“ひょっとして私、損しているかも…”の不安に苛まれるのも、たいがい疲れる

“どうしても放置できない悪”に遭遇してしまった時

「これって、自分だけが損しているのでは…?」

なんてことに気づいてしまったために、置かれている状況に俄かに不満が湧いてくる。

割とよくあることだと思うのですが、これは果たして「気づいて良かった」と言えるのでしょうか。

何かの手違いで、みんながもらっていた休みを、自分だけが貰えていないとか、

自分の仕事の負担が、実はみんなよりも大きくなっていたとか、

気がつかなければ、何の疑問もなくいつもの日常を過ごしていたのだけど、

「あれ、損している…?」

ということにふと気づいてしまったために、現状がどうしても許せないものとなってしまう。

「そりゃあ、気づいて良かったじゃないか。そうじゃなければ損した状況が是正される余地がなかったのだから」

と考えることもできますが、

別に何も不満はなかったわけです。

特段、その現状で苦しむこともなかったわけです。

ただ、

「正当な理由もなく、周囲よりも“損な”状況に置かれている」

と言う状況が見えた、というだけの話です。

「だけの話」とは言ったのですが、

これが「それだけの話」とはとても済まされない。

絶対に放置できない“悪”なのだという思いを強く抱くものなのですね。

こういう“悪”だけは、なんとしても是正しなければならない。

そんな信念めいた思いが、“不当な差別の是正”へと全力をあげさせます。

“公平と平等を求める”

この思いのなんと強いことでしょうか。

環境としては申し分なく、自分が望む未来へと歩んでゆく上で何の不足もない。

そんな恵まれた境遇にあってでも、

“実はそこに不公平がある”

“不当に格差をつけられている”

“不当な利益を貪っている連中がいる”

この“悪”が見えた途端に、本来自分が何を願い、どこへ向かって歩みを進めていたかさえも吹っ飛んで、

「ともかくこの悪の是正に全力を尽くさねばならない」

となってしまうほどです。

確かに、そういう努力で状況がさらに改善するならば、それに越したことはないでしょう。

だけど、あまりにこの“不公平の是正”にばかり意識を向けすぎているために、

本来の歩みが損なわれてはいないだろうか。

「周りよりも損しているとか得しているとか、正直どーでもいいんだけど…」

ぐらいに、もしも思うことが出来たならば、どれほど煩いなく憂いなく、自分の本分に没頭できることだろうか。

そんな姿を体現することもまた、一つの理想と言えるでしょう。

それは“正義”なのか“枷”なのか

「不平等は許せない。」

「不当な損を負わされることだけは、我慢ならない。」

これは本当に、人間の本質的な思いと言ってもいいでしょう。

“今、十分に恵まれていて、本分を果たす上での不足はない。”

なんてことは、完全に無視されてしまい、

周囲と比べて、損しているか、得しているか、勝っているか、劣っているか、

という事ばかりを重要視してしまうものです。

そして、その“不平等の是正”“不当な損の撲滅”こそが“正義”となります。

一見この思いも行動も正しい事のように見えるのですが、

この“正義”に囚われすぎていると、それは大きな“枷”となってしまいます。

そういう“正義”に突き動かされることがなければ、

何の不足を感じることもなく、自分の目指す方向へと進むことが出来ていたわけですから。

限りある命で、目指せること、実現できること、努力できることは限られているわけです。

有限の命と労力を“何に費やすか”は、私たちが考えている以上に大切な選択に違いありません。

成し遂げたいことがあるなら、叶えたりことがあるなら、脇目もふらずにその思いを叶えるべく、突き進むぐらいの事も時には必要でしょう。

そんな時にさえも、

“周囲の人と、扱いが違う”

“あの人の方が、優遇されている”

なんてことが、やたらと目についてしまいます。

そして時に、本来の歩みを止めて、その“不平等の是正”に躍起になってしまいます。

このこと自体が、実は大きな損失だったりするのですね。

“平等に扱ってもらわないと我慢ならない”

