「心が疲れてしまう」という深刻な苦痛
「心がしんどくなる」
って言葉をたまに聞くのですけど、
この「心がしんどい」って、相当辛い状況なのだろうなと思います。
何気ない言葉のようですけど、「体がしんどい」よりも、これは深刻なのかもしれません。
ジムに行ったり、ランニングコースを走ったり、体を動かして汗をかいて、ほどよい「疲労」を感じるのは、
心地よいものですね。
けれどもちろん、過度の疲労を重ねすぎると病気になってしまいます。
そんな肉体的な疲労は分かりやすいですが、精神的な疲労となると、目に見えない「心」のことなので、なかなか分かりにくいですね。
だけど、私達は日々感じていますよね、「精神的な疲労」
どんな時に私達は、精神的に疲弊するでしょうか。
仕事をしている時とか、
人と会って話をしている時とか、
家事をしている時とか、
勉強をしている時とか、
それとも、自分の部屋に一人でいる時とか。
「心」は、基本的にいつも忙しく動き続けていると言えます。
その心の動きが、何か明確な目的へと向かって、生き生きと動いているのなら、多少の疲労も心地よくすらあります。
「考えること、一杯だよなあ…」
というような状況でも、
その「考えること」の一つ一つが、自分が望む未来に向かって突き進めることであるなら、
そんなに疲弊するようなことはないのですね。
「まず、この仕事をしっかりこなさなきゃ…」
「あと、この勉強はもっと進めなきゃいけないな、その計画は…」
「このコミュニティに関しては、もっとマンネリを打破してひと工夫していかなきゃ。」
「この人との関係をもっとよくしたい、そのためには…」
「そろそろ新しいプロジェクトに着手しはじめようか…」
こんな風に色々とあればそれは、「考えなきゃいけないこと」だらけで大変だ…となりますね。
もちろんそれもあまりに過度にあると、キャパオーバーになってしまうのですが、
それでも一つ一つの思考が、ちゃんと自分の未来を生み出していることを実感できますから、悩み甲斐があります。
考えると共に、自信や希望が湧いてくるので、それがまたエネルギーとなっているのですね。
そういう意味では精神的エネルギーがただ消費するのではなく、時に増大すらします。
さらに、器は拡大されてゆき、より大きなエネルギーを持つための投資とも言えるでしょう。
ところが、同じ「考える」や「悩む」でも、
「あの人は、私のことをどう思ってるんだろうか…」
「みんなに、嫌われていないだろうか…」
「あの時、余計なこと言ってしまったな…本当にバカなことを言ってしまった…」
「どうしてあの人は、ああなんだろう…」
こういう事を、いつまでもいつまでも考えていると、それは膨大なエネルギーの消費になってしまって、ただ疲れる一方となってしまいます。
同じ「考える」でも、「疲れる」度合いが全然違うのですね。
なぜならこれらは、「他人」の事や「過去」の事で、自分でコントロールの出来ない事だからです。
他人の思いや行動は、その他人にしかコントロールする事は出来ません。
私の意思でコントロール出来ることではないのですね。
過去の事も、今となってはもう変えようがありません。
そういう、決してコントロールし得ないものに対して、いつまでも考えたり悩んだりしているのは、
そこに自らの人生が動いてゆく気配がありませんから、まるでチェーンの外れた自転車のペダルを全力でこぐように、
なんとも言えない徒労感と疲労感ばかりが残ってしまいます。
グルグル、グルグルと、堂々巡りになってしまうような思考を果てもなく続けてしまうのは、とてつもない精神的エネルギーの消費となってしまいます。
それこそまさに、「心がしんどい」の極地に至ってしまう道と言えるでしょう。
「思考がグルグル堂々巡り」は、止められないのか…?
