「ここ一番」のところで緊張して力が出せない弱点を克服した話〜「行為」の重みを知る〜

「いざ本番」で力を出せないのは…

「本番で緊張してしまって実力が出せないタイプ」
っていますよね。
私も結構そういうタイプだったかなと思っています。

小学、中学、高校とサッカー部だったのですが、
やはり試合本番となると緊張してしまうタイプでした。
動きもカタくなって、ミスも増えて、練習の時よりもパフォーマンスは落ちていたような気がします。

「いざ本番」となると、緊張や不安や恐怖で胸一杯になってしまう。
この性分には、ずいぶんと苦しめられていたような気がします。
個人差はありますが、誰しも多かれ少なかれ、肝心なときの「心のコンディション」に悩まされることはあると思います。

なにせ心の問題なだけに、コントロールが難しいのですね。
体調だったら、食べる物や睡眠時間を気をつけてある程度コントロールできます。
そういう物理的にコントロールできる部分なら、まだなんとかなるのですが、
目に見えない「心」の問題となると、何をどうしたらいいのか分かりづらいですよね。

だけども大切です。「心のコンディションを整える」という事は。
何事に挑むにしても、その時の精神状態は間違いなく結果に影響します。

もちろん、それまで努力して勉強していたこと、スキルを磨いてきたことが、まず重要なことは言うまでもありません。
何の努力もしていなくて、スキルも全然未熟だとすれば、それは「挑む」以前の問題です。

けど、それらの積み重ねがあるとしても、「現場」というものは千変万化します。
それが試験であっても、
それが仕事であっても、
それが何かのパフォーマンスであっても、
過去に積み重ねた努力に加えて、
「今ここでその磨いてきたスキルを活かす」
という最後の一手は、決定的に重要で、結果を大きく左右します。
その「一手」を絶妙の形で打てるか、打てないかは、その時の「心のコンディション」にかかっています。

本番に弱かった私は、この現実が本当に嫌でした。
長い間、苦労して努力を重ねてきても、最後の一手でその努力が台無しにもなってしまう事が、
とてつもなく理不尽な事に思いました。
私は自分で、
「コツコツと努力を続けられる」
という事には自信がありました。というか、自分の唯一の強みだったと思います。
だからこそ余計に、
「本番で緊張して、スキルをうまく活かせない」
という事が数々の場で致命傷になってしまう現実が、辛くて仕方なかったのですね。
「どうして、コツコツ頑張るだけで報われる世の中になっていないのか…」
そんな事をいつも思っていたように思います。

だけど、「心のコンディションを整える」ための努力こそ、怠ってはいけない、逃げてはいけない事だったのですね。

自分の「行いの力」が信じられなかった私は…

私が本番で力が出せなかった原因は、
「自分の行いの力を信じられなかった」
という所にあったのだと思います。

仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言います。
そしてその「業」には、非常に強い「力」があると教えられます。
これを「業力(ごうりき)」と言うのですが、
こういう事を言うと「怪しい話になってきたな…」と感じる人は、きっといると思います。
いわば「目に見えない力」というものが出てくる話ですね。

私自身、「そういう目に見えないものは信じられない」というタチでした。
たとえば、
トレーニングをしたら筋肉がついて身体能力が上がるという事なら、目に見える肉体の話ですから信じられます。
数学や英語などの勉強をすれば、学力が上がって問題が解けるようになる、という事も信じられました。
頭に入る「知識」も「解法」も、またテストで解くべき「問題」も、ハッキリと認識できるものばかりですから。
「トレーニング」という行い
「勉強する」という行い
この「行為」についての「因果」は、とてもシンプルで分かりやすいものなのですね。
もしかしたら、かつての私が信じられた「行いの力」は、それだけだったのかもしれません。

しかし、他にも私は日々、色々な「行い」をしていますよね。
どこかへ行ったり、だれかと話したり、友達と遊んだり、メールを送ったり、店で買い物をしたり…
だけど、それらの「行い」が自分にどんな報いを引き起こすか、なんてとても読めません。

シンプルで分かりやすい「行為」の因果はごく僅かで、
すぐには目に見える結果として現れない「行為」の方がずっと多いのですね。
そういう、なかなか「読めない」「把握しづらい」ような因果については、とても信用できませんでした。
だから基本的に、
「自分の行いが、自分に報いをもたらす力」
なるものを、私は信じられずに生きていました。

だけど考えてみれば、
「目に見えないもの」
「自分の頭で把握できないもの」
に対して、その存在を否定するという考え方は、あまりに狭い了見と言わざるをえません。
世の中の学問は、そういう「目に見えない」「いまだ把握できてない」ような因果を、
決して否定することなく、探求し続けてこそ発達して行ったわけです。
そうして、人間の知見は広がっていったわけです。

そういう狭い了見を捨てて、「目に見えない因果」に、ちゃんと目を向けるようにした時に、
「行い」という「原因」が、「結果」を引き起こすことなく消えてしまう事などあり得ない
というシンプルな道理を理解することが出来ました。
仏教ではこれを「因果の道理」と言います。
「どんな結果にも必ず原因があるし、原因があれば必ず結果が現れる。」
あらゆる分野に通ずるこの道理は、私達一人一人の「行い」とその「報い」の因果にも当てはまるという事なのですね。

「トレーニング」や「勉強」という原因が、ちゃんと自分に「報い」をもたらすのならば、
他のあらゆる「行為」も、必ずそれが「因」となって、自分にその「報い」をもたらす。
この、あらゆる「行為」が持つ、私に報いをもたらす力のことを、「業力」と言います。

「行為の重み」そのものを知った生き方

どんな「行い」にも、自分の報いをもたらす「力」がある。
この「業力」を理解し、その理解に基づいて生きれば生きるだけ、
「自分の行い」に対する見方は大きく変わってゆきます。

「練習」の場面だろうが、
「勉強」の段階だろうが、
「本番」の場面だろうが、
「現場」の場面だろうが、
そんな「場面」に関係なく成り立つのが「道理」であり、
あらゆる場面の「行い」に、間違いなく私の報いをもたらす「業力」があるのですね。
だから、場面を問わず、「自分の行い」に宿る「重み」をみることができます。

そうなると、
「今は練習だから安心」とか
「今は本番だから、ここでちゃんとしなきゃ」とか
そういう事と関係なく、自分の「行為」をベストなものにしようと努めることができます。

この「行い」が普遍的に持つ「業力」を理解していなかった頃は、
「今はこういう場面だから、自分の行いは重要だ。」
「今はこういう場面だから、自分の行為なんて軽いもんだ。」
そんな「場面」に振り回されて、自分の「行為」を重視したり軽視したり、全く一貫していなかったのですね。
そんな事だから、肝心な場面で、自分の「行為」をベストなものにすることができないわけです。

軽くみている時は、手を抜き放題になってしまうし、
重くみている時は、必要以上に気負ってしまい、やはり力が出せません。
「行為」そのものの「重み」を知らず、「行為」に対する姿勢はフラつきっぱなし。
これではベストパフォーマンスは程遠いのも当然ですよね。

自分の「行い」の力を深く理解して、常にベストパフォーマンスを追求するようにしてこそ、
「ここぞ!」の時に、自分の持つスキルを最大限に活かして、最善の「手」を打てるのです。

因果の道理の理解と、その理解に基づいた生活上の実践の繰り返しこそが、「真の勝負強さ」を体現する道なのですね。