「正義の怒り」が全てを焼き払う前に~「怒り」の因縁を見抜く~

「正義の怒り」を抱くとき

怒りの気持ちが起きるのは、強く求めているものがあることの現れと言えます。
何かを強く欲する人に、それが妨げられて、「許せない!」という気持ちが吹き上がるものです。

「怒りは、欲が妨げられた時に起こるもの」
仏教では「怒り」はこのように定義づけられます。
だから、私が何も欲していない時に、「怒り」は起こりようがないのですね。

だけど時に、「他人事」を見た時に腹が立つときもありますよね。
別に自分が何か危害を受けているわけではない。
何かを求めていたわけではない。

ただ、他人の不当な行いそのものが許せない。

たとえば、
職場で、他人がある上司から不当な扱いを受けているのを見たとき。
テレビで、ある企業の役員の不祥事が報道されているのを見たとき。

私自身がそれらの行いで直接損害を被ったわけではない。
私の何かが妨げられたわけでもない。

そうなんだけど、無性に腹が立つ。
そういう行為そのものが、なんだかとても許せない気持ちになる。

そんな時もあると思います。
「欲が妨げられた時に起きるのが怒り」
だと言うなら、この「怒り」は何なのでしょうか。

やはり、自分の欲望とは無関係に、いわゆる「正義」の思いから、「こんな行動は許せない!」というような「怒り」もあるのでしょうか。
だとしたらその「正義」の気持ちって、何なのでしょうか?

たとえば、こんな状況を想像してみてください。

小学校の先生が授業をしている最中に、ある生徒の男の子が隣の子供にちょっかいをかけはじめた。
1度注意しても2度注意しても、しばらくするとまた隣の子供にちょっかいをかけはじめる。

実はその男の子は、とてもユーモアのある子供で、クラスの友達からも好かれていた。
また、友達が困っていたら、積極的に助けるという行動力もある子で、先生もそんな彼のことをいつも微笑ましく思っていた。
ところがたまに調子に乗りすぎるところがあって、大事な時に集中できなかったり、あまつさえ周りの集中さえ乱してしまうこともあった。

先生は、
ユーモアやひょうきんなのはいいけれど、集中しなきゃいけない場面は、ちゃんと集中しなきゃいけない。
そして、周りのみんなも集中しようとしているのだから、迷惑かけちゃだめだ。
そういうことを彼に伝えてやりたかった。
それも、「だめだよ」と、軽く注意しているだけでは伝わらない。

そんな時に、先生は彼の目の前に立ち、彼の目をまっすぐに見て、彼もびっくりするような強い口調で、叱りつけた。
いつも優しいあの先生が、こんなに厳しく注意したことに驚いたその男の子は、何か感じることがあって、自分の行動を反省した。

…さてこの先生は「怒っていた」のでしょうか。
もしかしたら生徒は「怒られた」と言うかもしれません。
だけどこれは「怒り」とは言わないですね。

「このままじゃ良くない」と思い、
そしてそれを正すためには強い口調が必要だと判断して、それを実行した。
ただそれだけのことです。

教育の現場ではよく
「怒る」のと「叱る」のは違う
と言われます。

もし先の例の場面で、その先生が、
「私がこんなに一生懸命、話をしているのに、それを乱すなんて…!」
とか
「何度も注意しているのに無視して、私に恥をかかせやがって…!」
とか
そんな思いでその男の子に怒鳴りつけたなら、それは「怒り」です。
先生が子供に対してそのように感情的になっていては、指導はおぼつかないと言われますね。

もちろん先生だって人間ですから、感情ゼロということにはなりませんので、程度の問題とも言えますが。

「正義」という「感情の種」

何が言いたかったかと言うと、
「状況に対して必要な手を打つ」のと「怒りの感情を起こす」のとは、別問題だということです。

「腹が立つ」とか「怒りを覚える」というのは、あくまでその人の感情の問題なのですね。
なのでその理由も、その人の感情的なところにあるのです。
ということは、「正義の気持ちから怒りを起こす」というのなら、その「正義」もその人の感情的なものということになりますね。

ただ客観的に不当な状況があるというだけで、必ずしも「怒り」とはならないのですね。

その「不当な状況」という「縁」に触れて、私の中に感情的な怒りが湧くということは、私の中に感情的な「種」があったからです。
「こうありたい」
「こうあって欲しい」
「こうじゃなければ気に入らない」
そんな欲望、願望があるのですね。
また、
「私も本当は我が儘放題やりたいのだけど、こんなにもそれを抑えて我慢しているのに…」
という、自分の中にある「抑圧されている欲望や願望」が「種」である場合もあります。