「空回り」と「堂々巡り」の思考にハマってしまうと、これが中々抜け出せないのですね。
「心」は、目に見えませんし、手綱もついてはいません。
始まった「思考」は、なかなかに止めがたいものです。
「思えてくるのは、どうしようもない…」
という話ですよね。
「思考が、空回りにならないように、堂々巡りにならないように…」
そう言われても、「じゃあ制御します」という事でうまくいくものでもありません。
なぜなら、それらの思考を次々と生み出している元が、仏教で「煩悩」と呼ばれるものだからです。
激しい欲望、燃え盛る怒り、渦巻く憎悪…
これらは皆「煩悩」の一つですが、こういう「心」はもう、止めようがなく、抑えようがないものです。
だから、これらが次々と色々な「思考」を生み出すことも、抗いようがありません。
ですから、
「私達が、いつ、どんなきっかけで、どんな思考を始めるか」
これをコントロールすることは難しいでしょう。
だけどどんな「思考」が始まるにせよ、その「思考」に、一定のクセ付けをしておく努力は出来ます。
極力、グルグル空回りするような、ただ疲弊してしまうような「思考」とならないように、
一定のクセ付けや方向付けを、自らの「思考」に対して施す努力は、とても大切なことです。
その鍵となるのが、
「自分の現実を観るための、どんな視点を持つか」
ということです。
「これが、私の現実…」と、しみじみと思うこともありますが、絶えず私達は様々な現実を味わって生きています。
その「現実」が引き起こる因果を仏教では「自業自得」と教えられています。
ここで「業」というのが私達の「行い」のことで、
その「行い」に、心の中で行われる「思考」も含みます。
というか、心の中でなされる「思考」こそが、表面上に現れる「行動」の元となっていますから、
「業(行い)」の中でも特に重要なものと言えます。
そんな「思考」や「行動」が原因となり、自分の未来に様々な現実を生み出してゆく。
これが「自業自得」ということです。
ただ、それだけで終わるわけではないのですね。
その「果」からすぐさま、次の「因」がまた造られてゆくこととなります。
私達は何かしらの「結果」を受ければ、かならず何かしらの思いを抱き、新たに「思考」を始めております。
「思考が現実を生みだす」
とも言えますが、
「現実がまた新たな思考を生みだす」
とも言えます。
なんだか、鶏が先か、卵さ先か、みたいな話ですが…
そうやって「因果」の連鎖が人生を形作ってゆくわけですね。
しかし、
「現実が、新たな思考を生みだす」
とは言っても、自分の身に起きる現実が、必ずしも一様の思考を生みだすとは限りません。
同じ現実にぶつかっても、その現実をどんな「視点」でみるかによって、そこからどんな「思考」が生まれるかが大きく変わります。
家庭の中で、仕事の現場で、友人関係の場面で、
日常の様々な場面で自分に現れる現実から、どのような思考が生み出せるのか
その鍵を握っているのがまさに、その現実を観る「視点」なのですね。
複雑な現実を前に、どう思考する…?
自分に起きてくる「現実」は、考えれば考えるほど、色々と複雑なのですね。
「人間関係」一つとっても、
家族、友人、仕事仲間、顧客…
それぞれがまた複雑な心情を抱いていて、自分に対しても「好意」や「尊敬」や「嫌悪」や「敵意」など、
様々な感情を向けてきます。
その他にも、
「経済的事情」や「健康」や「能力」や「コンプレックス」など、
挙げればキリがない程、「自分の現実」に目を向けたときに考えずにいられない要素が色々とあります。
その一つ、一つを悩んで、考えて…
ということを無秩序にしていたのでは、キリがなく、出口の見えない迷路を彷徨うことになってしまいます。
考え続けて、グルグルと、堂々巡りを起こしてしまう。
出口の見えない迷路を右往左往してしまう。
そんな複雑極まる「思考」に、一定の方向性を与える「視点」
それが、仏教が教える「因縁を観る視点」です。
私に起きた現実も
今起きている現実も
これから起きてくる現実も
全ては「因」と「縁」とが合わさって現れるものである。
これが仏教が教える「因縁生」という教えです。
私の現実を生みだす「因」は、私の「行為」です。
これまで、どんな「行い」をしてきたか、
今は、どんな「行い」をしているか、
そして何よりこれから、私はどんな「行い」をするべきなのか。
その「行い」が私の未来の現実を生みだす「因」となり、着実に積み重なってゆきます。
「他人が私をどう思っているか」も、気になるでしょう
「自分の会社がどんな待遇をしてくれるか」も、無視できないでしょう
「世の中の情勢がどうなってゆくか」も、心配でしょう
だけど、それらの状況がどうあっても、あくまで私の未来を生みだす「因」は、私の「行動」しかありません。
それ以外に、自分の現実を生みだす「因」はないのですね。
それは、田んぼや畑に蒔く「種」のようなものです。
自分の未来に現れる「現実」が、作物の「実り」であるとすれば、
「実りが現れてほしい…」
「こんな実り、になったら、あんな実りになったら、だけどこんなのは困るな…」
「いつ実るのかな、どうして実らないのかな…」
「今の実りは、どうしてこうなのかな、ああなのかな…」
「過去の実りと比べて、今の実りは見劣りするな…」
そんなことを、どれだけあれこれと考えても悩んでも、
「種」を蒔かない事には、未来の実りを変えられる見込みはまずありません。
考えるべきことは「種」のことであり、
どんな種を、いつ、どうやって蒔くのか、という事です。
その「種」が、自分の「行い」です。
だから最も注目すべきは自分の「行い」であり、それこそが「因」だと教えられるのですね。
そんな「因」があってこそ、それが様々な「縁」と結びついて、自分の現実は生み出されていきます。
この「縁」が、自分を取り巻く色々な人や物などの「環境」です。
これらは、私にとって「縁」の一つ一つです。
自分はどんな「因」を造り続けてゆくのか。
そしてどんな「縁」を選んでゆくのか。
これまでの「因縁」を踏まえつつ、これからの「因縁」を模索してゆく。
これこそ、「因縁を観る」という視点に立った、自分の現実を着実に好転させてゆく「思考」と言えます。
「因縁生」の道理をよく知り、「因縁を模索する」という思考を身に着けたならば、
未来の実りへと、一つ一つの「思考」が近づけてゆくことを実感できることでしょう。