古来より伝わる人間観察の手引き〜アビダルマとは〜

昔、インドで凄い研究がされていたらしい…

「アビダルマ」という仏教用語があるのですが、「ダルマの研究」などと訳されたりしまして、

ブッダの説かれた「ダルマ(法)」に向き合って、その理解を深め、体系化して明らかにしてゆく…

そういう仏弟子たちの営みをそのように呼ばれます。

「ダルマ」とはインドの古い言葉で、それが中国の言葉に訳されて「法」となっていますが、

「ダルマ」も「法」も、なんとなく言葉は聞くけれど、どうも意味が曖昧…

そんな感じの用語ではないかと思います。

一言で言えば、

「人間や世界は、何によって構成されているのか」

という、いわば人や世界の「構成要素」とも言うべきものが「ダルマ」なのですね。

「人間とは何か」「世界とは何か」っていう、素朴な問いであり哲学的な問いに対しては、

人類史の中でさまざまな答えが述べられてきました。

宗教的な答え、哲学的な答え、文学的な答え、科学的な答え…

超有名なパスカルの答えとして

「人間とは考える葦である」

と言うのがありますね。

哲学的でもあり、文学的でもある答えで、本質をついていてインパクトもある。

ずっと語り継がれている答えと言えます。

「仏教では、こういう問いには何と答えているのですか?」

と尋ねられたならば、

「人間や世界を構成しているものは、これこれと、これこれと、これこれと…」

という具合に「様々な構成要素を示すことを以て答えられた」と言うことが出来るのですね。

そうそう安易に、

「人間はこういうもの」

「世界はこういうもの」

と言うイメージを持たせてくれないところがあります。

こういうところが、仏教を難解に感じさせるところなのかもしれません。

宗教といったら、

「人間は神の子である」とか「人間は神の子孫である」とか、

シンプルに「こういう存在だよ」って言う答えを示しているものという感じがしますよね。

あとはそれを信じるか信じないかっていう話。

シンプルにイメージできる答えを示すからこその宗教という感じがするのですが、仏教はむしろその真逆なのですね。

「人間とはこういうもの」

「私とはこういうもの」

「世界とはこういうもの」

そんな固定したイメージを色々な宗教や思想が植え付けているとすれば、

それを片っ端から破られて、

「そんな固定したイメージを持つものではない」

と諭されているようなところがあります。

そして、あくまでも人間や世界を構成する「構成要素」を示される。

それを「ダルマ」と言われるのですね。

ブッダの説法が記されている経典の中には、実に多くの「ダルマ」が述べられています。

たとえば「煩悩」というのも、そのような「ダルマ」の一つと言えます。

これは人間の精神的な「要素」を示された「ダルマ」です。

よく知られているように煩悩は全部で108あります。

ブッダは、人間の精神的な要素については特に詳しく教えられたわけですね。

「人間の苦しみ・悩み・煩いを生み出すものは、これこれと、これこれと、これこれと…」

と、その精神的な要素を次々と挙げられて、それらにどう対処したら良いのかを筋道立てて示されていく。

こんな具合に、人間を構成する「ダルマ」を1つ1つ説き明かしてゆく。

ブッダの説法はそのようにおびただしい数の「ダルマ」を示されたものと言うことができます。

その「ダルマ」を、残された仏弟子たちは徹底的に研究したわけです。

ですから「ダルマ」を研究する事は、そのまま「自己に向き合う」と言う事であり

私たちが生きる「世界」をどう受け止めて行けば良いかを模索していったと言うことができます。

そしてその仏弟子たちの「アビダルマ」と言う営みのおかげで、ブッダの教えられた「ダルマ」が非常に体系的にまとめられました。

仏教を少しでも学んだならば、その体系的な学問性に驚くと思います。

それはもちろん、ブッダが様々なダルマを筋道立てて説かれたからこそなのですが、

仏弟子たちがそのダルマを研究し、体系化したり整理したりしてまとめると言う「アビダルマ」の成果の賜物ということもできます。

煩悩を108つも数え上げてまとめられたことも、その「アビダルマ」の成果の一つと言えましょう。

最も堅実に自己を知る道

仏教は、

「人間はこういうもの」

「世界はこういうもの」

こういう明確なイメージを安易に与えるのでもない。

