「ずっと満たされ続けたい」の本音を叶える生き方とは〜息をするように種を蒔く人〜

その欲望は桁違い

「このディナーのコースが食べたい」
という気持ちと、
「これくらいのディナーコースを、何度でも何度でも行って楽しめるようになりたい」
という気持ちと、
どちらも「欲望」と言うことができますが、どちらの方が大きな欲望でしょうか。
…といったら、明らかに後者ですよね。
前者は1回キリの事しか言っていません。
だけど後者は、何回も何回も欲しいと言っているのだから、ずっとずっと大きな欲と言えます。

「この素敵な人と付き合いたい」
という気持ちと、
「素敵な人を、いつでも、何度でも、魅了出来るようになりたい」
という気持ちと、
これまたどちらも「欲望」ですけど、やはり後者の方がずっと大きな欲望です。
何度も何度も、素敵な人を惹きつけて、その人といい関係を築いて楽しめるようになりたい。
たとえその人と別れても、また新たに素敵な人との関係を作れるようになりたい。
「素敵な人と一緒にいたい」という願望を、何度も何度も、ずーっと満たし続けられるようになりたい。
そんな欲望ですから、桁違いと言っていいくらい大きな願望です。

どちらも欲望の現れですが、
「とりあえずの単発の欲望を満たす」ことをゴールに考えている人と、
「何度も何度も欲しいものを手に入れられるようになること」をゴールに考えている人とでは、
行動は全く違います。

目先の欲を満たそうとする場合は、誰が見ても「欲望を満たそうとしている」行動と分かります。
ところが長期的で継続的な結果を目指すためには、全く異なるアプローチを取ることになりますから、
とてもストイックで「欲望」のイメージとはかけ離れた行動となります。
パッと見た姿はあまりにも違うものだから、まるで欲望とは真逆の、禁欲的な人のように見えるのですね。

当の本人も、自分は禁欲的で欲望を我慢しているのだと感じることでしょう。
そして、単発の欲が満たされることをゴールとしている人を見て、
「自分は我慢しているのに…」
と、まるで損をしているように感じて、
「なぜ自分だけ、こんなに我慢しなきゃいけないのか」
と、とても不条理な気持ちになることすらあります。

だけど本当は、桁違いに満たされるところを目指して、そこへまっしぐらに進んでいるのが実態なのですね。

その思考は「惑い」かもしれない

「単発の欲望が満たされる」
をゴールとしている人は、「結果」に注目していると言えます。
それに対して、
「何度でも満たされるようになる」
をゴールとしている人は、「原因」に注目していると言えます。

「因果応報(いんがおうほう)」という言葉がありますが、
これは仏教の言葉で、
「原因に応じた結果が報いる」
ということであり、
「満たされたい」とか「欲しいものを手に入れたい」という「結果」は必ず、「原因」に応じて報いる「結果」だということです。
それ相応の「原因」無しに、望む結果はあり得ません。
冷静に考えれば当たり前過ぎることなのですが、私たちの「欲望」は、この冷静な判断を狂わせがちなのですね。

私たち一人一人に「欲しいもの」があることは当然の事です。
「お金が欲しい」
「他人からの尊敬が欲しい」
「素敵な人から愛されたい」
「ゆとりのある生活がしたい」
「旅行に行きたい」
「いい店で美味しいものを食べたい」
いずれも人として自然なことで、何も恥ずかしいことはありません。
そしてその「欲しいもの」を求めることもまた、何も悪いことはないですよね。

問題はその「求める」時に、「原因に応じて結果を得る」という、曲げようのない鉄則をショートカットして、
「結果だけ」を手に入れようとしてしまう、という事です。
これがまさに、「欲望」の引き起こしてしまう「惑い」です。
自分にそんな「惑い」が無いだろうか?
そんな惑いを起こしている時が、一日のうちにどのくらいあるかどうか?
自分の心を冷静に見ると、意外に心の中はそんな「惑い」だらけなのかもしれません。

物事を冷静に、システマティック考えれば、
「それ相応の原因無しに、結果などありえない」
「代償も無しに欲しいモノだけを手に入れられるなんてありえない」
に決まっています。
そうでなければ、ただの泥棒で、報いはロクな事にならない事は火を見るより明らかです。

