「自分のことならいくら貶めてもいい」と思ってたらえらいことになってしまった件

「他人を責める」も「自分を責める」も紙一重…?

他人の事を悪くなんて言えない。

他人を貶めるなんて、とんでもない。

けれど、自分ならば…自分なら、どれだけ貶めてもいい。

こんな風に、

他人を責めたり他人を悪く言ったり思ったりする事には強いブレーキがかかる反面、

自分に矛先を向けたならば、どこどこまでも責め抜いてしまう、

そんな両極端な感情が湧いてしまうことって、結構少なくないのですね。

いやあ、そんな感覚は全然理解できない。そんなん、逆でしょ。

と、思う人もいるかもしれません。

だけど、

「他人を責めること」と「自分を責めること」

これらは紙一重で、これらが、どこでどう転ずるとも知れないというのが実態なのですね。

他人のことを強く責める気持ちが高ぶっているかと思えば、突如、自分を強く責めたくなったり。

自分だけを責めているつもりが、知らず知らずに他人を責めてしまっていたり…

と「攻撃的な感情」は、どこに矛先を向けて発動するか分かりませんから、

本来意図していなかった事態になっていたことに愕然とする事になりがちなのですね。

私自身もかつて、

「自分のことなら、どれだけ責めてもいい」

なんて思って生きていました。

だけどある時、

「自分のことなら…」と言って正当化していた攻撃性が、自分の側にいた大事な人に向けられていることに、愕然としたことがありました。

「どれだけ責めてもいい」という対象を「自分」に限っていたつもりなのに、

「まるで自分を責めるかのように、他人を責めている」

という、思えば信じられないくらいに身勝手なことになっていたのです。

「これではいけない、どんな理由があっても、どんな関係であろうとも、他人は他人。

自分と同一視して、自分と同じように誰か責めるような事は、あってはいけない。」

と、その時は思ったものでしたが、それはまだ事の本質が分かっていなかったのですね。

「“自分”と“他人”の区別なんて当然にできる」

そんな思い違いを犯している事に、気がついていなかったのです。

「何」に向かって責めているのだろうか…?