そんな、私の心の底にある感情的な「種」に、「不当な状況」という「縁」が加わって
「許せない」という感情の爆発が現れる
ということです。

そう考えると、そんな私の感情的な「種」「正義」として、そこから起きる「怒り」を「正義の怒り」としてしまうことは、実は極めて危険なことと言わざるを得ません。
「感情の爆発」という、制御のきかない危うい人間の心を、「自分は正義で相手は悪者」という構図のもとに行動へと押し進めてゆく。
これは、かなり歪んた方向へ駄々走りする危険があります。

さっきも挙げた例なのですが、
会社で他人がある上司から不当な扱いを受けている。

その状況を見て、
「許せない!」という気持ちになって、同僚との飲み会の席で、その出来事を話して、みんなで「それは許せないよな!」と話し合う。
そして、「あの上司は嫌い同盟」を結成して、その上司に対して冷ややかな態度で接する人を増やしていく…
そんな人もいるでしょう。

一方、この状況を見て、
「こんな不当な扱いが横行しているのは、なんとかしなければならない」
と思った。
「こういう問題を取り扱っているのは、あのコンプライアンス統括部門のあの人だ。」
と、問題提起すべき相手を認識する。
「あまり主観を入れた報告では信頼も弱いだろうから、ちゃんと、客観的な事実と状況をまとめて文書の形にして、メールで送ろう」
と、打つべき手を判断し、それを実践する。
その報告を受けたコンプライアンス統括部で、事態の調査がはじまり、問題点の本質を見極めた上で、然るべき人から然るべき対処が行われてゆく。
そうやって、会社環境の改善に貢献する。
そんな人もいるのですね。

怒りにまかせた行動なのか。
冷静に状況をみて、最善の手を打っているのか。
これは大きな違いとなります。

「怒り」は、確かに行動を起こす原動力になります。
結果的に「怒り」があったからこそ、頑張れた、状況を打破できたということだってあるでしょう。
「怒り」が必要的に機能する場面も中にはあるかと思います。

だけど基本的に「怒り」は危ういものという認識は必要です。
「怒り」は、「欲を妨げた相手を徹底的に打ちのめす」という方向に一点集中となってしまいますから、周りが見えなくなってしまいます。
「怒りながら周りに気を配っている」とか、ちょっと想像できないですよね。それはだいぶ冷静です。
「広い視野から、的確な解決手段を選択する」ということが、「怒り」状態では難しいです。
「相手を打ちのめす」以上に大切なことがあっても、そんなことを考慮してはおれません。
「アイツを打ちのめす」それ一つに一点集中で、思考は全てその方向へと向かっていきます。

いろんなバランスのとれた思考が必要となる大人社会の場面であればある程、そぐわない行動に向かっていくリスクは高くなるでしょう。

さらに、「怒り」は加減を知りません。
たいていの場合、「やりすぎ」になります。
まして「正義の怒り」ともなれば、ますます歯止めはきかないでしょう。

出来ることは一つ…「見失わないこと」

というわけで、怒りを起こさないようにしましょう。
…なんて話が結論というわけでは、ありません。

というのも、それは無理です。
「欲が妨げられた時に起きるのが怒り」
だと、最初にお話しました。

「欲」のない人は、いませんね。
というより、基本的に人間を突き動かしているのが欲であり、それがなければ、何一つ「頑張る」ということがありません。
仕事に一生懸命になるのも、勉強して知識やスキルを向上させるのも、他人に優しくするのも、その行動の根本には、「他人に認められたい、尊敬されたい、好かれたい」「収入を増やしたい、いい生活をしたい、家族で安心して暮らせる未来を掴み取りたい」…そんな願望、欲望があってのことでしょう。

そんな欲で動いているのが私で、その欲には「限界」というものがありません。
どこどこまでも広がってゆくものが欲です。
ということは、私達の欲は、どこかで必ず誰かによって「妨げられる」ということがあります。

「怒り」が起きるのは「欲が妨げられた時」と言いましたが、これは誰もが避けられない状況なのです。

そんな私達に、
「怒りをエネルギー源として行動している」
という状況は、必ずあります。

そこは変えようのないところなのですが、仏教で重視するのは、
「そんな自分をごまかさずに見てゆく」
ということです。

「これは正義だ」
「正当な主張だ」
「悪いのはアイツらだ」
という、表面上のことや相手のことばかりを見るのではなく、
そうやって行動している自分自身の心の底を、ごまかさずに見つめてゆくことが大切だと教えます。

自分の心の奥底を知らず、未知の感情的な何かに支配されている状態をただ「正義」と呼んで突っ走っているのか、
それとも、
自分の心の中に渦巻く欲望をごまかさずに観て、そこから起きる怒りの爆発という実態をもごまかさずに見られるか。

結果が全く異なってくることは、言うまでもないですよね。

自分も周囲も大切にするための秘訣は、「怒り」を「怒り」と、ごまかさずに観ることなのですね。

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