「自分の現実はもう動かない」の思い込みの実態を解明〜見えない「因縁」〜

目に見える「現実」の背景に

毎日、同じような時間に起きて、
同じ電車に乗って、
同じ会社に行って、
同じ同僚、同じ上司と一緒に、同じような仕事をして…

すっかり「固定」されてしまったように感じる自分の現実に、
少なからず窮屈さを感じる人は少なくないと思います。

だけど本当は、
同じ場所、同じ時間帯、同じ人、同じ生活サイクル…
というように、自分の現実が「固定」してしまっているように感じるのは、錯覚なのですね。
「場所」「時間」「接する人」
これらは、私の「現実」のうちの、ごくごく表面的なものです。

目で見えて、耳で聞こえて、鼻で臭って、舌で味わって、皮膚で触れている
そんな五感で取り入れているものだけが、私の生きる現実の全てではないですよね。

私はいま、京都の街のあるカフェでこのブログ記事を書いていますが、
同じカフェ内でパソコンを開いて何やら作業をしている人は、けっこういます。
彼らとは表面上は、同じ場所で、一人で、同じような格好で、同じような作業をしている人、という事になります。
だけどそれは、ごく表面的な部分を切り取っただけの話ですよね。

会社に行けば、隣のデスクには同僚が座っています。
そして、会社から支給されている同じようなパソコンで共に仕事をしています。
その光景だけを見たら、同じような現実にいるように見えますが、
じゃあ、私とその同僚が同じ現実に生きているように思うか、といえば、誰もそんなことは思いません。
全く違う現実を生きている人同士が、たまたま今は空間と作業内容を共にしているだけの事です。

それまでどんな行動を積み重ね、どんな人と出会って、どんな価値観に触れて、今何を思っているのか。
そういう目に見えない部分で、私と彼らとは、全く異なっています。
だから当然、私と彼らとは全く違う現実に生きているわけです。
そして大切なことは、その「見えない部分」の違いなのですね。

私の「世界」を造る因縁

仏教では、一人一人の生きる「現実」は、一人一人がこれまで造ってきた「因」と「縁」とで出来ていると教えます。
「因」とはその人の「行い」のこと。
「縁」とは他人や物や知識や場所…などとの様々な「関わり」のことです。

生まれてから今まで私達は、数知れない「行い」を積み重ねてきました。
仏教では「行い」といっても、表面的に体でする行動口で発する発言ばかりでなく、その元となっている「心の動き」も含めて「行い」と言われます。
それらの「行い」が全て、自分の中に「因」となって残っていると、仏教では教えられます。
そしてそれらは全て、私の現実を生み出す「因」なのですね。

そしてまた私達は、これまで様々な人、物、場所などと「関わり」を持ってきました。
よく覚えているものもあれば、もう覚えていないものもあるでしょう。
また出会うであろう人もいれば、もう一生会うことのない人もいるでしょう。
とても気になっている人もいれば、全く興味のない人もいるでしょう。
よく行く場所もあれば、もう二度と行くことのない場所もあるでしょう。
「関わり」といっても様々ですが、私にとってはそれらすべてが「縁」です。

この「因」と「縁」とで、私の「現実」は作られていきます。
今の私の「現実」といっても、それは非常に奥深いものであることが分かります。
五感で感じているものなどは、「縁」の中のごく一部に過ぎません。
それをまるで自分の現実の全てと思うのは、あまりに狭い世界の捉え方と言わざるを得ません。

私の「現実」とは言葉を変えると、私の「世界」と言ってもいいですね。
一人一人が作ってきた「因」も「縁」も、それぞれ全く違いますから、
それらの因縁で作られている一人一人の「世界」は、全く違うものだと言えます。

同じカフェで隣同士で座っていても
同じ会社で隣同士で仕事をしていても
同じ家族として毎日一緒に生活していても
もちろんごく一部の「縁」を共有してはいますが、それだけのこと。
それぞれの因縁は全く異なりますから、それぞれ全く違う世界で生きているのですね。

嫌な現実がいつまでも続くように思うのは…

「同じ職場で仕事をしている」
と言っても、因と縁は、いくらでも変えられます。
たとえ
「仕事をしている場所」という縁がそのままでも、
「会社から与えられている業務」という行い(因)が変わらなくても、
他の部分での因や縁を変える事など、いくらでもできますよね。
「このブログを読んでいる」というだけでも、読んでいなかった時とで「因縁」はすでに変わっていますよね。
もしそれをきっかけに「思考」が変化していれば、「心の行い」という「因」がまた変わっています。
さらに、新たな勉強を始めたなら…
新たな人との関わりが出来たなら…
仕事終わりに過ごす場所をちょっと変えてみたなら…
「因」も「縁」もどんどん変わっていきます。

表面上の「職場」や「生活拠点」が変わらずとも、「世界」は大きく変わってゆきます。
私の世界は決して「固定」されたものではないのですね。

このように、つぶさに自分の「因縁」を観察し、それを変えてゆけば、確実に自分の世界は変わります。
それが「何も変わらない」と感じてしまうのは、自分の因縁の観察があまりに浅いのかもしれません。

特に、今の現実に大きな不満や不安を抱えている時には、余計に視野が狭くなってしまいます。
「あーあ、こんな会社、もう嫌だなあ…」
「この人と、早く別れたいなあ…」
「この同僚たち、自分と合わないからしんどいなあ…」
目に見えるものに対する不満や不安が増大すればするだけ、視野はどんどん狭くなって、
「自分の因縁を観察する」
というその「観察」が極めて浅く狭くなってしまいます。
そうするとますます、「自分の嫌な現実」が、まるで固定した、変わりようのないものに見えてしまいます。

そんな時に一度冷静になって、
「今の現実を作っているのは、私のどんな因縁だろうか?」
と考えてみてください。
もっともっと、今の現実を生み出している因縁は幅広く奥深いはずです。
それらを冷静になって、広く、深く、観察してみてください。
必ずどこかに、変化できる余地があり、現実を変える突破口があるはずです。
思ってもみなかった部分の因や縁を変えることで、思わぬ突破口が開けてくるものです。

「世界」は決して固定したものではない。
因と縁とで生ずる私の世界は、いくらでも変化してゆくもの。
そういう世界観を持ち、自分の因縁を冷静に観察する「智慧」こそが、どんな行き詰まりをも突破する力となるでしょう。