでも、その一つ一つの場面に、“人生そのもの”をみることができます。

“同じ繰り返し”っぽい場面こそがチャンス

本当は、自分を縛るような「同じこと」なんてのは、存在しないのですね。

全ては「縁起」しているのですから、無数の“関わり”がより集まって、流動的な場面場面が展開しているのだから。

ところが私たちは「固定化・独立化」の視点でもって、「同じこと」という虚構を自ら造り上げてしまい、それに自ら縛られて苦しんでいるのですね。

固定化してしまう“迷いの眼”でみる限りは、何に取り組んだところで、それは自らを縛り付ける虚構と化してしまいます。

「オン」であろうが「オフ」であろうが、「仕事」であろうが「休み」であろうが、

縁起を無視してそれらを“独立した実体”として見てしまうと、どちらにも縛られて苦しむ羽目になってしまいます。

「同じことに取り組むのか」「違うことに取り組むのか」が問題なのではありません。

縁起に則った視点で物事を見られるかどうか、が問題なのですね。

そう考えると、逆に、「同じこと」に取り組んでいる時の方が、「その視点を持てているかどうか」が際立って見えてきます。

「ベルトコンベアーの前に立って、流れてくる製品の検品をする」

そういう、「決まった動作」に長時間取り組むような場面とか、ありますよね。

こういう時こそ、その「決まった場所」「決まった光景」「決まった動作」と思えるようなものに対して、いかに「縁起に則った見方」ができているかを試すチャンスです。

そのルーティンに相対した“心”の激しい変化は、どうでしょうか。

一つ一つの動作への集中具合はどうでしょう。

その行動が、意外に休日に会う大事な人との関わりに関連していないでしょうか。

「あれ、いつもとファッションが違う?」なんて一言が出るかどうかに影響するとか…

このルーティンの中で見えてきた“心の動き”や“動作の精度”などは、そのまま、人生のあらゆる場面に関連しているものに違いありません。

「ベルトコンベアーでの検品作業に人生の全てが収まっている」なんて言えば、「何を大袈裟な」と思うかもしれませんが、

縁起の道理から言えば、そうです。

是非とも、「同じことの繰り返しだなあ」と思えるような場面にこそ、「縁起の視点」でみる訓練をしてみてください。

プロの一流選手が、「素振り」と言う基本動作に人生を賭けて挑んでいるように、

私たちも「人生の達人」を目指して、ルーティンをこそ、最も大切な視点を養い真の自由を得るための一歩一歩としていきたいものです。