「自分は自分、他人は他人。これは明確に割り切ることのできる区別である。」

これは一見、もっともなことと思うのですが、

先に述べたような、

「自分を貶めているつもりが、他人をも貶めている」

というような事態になるのは、

「自分と他人は明確に区別できて、“自分だけ”を貶めるという事ができる」

という発想がそもそも誤りだったことの現れとも言えるでしょう。

この誤りは、

「“自分”という独立した存在がある」

という、仏教で教えられる「我見」という迷いから生じているものと言えます。

「いつでもどこでも変わらず“自我”というものが存在する。」

人間の根本に、このような強い思いが根付いていることを仏教は指摘するのですね。

そんな「自我」というものをまず中心にドーンと据えて、

その「自我」に対する「他人」という存在をまた自分の周囲に据えてゆきます。

そうして、「“自分”と“他人”との対立構造」の世界を造り上げて、それをベースに物事を考え、行動する。

これが、人間が深く迷ってゆく姿だと言われるのですね。

この対立構造から、

「自己中心に生きるか、自己犠牲に殉じるか」

「他人を責めるか、自分を責めるか」

という両極端の発想が現れてきます。

この二者択一か、あるいはせいぜいその両者のバランスを取るか…

いずれにせよ、この二極の範疇でしか物事が考えられなくなってしまうわけですね。

どちらに傾くにせよ、常に「自我」の存在が前提となっており、それに縛られた思考しか出来なくなっています。

「自我を満たそうとして、周囲のあらゆるものを貪り尽くそうとする」のか

「自我を悪と見做して、ひたすらに貶め、責め続ける」のか

「自我を擁護するために、他者へ攻撃し続ける」のか

どの思考にも常にその中心に「自我」があり続けています。

ここから脱却するために仏教で説かれるのが「縁起」という教えです。

自分も他人も、それぞれ独立して存在しているのではない。

“関わり合い”を通して、その関わりの瞬間、瞬間に仮に現れているに過ぎないものが「自分」と「他人」である。

これが、「縁」によって「起」きているもの。すなわち「縁起」というわけです。

あなたが「これぞ私!」と実感できる時って、どんな時でしょうか。

好きなスポーツに打ち込んでいる時。

得意な仕事に打ち込んでいる時。

音楽を奏でている時。

創作活動に打ち込んでいる時。

家族との楽しいひと時を過ごしている時。

好きな映画や本などに没頭している時。

などなど、いろんな場面が考えられますが、何かに没頭している時にこそ明確に「私」を実感できる場合が多いでしょう。

もしかしたら中には、

「いや、そういう時はむしろ“我”を忘れています」

という人もいるかも知れません。

確かに没頭も極限に至れば、“我”が虚ろとなってゆく事もあるでしょう。

だけど振り返って、

「あの時の“私”こそが…」

という思いは後々に湧いてくるはずです。

つまり、何かとの“関わり合い”なしに「自分」というものを見つけることは不可能なのですね。

今、私はブログの文章を一人で打ち込んでいますが、このキーボードと画面の向こう側の読んで下さる方を想定して文章を考えています。

その作業を終えれば、食事をしたり、本を読んだり、寝たり…

その時々の行動をしている“私”がいますが、必ずその“私”は何かとの“関わり”の中に生じています。

すなわち「縁起」しているわけです。

そんな、あらゆる“関わり”から離れた、「独立した私」などが存在し得るでしょうか。

そんなものはどこにも見つけられないのですね。

必ず何かとの“関わり”に伴って“私”は生じているのです。

そして、その“関わり”は目まぐるしく変化して行きます。

関わる対象も変化しますし、関わり方も変化して行きます。

ということは、常に変化してゆく“関わり”ごとに“私”は生じているのですから、

関わりの瞬間ごとに、新たに新たに生じているのが“私”ということになります。

主体となる“私”も、関わりの対象となる“他者”も、いずれも固定独立した存在はあり得ないのですね。

ところがそんな「縁起」の法則を無視して私たちは、“関わり合い”から切り離された、独立した「自我」の存在を見てしまいます。

これが先ほど述べた「我見」という迷いです。

そんな「自我」など存在しないと、私たちの迷いを破る教えが「無我」という有名な言葉なのですね。

「実体をみる」視点から「関係をみる」視点へ

「人は一人では生きていけない」

「必ず誰かと関わり合って、私たちは生きている」

などとよく言われます。

そうは言っていても、その「関わり合って」の前にまず、独立した「自分」と「他人」を想定しているのですね。

これぞ根強い「我見」の為せるわざです。

「関わり合い」以前にまず、「自分」と「他人」はそれぞれ独立して存在する。

その独立した存在としての「自分」と「他人」が、関わり合いを持って生きてゆく。

こういう「自我」ありきの発想から、私たちはなかなか出られません。

だけど本当は、生まれた瞬間から死ぬ瞬間までずーっと、何かに関わり、何かに関わられて、その“縁”の中でしか存在したことがありません。

目まぐるしく変化してゆく“縁”の中で新たに新たに生じてきていて、今も“縁起”しているのが“私”であり“他者”なのですね。

そんな縁起の連続がただ展開している世界のどこに「責める」べき対象があるでしょうか。

もしあるとすれば、それは「我見」の迷いから造り上げられた虚構の「自分」や「他人」と言わざるを得ません。

何かを責めるという発想自体が、「我見」という迷いの産物です。

「他人を責める事」も「自分を責める事」も、真逆にように見えますが、「虚構の実体に囚われている」という点では同じです。

ですから「自分を責めてしまう」という気持ちもまた、縁起の道理に反する虚構に囚われた惑いと言えるでしょう。

「責めている」と思っている対象の実態は、自他ともに関わり合っている縁起の存在ですから、「自分だけを責める」というわけにはいきません。

自他ともに貶めるようなことに、図らずともなってしまうのは自然の道理なのですね。

“自分”と“他人”の固定した実体概念に縛られた生き方から脱却して、「縁起」の道理に則って常に“関わり”を意識して生きる。

このように視点をシフトさせることが、いろいろな歪みから解放される道と言えるでしょう。

「クソっ、あいつはどうして、ああなんだ、こうなんだ…」

「はぁー、私はどうしてこうなのかな…」

と、ついつい虚構の「自分」や「他人」の実体に縛られた思考に陥ってしまう私たちですが、

「今、どんな“関わり”の中に在るのか…?」

という“縁起”に目を向ける意識を持つこと一つで、“いま為すべきこと”が明確に見えてきて、

「自分」の虚構にも「他人」の虚構にも囚われることなく、より自由な生き様が現れてくる事でしょう。