「人生の可能性は無限大」なんて、綺麗事?
「人生って素晴らしい」
なんてことを、心から言える人がどれくらいいるか…
「人生なんて、ロクでもない」
と思ってしまう人が、どれほどいるか…
これは人によってもそれぞれだし、同じ人でもその時その時で変わってゆくものでしょう。
じゃあもっと突っ込んで、
「『人生』の素晴らしさとは何か、を挙げてみてください」
と問えば、どんな答えが返ってくるでしょうか。
例えば、
食べたり、飲んだり、旅行へ行ったり、遊んだり、仕事の達成感を味わったり、家庭での楽しいひと時を過ごせたり、
とにかく「幸せだ」と感じられることが、人生にはいっぱいある。
そんな「幸せ」の選択肢が実に多様に存在するところに「人生」の素晴らしさがある、という事はよく言われます。
「人生は、希望に満ちたところ」
「人生の可能性は、無限大」
「人生は、夢だらけ」
これらの言葉はまさに、そんな価値観を表しています。
あなたは、そんな言葉に「そうだ、そうだ」と共感できるでしょうか。
それとも、「そんなのは、限られた人だけのことだ」と思うでしょうか。
確かに、
「幸せを味わえるチャンスが、あっちにも、こっちにも、一杯ある」
と感じている、恵まれた人ならそう言えることでしょうし、
「そんなもの、自分には全然見当たらない…」
と、人生に行き詰まり感を覚えている人にはそんな「素晴らしさ」は全然共感できないかもしれません。
調子のいい時は、「人生に希望が満ちている」と感じることができていても、
その数々の「希望」を支えている「能力」や「健康」や「お金」や「パートナー」などの「支え」を失い、
それと同時にそれまであった数々の「希望」が失せてしまって、悲しみや不安しかない…
そんな事になってなおも「人生」に素晴らしさを感じる事は難しいかもしれません。
順境であれ逆境であれ関係なく、「人生そのものは素晴らしい。」
どんな人の人生も、「人生そのものに素晴らしい価値がある。」
なんて事は綺麗事でしかないと思うのも無理はありません。
「人間界」って何ですか?
仏教では「人生」というのは「『人』としての『生』」であり、
そんな「人」として生きられる世界を、「人間界」と言われます。
「人間界」なんて聞くと、まるで、いわゆる「異世界」なるものがあるような響きがして、ファンタジックな話なのかと思う人もいるかもしれません。
ですが、そんなファンタジーを持ち出さなくても、私達人間とは全く異なる「世界」は確かにあります。
分かりやすいのが動物の世界です。
犬や猫や鳩やカラスや金魚やコイ、バッタやコオロギやカマキリやアリ…
人間以外の生物がこの地球上には、分かっているだけで200万種近くいるそうです。
仏教では、彼らは人間とは異なる世界に生きていると言われます。
確かに、私達からは動物が生きている姿を確認することは出来ます。
「生物学」という学問分野は、彼ら生物たち(人間も含みますが)を対象として、その生き様をとことん研究し、詳細に解明しています。
これだけ解明されている動物達はもはや「異世界」の存在とは言えないのではないかと思われますね。
しかし、そんな生物に対する研究や解明をどれだけ深く広くなされたとしても、
それはあくまでの「人間界の範囲内」での解明であって、その解明をもって、「動物の世界を知った」とは言えないのですね。
じゃあ、どんな事を「動物の世界を知った」と言えるのかと言われれば、
「動物の世界は、実際に動物に生まれないと分からない。」
と言わざるを得ません。
「人間」として生まれてきて、生きている以上、私達は何を見ようが何を聞こうが何を知ろうが、
それらはすべて「人間界」での事ですから。
仏教で言う「動物の世界」は、
犬として生まれた者が、
猫として生まれた者が、
蚊として生まれた者が、
金魚として生まれた者が、
どんな「世界」を生きているのか、という事を語っているものです。
犬や猫を飼っている人なら、身近にいる犬や猫を見て、
「この子は、嬉しいのか、悲しいのか」
ということをよく考えると思います。
だけどそれをどれだけ深く考察しても、あくまで「人間として」の発想でしかありません。
たとえば犬や猫が「学校」という建物を見ても、私達人間のように
「あ、あれは学校だ」
なんて思いません。
一万円札が山と積まれた「札束」を見ても、
「うひょー、こんな大金…!」
なんて人間のように感じたりもしません。
じゃあ、彼らは何を見て何を感じているのか…?