かといって、

「そんな問いに答えなどない」

と、いわゆるニヒリズムのような虚無感を与えるのでもない。

私たちが知ろうとしている「私とは何か」「この世界は何なのか」という根本的な問いに対して、

「このように成り立っているのだよ」

と、その「成り立ち」を示し「構成要素」を明らかにし、

そのような「ダルマ」に向き合うことをもって、必ずその答えに至ることが出来る。

そういう「道」を示しているのが仏教と言えるでしょう。

このような仏教の教えを「縁起の教え」とも言われます。

人間を「固定した一つの存在」としてみるのではなく、

無数のダルマがより集まって生じているもの

そのような「縁って起きる」もの、すなわち「縁起」の存在であると教えます。

これは人間に限らずあらゆる存在について言えることですが、仏教は特に私たち一人一人について、

そのように「ダルマの縁起」としての存在であると教えるわけですね。

そして、そのように人間や世界を「ダルマの縁起」として観る視点こそが本当の“智慧”であるとされます。

惑いが起きたら“ここ”に立ち返ろう

こういう縁起の教えは、現代の私たちへのとても大切なメッセージがこもっていると言えます。

「他人に偏見をもってはいけない」

と、よく言われますよね。

「暗い人だ」「つまらない人だ」「意地悪な人だ」「気持ち悪い人だ」

そういう“固定したイメージ”を他人に対してもってはいけないとは分かっていながらも、

ついついそういう固定化の目で他人を見てしまいます。

これは他人に対してだけでなく、自分に対してもそうです。

いや、むしろ自分に対しての“固定化”の方がより根深いでしょう。

他人に対するそれは、“自分の固定化”に伴って、派生的に起きているものだと言えます。

これはかなり盲点だと思うのですが、

「他人に偏見を持つまい」

とするためには、まず自分に対して、

「自分はこういう人間だ」

という偏った固定イメージを打破することが大切だと言えるのですね。

自分に「ダメな人間だ」というマイナスの固定イメージを抱けば、自己嫌悪をいつまでも引きずることになりますし、

自分に「イケてる人間だ」というプラスの固定イメージを抱けば、ポジティブで良いようにも思えますが、

他人を見下す慢心につながったり、また思わぬ失態から一転して自己嫌悪につながったりする危うさを伴います。

善きにしろ悪きにしろ、自分や他人に“固定イメージ”を抱いてしまう事は、あらゆる苦悩やトラブルの元になってしまいます。

そのような“固定イメージ化”を打破するのがまさに「ダルマの縁起」という教えです。

「自分も他人も等しく、このような構成要素によって成り立っている。」

そのような「縁起」の存在だと観る視点を持つことが、自分や他人に対する向き合い方を一変させます。

インドの言葉で書き残されている仏典には、“心”のことを“citta(チッタ)”と記されています。

これは「積み重なり」という意味で、心というものは、一つの固定したものではなく、

瞬間、瞬間に生じて積み重なってゆく流動的なものであるということを示しています。

確かに私たちは様々な人や物や環境に対して、様々な思いを向けて生きていますが、

厳密に観察すれば、その“思い”は固定して止まる事は決してなく、新たに新たに生じ続けて、続いているものなのですね。

心も言葉も行動も他者との関わりも、色々な因縁によって新たに新たに生じてゆき、流動的に変化しながら続いて行きます。

それら無数のダルマの縁起によって、瞬間ごとに構成されているのが人間です。

自分も他人も、決して固定した存在ではなく、無数の要素がより集まって、すなわち“縁起”して、瞬間、瞬間に生じているものなのですね。

“固定化されたイメージ”を解体して、“ダルマの縁起”として、自分も他人も観察してゆく。

そのような視点を少しでも持つことができれば、色々な惑いが生じた時に、それを是正し、落ち着かせてくれる“原点”とすることができます。

※今回は「ダルマ」や「法」のことを、人間や世界の「構成要素」として説明しましたが、この用語は多義的な言葉でして、そのような「構成要素」を表すこともあれば、それらの構成要素を貫いている「法則」を表すこともあります。あまりいっぺんに説明すると複雑になり過ぎてしまいますので、今回は一つの意味に絞って書くことにしました。