ところが欲望はその鉄則をいとも簡単にショートカットしてしまおうという「惑い」を起こしてしまいます。
その結果だけを、その「欲しいモノ」だけを、自分にものにしようという「欲望の手」は、道理もヘチマもなく速攻で伸びてゆきます。

「因果応報」の道理を踏みにじってしまう「惑い」に、いかに支配されないかという事が、私たちにとっては、最初の、そして最大の課題と言えます。
その「惑い」からスタートしてしまっては、それはもう悲惨な結末しかありませんから。

だからこそ仏教は常に、「原因に注目しなさい」と忠告するのですね。
「因果応報」の教えは、私たちの欲望が常に起こす「惑い」に対する戒めです。
その「教え」を指針とすれば、
「欲しいもの」があろうと、「満たされたい」と思おうと、注目すべきはとにかく「原因」です。

この場合の「原因」は、私たちの「行い」という事になります。
「お金」であれ「他人から尊敬」であれ「ゆとり」であれ、
他人や社会からの「報い」を受けるための原因は、
「私が何かの価値を提供すること」
ですよね。
だから、私たちは働くのだし、親切を心がけるのだし、周囲に楽しんでもらえるように気遣いをするわけです。
いずれも体力や神経をすり減らすことに違いありません。
時にはお金だってかかります。
けれどそういう「与える」努力、「提供する」努力「因」となって、「自分が満たされる」という結果が得られる。
この「因果応報」の鉄則は、本当は誰もが分かっているはずのことです。

この道理に従って、「結果」の方ではなく「原因」の方に注目している姿は傍から見れば
「ストイック」「禁欲的」
と映っても不思議ではありません。

息をするように「因」を造る人

「結果」ばかりを見ていれば見ているだけ、どんどん満たされなくなってしまいます。
「原因」に注力すればするだけ、どんどん満たされるようになります。
「因果応報」の道理からすれば当然のことです。

「与える」事、「提供する」事を、仏教では「布施(ふせ)」と言います。
「布施」というのは、因果応報の道理から教えられる、自分が結果に恵まれるための「因」となる行いです。

「因」である「布施」の行いに心がければ心がける程、継続的に自分が満たされる結果となります。
そして、その「布施」の行いが、もはや「心がける」までもなく、習慣的に出来るレベルにまで昇華されたならば、
それは永続的に自分に結果をもたらす「スキル」と言えます。

「自分を磨く」というのは、この「スキル」を身につける事に他なりません。
人を喜ばせ、安心させ、楽しませ、希望を抱かせる
そんな「行い」を、まるで息をするように周囲に対して出来るような「スキル」を持っている人は、
「布施」という「因」を、当然のように造っている事になります。
それが出来るようになるため努力することを「自分を磨く」と言っているわけですね。

もちろんそうなるためには、
それが出来ているような人を手本として、
これまでの自分と違う習慣を自分の中に取り入れようとするのだから、「不快ゾーン」に身を置くことになります。
これまでの習慣通りに過ごし、気を遣わなくていい人と過ごすのは「快適ゾーン」にいると言えます。
自分の「因」を変えて行き、新たな「布施」の出来るスキルを身につけるためには、「快適ゾーン」から「不快ゾーン」に身を置かざるを得ません。
そんな中で繰り返し繰り返し「布施」の行いを実践する事で、少しずつ「スキル」は身についていきます。

そうやって、継続的に、習慣的に、望む結果が得られるような「因」を作れる自分になる事が、
最も自分を満たすことができるための道なのですね。

そういう道を歩んでいる人は、一見すると「欲望」から離れているように見えるでしょう。
本人さえも、「欲望を抑えて我慢している」と感じることでしょう。
だけど本当は、少しずつ、少しずつ、ずっとずっと満たされ続けるような自分に変化しているのですね。
自分の日常の「因」が変化し、着実に結果が変わってゆき、人生が変わってゆく道を一歩一歩進んでいる姿なのです。

「我慢している」のではなく、自分の中の「惑い」に負けずに、因果応報の道理にかなった「満たし方」をしている。
そういう視点を持てば、現状に対する見方は大きく変わることでしょう。