との思いは、時に“自分にとって本当は、何が得で何が損なのか”の判断を狂わせてしまいます。

周囲と比べたちっぽけな“損得”の是正を果たすために、生きているのだろうか。

社会における“優遇”を勝ち取れば、それが人生の勝者なのだろうか。

そうではないはずです。

そういう”相対的な損得”に意識を持っていかれる、その己の心に打ち勝って、

本来、目指していた事に突き進み、己の本分に全力を尽くせる事。

これこそが本当の“勝者”なのですね。

自分の本分を果たせるなら、描いた理想を叶えられるなら、それに支障のないのなら、

周囲との損得・優劣など小事だと、

そんな思いで生きられれば、どんなにこそ清々しいでしょうか。

“見せかけの損失”と“本当の損失”

ここまで述べてきたことで、そんなに誤解はないとは思うのですが、

「周囲からどんな不当な差別を受けても甘んじて受けていればいい」と言う話では、もちろんありません。

そのことで自分の進みたい道が妨げられるのであれば、それは打破すべき障害です。

「進みたい道」と言ってもさまざまでしょう。

世の中へ大きな影響をもたらす結果を目指す道もあるでしょうし、

豊かな暮らしを実現させる道もあるでしょうし、

平穏無事で健やかな日々を過ごしたいと言う道もあるでしょう。

どんな人にも心から願っている事があるはずでしょうし、そのために歩むべき道もあるはずです。

そういう自分の“原点”からブレない事が、大切なわけですね。

あれも、これも…と色んな事に目移りしてばかりいると、限られた人生はあっという間に過ぎてしまいます。

願いを叶えるには、無条件に成されることは何一つなく、そのための因縁を求めてこそ成されるものです。

「世の中への貢献」も「豊かな暮らし」も「平穏で健やかな生活」も、無条件に得られる現実では決してなく、

そのための因縁を求めなければなりません。

その結果を長く維持するためには、さらにそのための因縁を求め続けなければなりません。

「因縁」とは、「自らの行動」(因)「他者との関わり」(縁)の事です。

どんな行動が必要で、他者とどう関わることが必要なのか。

それを常に模索して、実践してゆくことが「因縁を求める」と言うことです。

どんな結果にも、それ相応の因縁というものが必ずあるのですね。

原因なしに、結果は決して成り立たない。

この「因果の道理」は古今東西変わらない鉄則です。

私たちにとって大切なことは、

“心から願い求めている結果”と、“その結果に必要な因縁”

これに尽きるわけです。

この因果の道理に則った道を歩み続けることと、

“周囲との損得や優劣”

とは、さほど関係のない事なのです。

周囲がどんな結果を受けていようと、その事で自分の求めた因縁に応じた結果が損なわれることはありません。

だいたい、他人がどんな結果を受け、どんなに満足しているかなんて、知る方法もありません。

ただ「恵まれていそうな人」「幸せそうな人」がいるだけです。

本当に「恵まれている人」なのか「幸せな人」なのか、それはその人自身にしか知り得ない事です。

「損得の差」に見えることも「優劣の差」に見えることも、所詮は虚ろな見せかけの姿です。

本当のところは実体のない“損得”や“優劣”に心を奪われて、

本来進むべき、「因果の道理」に則った道から外れてしまうことが、本当の「損失」なのですね。

確かなことは、

自ら求めた因縁によって、間違いなくそれに応じた結果が自分に現れると言うことです。

虚ろな“損得”よりも、確固たる道理に則った因縁を求める道を見失わず、常に歩み続けたいものです。

もちろん、言うほど簡単なことではありません。

“周囲と比較しての損得”に何よりも敏感になってしまうのは人間の本性に起因するものですから。

そりゃあ、心奪われてしまいます。

だけどそんな中でも、極力、本来求めるべき因縁に目を向けるよう努めることはできるはずです。

一つでも、見せかけの損得に打ち克つことが出来たなら、それは本当に価値ある一歩だと言えるでしょう。

一歩でも半歩でも、道理に則った道を歩む努力が出来れば、十二分に誇れる姿なのですね。