「出来ない」が「出来る」になる法則〜「コツを掴む」の真意〜

「コツを知りたい」ってのは安易な考えなのか?

「この仕事、何かコツでもないかなあ」
「恋愛のコツを、どうか教えてもらいたい」
「英語の勉強も、コツさえ掴めたならば…」

こういった、
「コツを掴みたい」
という願いは、多くの人が持っていることと思います。

そんな「コツ」を求める要望に対して、
「そんな楽しようなどと考えるな。コツなどない。努力あるのみだ!」
と、手厳しい意見をぶつけられてシュンとなってしまう場面も、よくありそうです。
「コツを掴む」と聞くと、なんというか、
「安易な方法にすがって、楽して結果を得ようとしている姿勢」
みたいな印象を受けるのも、まあ分からないでもないのですが…

本当は大事なことなのですよ。「コツを掴む」ことは。
けれど、同時に沸いてくる「楽して結果を得よう」的な、ネガティブな印象は、
コツを得ようとすることへ無意識の摩擦を起こしているかもしれません。

あなたには、ないでしょうか?
「コツを掴む」ことに対する、どこか「苦労から逃げようとしている」ようなマイナスのイメージは。
私はこれ、けっこう根深い問題なんじゃないかと思っています。
多くの人が無意識にそんな思いを抱いていて、「コツ」へと目を向けようとする努力に無意識のブレーキをかけているのかもしれません。
これは「コツ」に対する大きな誤解から生じています。
その誤解が、「コツ」を求める際に少なからず摩擦を起こしてしまっているのですね。

「『コツ』って、何のことですか?」
そう聞かれたら、あなたならどう答えるでしょうか。

実は私も最近知ったことなんですけど、
「コツ」って、漢字で「骨(こつ)」と書くそうですね。
…知っていました?
「コツを掴む」というのは、「骨(こつ)を掴む」ことである。
「骨組みを知り、骨格を知り、本質をとらえる」ことである。

私は、このちょっとした知識を得てから、「コツを求める」ことへのマイナス感情は、すっかり無くなりました。

「仕事の骨(こつ)」
「勉強の骨(こつ)」
「恋愛の骨(こつ)」
「整理整頓の骨(こつ)」
いずれもいずれも、大いに知ろうじゃないか。
いや、そうしなければ、これらの何一つも、満足に果たすことなどできないでしょう。

仕事であれ、勉強であれ、人間関係であれ、
「骨(こつ)」を知らずに、表面的なテクニックばかりを掴もうとしても、
得られるものは、「へえ〜」「なるほど〜、そんなテクが…」という一時的な浅い満足感ぐらいで、
自分の人生を望ましい方向へと動かす力は期待できないでしょう。
「こんな言葉を言ったら喜ばれる」
「こういうメールを送れば、状況は一転する」
そんな、デキる人の一手、一手を、ただ表面的に眺めているだけでは、
「なんかすごいなー」という浅い感心だけで終わってしまいます。

だけど、その「一手」の奥にあるその人の「骨(こつ)」を掴んだなら、
なぜその「言葉」を選ぶのか。
なぜこのタイミングでのこのメールなのか。
その本質が理解できますから、それがそのまま、自分の人生を動かす実践に応用できます。

「骨(こつ)」は、
仕事、人間関係、健康管理、ビジネス…
あらゆる場面における「技術」や「業務」や「表現」を生み出す「元」であり、
「考え方」「思想」とも言い得るものです。
人間の価値ある営みは、すべて「思想」から出ているというシンプルな法則を、私達は常に見失ってはいけません。
それが「骨を掴む」ための最も大切な姿勢と言えるでしょう。

100のテクニックを知るよりも、1つの「骨」を知るほうがはるかに大事だということです。
それは、努力を放棄して楽をしようという事では決してありません。
自分の人生を根本的に動かすための努力をする事に他ならないのです。

難解な書物との付き合い方

日本を代表する哲学者・西田幾多郎の書いた「読書」という短い文章の中に
「骨」についてこんな風に述べてあります。

書物を読むということは、
自分の「思想」がそこまで行かなければならない
一脈相通ずるに至れば、
暗夜に火を打つが如く、
一時に全体が明となる。
偉大な思想家の思想が自分のものとなる。

偉大な思想家の書を読むときには、その人の「骨」というものを掴まねばならない。
そして多少とも自分がそれを使用し得るようにならなければならない。
偉大な思想家には必ず「骨」というものがある。
大なる彫刻家には鑿の「骨」
大なる画家には筆の「骨」があるのと同様である。
「骨」のない思想家の書は読むに足らない。

偉大な思想家や学者の書いた本を読んで、
「難しいな…」「難解だな…」
と感じることは、よくありますよね。
特に哲学書なんて、本当に何言ってるんだか、チンプンカンプンとなってしまいます。
読めば読むほどストレスで、正直もう読むのが嫌になってしまいます。