それを本当の意味で知ることはできません。
「食べて腹を満たす」とか
「寝て体力を回復させる」とか
「気温が高いと暑がっているらしい」とか
色々と人間と共通していると思える特徴はありますから、
そこから彼らの世界を推し量ることは出来ます。
だけど、そうやって推し量った「世界」は、「人間界」でのイメージで推し量れる範囲内での、ごくごく一部のことで、
彼らが生きている、本当の「動物の世界」は、やっぱり動物に生まれてみなければ知りようがありません。
仏教ではそんな動物の世界のことを「畜生界」と呼ばれます。
「人間界」だけでは分からない「人生」の素晴らしさ
「畜生界」の特徴を私達でも理解できる範囲で言えば、
「不安に満ちた世界」
と言うことが出来るのですね。
「飢え」の不安と「捕食される」不安の2つは、彼らには常に隣り合わせです。
肉食動物は文字通り「肉」を食べます。
だけどその「肉」は、私達人間のように、スーパーに行ってお金を出して買うことが出来るような肉ではなく、
生きて逃げ回る他の動物を捕まえることで獲られる「肉」です。
そうやって獲られた「肉」でしか腹を満たすことができない。
そんな状況は、私達にはちょっと想像できません。
少なくとも日本で生活していれば、基本的に今日食べる物の心配をする事はありません。
本当に「飢餓状態」になるとすれば、それはよほど「特殊」な状態ですよね。
ですが「畜生界」は、それが「普通」なのですね。
畜生界に生まれたからには、「飢餓」と隣合わせの不安を死ぬまでずっと感じて生き続ける現実が、
彼らの本能に深く刻み込まれています。
また、「草食動物」なら生えている草で腹を満たすことが出来ますが、
肉食動物に捕食される不安を本能に抱き続けて生きなければなりません。
いずれにしても常に「不安」と隣合わせ。それが「畜生界」の本質なのですね。
ペットとして人間に飼われて、定期的にエサにありつける、人間に近い生活をしているというのはかなり特殊な状況ですね。
ですがそんな環境に身を置いたとしても、彼らの本能に刻まれた「不安」がそれによって消えるという事はありません。
私たちにはとうてい想像し得ない「不安」を常に抱えて生きている世界が畜生界です。
そんな、「人間界」とは異なる世界の存在を踏まえて「人生」を捉え直すと、
「畜生界」に生まれることなく、「人間界」に生まれることができたのが「人生」
「畜生界」で生きることを免れて、「人間界」で生きられているのが「人生」
と言えるのですね。
そんな「人間界」に生きている以上、そこでどんな不安の渦中にあっても、
「畜生界」の「不安」に比べれば、まだましだと言われます。
常時「飢餓」と「捕食」の不安と隣合わせで心が休まる余地がない畜生界とは異なり、
人間界は、状況次第でどこかに「安らぎ」を見つけることができます。
たとえそれがほんの僅かであっても、束の間のものであっても、それは「畜生界」では得られない「安らぎ」です。
そこに「心のゆとり」を持つ余地が出来ます。
ほんの僅かでも、「心のゆとり」を持ち得るということは、そこに無限の可能性があるという事です。
その「心」で、何かしらの種を蒔くことが出来るのだから。
仏教では「心で思う」という行いを「意業(いごう)」と言われ、状況を好転させてゆける立派な「行い」であると言われます。
それは、行い(業)という「種」を蒔き、人生の結果を変えてゆく事に他ならないのですね。
その「心の種まき」から、少しずつでも状況を好転させてゆく余地が、どんな逆境に陥ってもあり得るという事です。
ちょっとの「因縁」で、結果がどう動き、どう変わるか知れないのが私達の人生の因果です。
その因果の視点から観たなら、「人生」はどんな逆境の中にも無限の可能性が秘められていると言うことが出来ます。
「人生には無限の可能性が秘められている」
は、決してただの綺麗事ではないのですね。