けどそれは、まだ「骨」を掴めていないということなのですね。
だから私は、そういう難解な書物を読む時は、
一回目は、「一通りを読む中で、1つでも何かしら『骨』が掴めたら…」という思いで読むことにします。
読んでいる途中で理解できない箇所がいくつもあっても、
「今は、まだ『骨』を掴めていないから仕方がない…」
と、耐えながら読み進めます。
そうやって、一通りを読んだ時に、1つでも、2つでも、
「なんとなく、こういうことを言いたいのかな…」
「こういう考え方があるのかな…」
と、その人物の「骨」「思想」らしきものに触れることが出来たならば、
2回目、そのことをよく念頭に置いて、読み進めてみる。
すると、1回目よりも理解できる箇所がはるかに増えていることに気が付きます。

著者が書く「言葉」は、ただ書いているわけじゃなく、その人の「骨」をすなわち「思想」を、
様々なアプローチで明かそうとしている努力に他ならないわけです。
無数の「言葉」のその奥にある「骨」を少しでも掴めれば、その瞬間から、その人の放つ「言葉」の一つ一つが、強く心に迫ってくるようになります。
読めば読むほど、その人の「思想」を自分の中に取り入れていることが実感できるようになります。
自分の中に、これまでになかった「思想」を取り入れてゆく…
ここに読書の大変な価値があるのですね。

そう考えると、「難解と感じる書物」ほど、その奥にものすごい宝が潜んでいるのかもしれません。
なぜなら「難解だ」と感じるのは、自分にまだ、その奥にある「骨」がないからであって、
根気よくそれに挑むことで、自分になかった「骨」を、自分の中に取り入れて行けるかもしれないのだから。

「デキる人の真似をしなさい」の真意

「あなたの周囲に『デキる』人が、『モテる』人が、『なぜか上手く行く』人がいたならば、
その人をよく観察して、その人の真似をするように心がけなさい。」

これは、色々な所で、鉄板の成功法則として言われていることです。
私もこれには、何一つ反論の余地はありません。

お手本となるその人の言うこと、やること、その一つ一つをつぶさに観察すること。
そしてとにかくその通りに自分もやってみること。
「学ぶ」とは「真似ぶ」ことである。

全くその通りだと思います。
ただそこに、さっきの西田幾多郎の「読書」の心得を応用することで、
その本質がよりハッキリしてきます。

「書物」ならば、その著者の「言葉」「表現」「言い回し」の奥にある「思想」を掴むように努めることが大切であるように、
「お手本となる人」ならば、その人の「言葉」や「行動」の奥にある「思想」を掴むように努めることです。
「どうしてこの言葉なんだろう…」
「どうしてこのタイミングでその行動なんだろう…」
その人の「思想」「考え方」が掴めていないうちは、ちょうど難解な書物を読むように、
その人の言動がチンプンカンプンで、それを観察することがストレスにすらなるかもしれません。
まして、そんな理解できない人の言動を真似るなんて、気持ち悪くて仕方ないでしょう。

それは仕方のないことです。
まだその人の「骨」を掴んでいないのだから。
自分の中にない「骨」を掴もうとしている真っ最中なのだから。

しかも、たいていの場合はその人の「骨」を、わざわざ教えてはくれません。
別に意地悪して教えないわけではないのですね。
その人の奥底に染み付いている「行動の源」なのだから、
「言葉」も「行動」も、その「源」から出ているものなのだから、
その「出処そのもの」を言い表すことは、極めて困難なことです。

もちろん、「一言で言えばこういうこと」って、一応は言えるかもしれません。
だけど、その言葉に込めた「思想」が、本当にそれで相手に伝わるかどうかは別です。

だから、その人の「言動」の一つ一つを出来るだけ多く観察して、
「どうしてここでこの言動なのか」と、
常に、その奥にある「思想」を「骨」を掴もうとする姿勢を持ち続けることが、
結局のところ、最も早くその人の「骨」を掴む道となるわけです。
気持ち悪くても、意味が分からなくても、その人の言動を真似る事も、「骨」を掴むための手段に他なりません。

昔ながらの職人が、弟子に技術を身に着けさせる時に、
親切に説明してくれずに、
「見て学べ」
と突き放すように言うことがあります。
それは一見、意地悪しているようにも思えますが、
とにかく一つ一つの言動を徹底して観察し、
常に「どうしてこんな動きをするのだろう…?」という、
「骨」を掴もうとする姿勢を持ち続けることが、本当は最も「その人」に近づける道なのですね。

そう考えると、
「いや、骨を掴むって、大変だな…」
と思うかもしれませんが、
その分、一度「骨」を掴むと、すごいですよ。
初めて自転車に乗れるようになった瞬間のように、
初めてスキーが出来るようになった瞬間のように、
人生の光景は驚くほどに変わり、自分の望む方向へと人生が加速してゆくことを実感することでしょう。